脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

海外でえらそうに言え

2018-11-14 | Weblog

私はかつて競技者であったが、たぶん私のように自由すぎる人間は日本では受け入れらなかったであろう。まず米つきバッタのようにへこへこしない態度は横柄にうつるだろうし、大きい声であいさつなどできない、監督の言うことにはいはいはいと従って従順さを示すことができない、所謂素直なバカになれないのだ。さらに私が理解できないのは師匠みたいな奴の存在である。うちでは冗談でビギナーにマスをやってもらったりミットをもってもらったりする時「あれが君の師匠や、なんでも好きなように使ってくれ」と言うが、しかし格闘技の世界はガチでそういう関係があるのでついていけない。たぶんそういう関係をつくるからハラスメントが起きやすいのだと思っているのだが、私から言わせてみたらスポーツをやっている人間は個性がない。素直なんだけども何かが足りない、本当に自己主張できる人間がかなり少ないと思っている。

最近運動クラブのセクハラや暴力が問題になっている。英語ではそういった行為をハラスメントと言うが、こういった行為にたいして欧米では規則があって、そういうことがおこらないようにしているのだが、それはただ指導者をしばるだけのものではなくて、競技者もこういうことをされたら声をあげてもいいよと言うことでもある。日本では競技者は就職などの進路をにぎられているからそう従わざるを得ないと言う人もいるがこの意見は受け身すぎると思う。私にしてみたらなぜもっと自分の権利を主張しないのか不思議だ。自分たちが逆らったら試合に出してもらえない、でもしかしそうだからと言ってアメフトのように人がケガをするぐらいのタックルをするのか、私からしたら言うほうも言うほうだが言われて従うほうにも問題はある。おかしいことはおかしいし、間違っていることは間違っている。たとえ就職を取り消されても試合に出してもらえなくても間違ったことは間違っていると言える強い心を養うのがスポーツの精神だと思う。私から見たらスポーツの監督は自分に服従させて従わせてコントロールすることが第一の関心ごとだ、本当にスポーツを通して精神を鍛えようなんて思っていないと思う。

監督をお父さんのようにあがめて一門みたいなヒエラルキーは個性をのばすには非常にナンセンスだと思っている。やくざでもないのになぜそういう奴を親玉と認めてそいつらの一門に入らなくてはいけないのか。監督によっては親でも言えないようなことを平気で言って、そういうことを言えるのが自分の特権だと思っているが、俺のおしめをかえたわけでもないのに言っていいこととわるいことがある。しかし師弟関係ではそれがゆるされ、ともすれば自分のために言ってくれているとなるからバカげた話だ。

私のコーチであったジョージはまわりから疎んじられていた。アレンも「彼は変人だと思われている」と気にしていたが、彼は名コーチなのだが、気難しく競技者のほとんどは彼から教えてもらわなかった、どちらかと言えば彼をさけていたようであった。でも意外と私とはうまがあったようで、アレンによるとジョージは気難しいが、ジョージは私のことを認めていて、私だから衝突しながらもうまくいっているらしい。自分で言うのもなんだが私は損得では動かない、おかしいことや間違っていることは違うと言うし、暴力には絶対に服従しない。私はその考え方を海外で貫き通してきたし、暴力排除、弱者の立場に立つと言うのはジムでの基本方針であると言ってもいいだろう。そういう私だからこそわかる違和感が日本のスポーツ界にはある。特に家父長制的なヒエラルキーがきてれつでおかしいともいえる人間関係を生み出していると思っているのだが、常に強者である存在の顔色をうかがう、内弁慶で聞いてもらえる立場でしか自分を主張できない、人にぶらさがる、一方的であることが信念だと勘違いしているあさはかさ、日本でえらそうに言えても海外ではおとなしいと私のもっているネガティブなイメージをあげたら枚挙にいとまがないが、スポーツをやるのにお父さんは必要ない、先輩やそういう人間たちの顔色をうかがうようではだめだと思う。

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