脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

God Bless you! 모든 것이 기적이라고 생각하며 사는 것이다

2018-11-12 | Weblog

今生きていると言うことは偶然ではなくて必然である。人間が生かされているとしたならば誰にでも生きている意味があるし目的がある。人生は必ずしもいいことばかりではなくわるいこともある。でもしかし自分の苦しかった経験や体験は自分にしかできないことで、もしそのことに意味があるとしたならばその悩みや苦しみはこの私が成長するための試練であって、そこには自分だけが与えられた意味や答えが見つかるだろう。

ジウンの教会のフライデーナイトと言う学生の集まりによく言っていたのだが、ある時、韓国人の宣教師が来て話をした。その宣教師はミンゼと言う男が連れてきた何ともうさんくさいおやじだ。そのおやじはイエスが重い病気の寝たきりで立てなかった男を「この男がここに存在しているのは神の栄光が現れるためだ」と言って男をたたせて奇跡をおこしたという聖書の話から病気が治ったとか、歩けない人が歩けるようになったとかめちゃくちゃうさんくさい話をしていた。それは私にとって聞くに堪えない話で、後でふるまわれるコーヒーとケーキとクッキーがなければ帰っていただろう。そしてその後コーヒータイムと言うのがあって、そのおやじは自分のことを信じない私にさらに信じろとせまってきた。でもあまりに高圧的で宗教や哲学の勉強は自分のほうが知っていると思ったので思わず言ってしまった。「あなたの言う奇跡は自分勝手だ。神があらわす奇跡ってそんなんじゃない。人間が弱いと思っていることが実は本当のアドバンテージであって、そこにおいてこそ一番大きな力がはたらくのだ。イエスが当時盲人や病気の一番弱いとされる人間たちに奇跡をあらわしたのはその弱さを通して神の力をあらわすため、それが奇跡だ。決してご利益なんかではない。人間は傷つき、悩み不安を抱えて生きている。けれどもその悩みや不安があるからこそ人にやさしくなれるし、自分が大きく成長できる。障害を持っていてもその人を通して語られる貴重なメッセージがある。私がここに生まれてきたのは偶然ではなく必然だ。人間はすべて生きる意味を持っていて、我々は目的をもっていかされているのだ。もし奇跡があるとしたら弱いものを強くする力が神の奇跡で俺はそのことを信じる」

キリスト教徒はよくギフトと言う言葉を使う。ギフトと言うのは神から与えられた才能とか能力みたいなものだ。でもしかし私なりに考えて、それはスポーツ選手などが持っている能力とかではなく、自分が持ってるディスアドバンテージがアドバンテージにかえられる何かを私はギフトだと思っている。自分の経験や体験は自分にしかできないものだ。でもその貴重な経験や体験を偶然としてしまえば、運がいいとかわるいとか人生がばくちのようなものになってしまうだろう。でもそのギフトが自分には気づかないむしろ自分がディスアドバンテージの中にあるとしたならば、人生はばくちのようなものではなく、自分の欠点や失敗をおそれることなく生きることができるであろう。失敗や欠点が多い私だからこそ言えるが、人間はむしろ失敗や欠点を通して学ぶことが多いし、そこから得るものも多い。

おやじとのやりとりがあった後、キレておやじを詐欺師呼ばわりした私はてっきりジウンにおこられると思っていた。その帰りに彼女がひとこと「今日のあなたの話、私はよかったよ」とにっこり笑って言ってくれたことを思い出す。ひょっとして私は彼女の言うように見える人なのかも知れない。そのジウンに神様を信じるかと聞かれて「絶対者の存在は信じるかも。でも特定の宗教にこだわりはないし、特にあのおっさんの言葉は信じない」と言ったが、私自身この世界には何か大きなものがあることは認めている。

偉そうに言うが私は生きてきて後ろを振り返ったことがない、常に前を歩いてきたと思う。そして今思うことは自分は何か大きな力によって導かれてきたと言うことだ。前回の動画に「御手の中ですべてはかわる感謝に」と言う歌詞がある。人生はいいことばかりではない、むしろいやなことのほうが多い、でもしかし大きな力によって導かれて本当に自分が生きていると言うことに答えがあって意味があるならば、私の生き方はすべて肯定されるのだと思う。

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