MOB英語クラブは発足、大学で経済学を教える外国人講師の協力で毎週土曜日2時から3時まで英会話のレッスンをジムで持つことになった。私が英語教育をジムに取り入れたのは英語が話せるアスリートを育成することと、英語をおぼえることは学問をする上でのアドヴァンテージとなるからである。前にも言ったが語学を勉強すると言うことは物事を深く解釈するため、特に日本人が文系と言われる人たちには必要なことであり、私は語学を勉強すること深く、広く解釈する能力が養われると思っている。
わかりやすい例で言うと外国の医学部は数学や物理と言った理系の基礎を徹底的に学ぶ、そして日本も同じく医学部に入学するためには難解な数学や物理の理系の高い学力が必要とされるのだが、それらをすることでその学問を理解する上でのベーシックな考え方ができる。文系が徹底して語学を学ぶと言うのもそれと同じようなことで、語学を学んでコンテキストをそれぞれ解釈していったら、それぞれの言語によっては解釈の違いがあるので考え方の幅が広がる。英語は共通語で今ではその基本となっている。専門書でも日本語で読むのと英語で読むのでは雲泥の差がある、その言葉の基本である英語を学ぶことは思考をひろげるためにもコミュニケーションを深めるためにも今の時代には不可欠だと思っている。
さてここからが本題であるがスポーツが語学に疎いとそれはまさに村社会だ。監督がお父さんと言う仕組みはまさに日本の古い家父長制、体育会のルールがすべての基本でそれがあたかも黄金律のように考えている。そういう集団はまさに時代錯誤であり、豊かではないだろう。まあ少しこれはおおげさであるが、人権が法として定められたのは1215年に定められたマグナカルタによってである。当時絶対王権であった専制政治に対して貴族がそれを認めさせたのだが、権力がひとつのところに集中すると当然不公平が行われる。スポーツの世界も然りであるが、いくら平等とか言っても自分たちがその世界で力を持ちたいと言う欲や野心が強ければ、そういう人たちが集まる組織ではその群れは正しく機能しない、私はスポーツには不公平やえこひいきがまだまだたくさん存在していると思っているが、私からしたらなぜ日本はアスリートの権利を守るためにそれをやらないのか、外国からもっと参考にしたらいい例もあるのだが、おそらくそういう広がりつつある解釈にたいして対応できずに自分たちのやり方をとおすところに無理がある。やはりこういったことは英語力が問題ではないかと思っている。
西洋には縦社会がなく、女性のアスリートが強く主張できるのは、フランクに物事を考え、言える世界だからではなく、そういうことにおいてきちんと権利が守られている。人権が重んじられているからだ。そういう権利が守られるためにも、物事を客観的に見る力を養うことが大事であり、そしてそのことは教育や教養と深くかかわってくるのではないだろうか。たぶんこういうことは同じ土地だけで生きて、何も学ばない人間にはわからないだろう。何も同じ土地にしか生きることをしない人間を揶揄する気持ちはないが、しかし本当にその集団の質やあり方を問うのであれば、いろいろな考え方をまとめる意味でも、学び、そして自分とは違う人間と意見を交換することは大事なこと、そしてある程度の英語力は必要である。