脱あしたのジョー

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読書、語学そしてクラッシック

2019-01-06 | Weblog

松田華音さんと言う有名なピアニストがいる。彼女は6歳でロシアに音楽の勉強に行ったというすごい経歴の持ち主であるが、今彼女のピアノにはまっている。彼女のピアノの魅力は一度聴いてもすごい感動したとはならないが、しかし二度、三度聞いていくうちに彼女のその旋律に引き込まれていくというような魅力である。特にドイツでのリサイタルは衝撃的で、そこからひきこまれて聴くようになったのだが結構つかれた時は彼女の演奏を聴いている。私がクラッシックを聴くようになったのは友人の影響が強い。ある時ピアノでショパンのノクターンを聴かせてもらって、その曲がすごく優雅で落ち着いていて心が安定したので、それから聴きだした。私はまともな読書、語学そしてクラッシックを聴くことはスポーツ指導者の嗜みぐらいに思っている。

今日は本を読むことがなぜ必要なのかと言うことを説明したいが、この本を読むことだが、このことに関して広く浅くとか言ってたうさんくさいマルチまがいの営業マンがいた。しかしそういう薄っぺらい知識はたいして役には立たない、それはただ知っていると言うことをひらかしているだけ、私の見解では本を読むと言うことは世の中でも通用するような知識を身に着けることである。それが責任者という立場であったらなおさらのことである。

本を読めと言われてhow-to本を読むのがいるが、まずしっかりと読書することが必要だ。本当ならば学生時代にすごく難解な本を読んで頭を鍛えなくてはならない。私も学生時代はたかだか2、3ページ読むのにすごく時間がかかるぐらいの難しい本を読んで格闘した。最初はまったく理解できないが読んでいるうちにその著者と共感できたり、いやこれは違うという理解ができたり、そしてそうしていくうちにもう一人の自分が出てきて、そうなった時にいくらかでもその本を理解することができるのだが、そういう訓練を積み重ねていくことで主観と客観があわさった確かなものさしがもてるのだと思う。しかし日本はhow-to本があまりにも多い。こういう本が多いというのは最低限の思考である事柄を理解できる。考える思考能力をさまたげているのと同じことだ。いわゆる知識を詰め込むだけで考えるための読書をしていないのだと思う。広く浅くではなく、まず一つのことを深くしっかりと学ぶ。そしてそこからさらに広く知識を広げていくことが大事なことで、ひとつのことをしっかりと学ぶから後から身に着けた知識は広く浅くても生きたものになる。

私はコメンテーターでもセンスだけで言っている人間と本当に深く理解して言っている人間はわかるのだが、タレントなんて言うのはまさに前者で、深く理解して何かを言うよりもどうしたらその事柄が支持され、注目されるかというセンスだけを磨いて発言する。日本人は哲学音痴なのでそういう発言を検閲するセンサーがない、だからそういう人間がイニシアティブをとれるのだろう。その群れの指導者が本を読まない、教養がないというのはその群れが何も考えていないのと同じこと、それはその責任者のまわりにどういう人間があつまってくるかということを考えたらよく理解できるが、そういうコミュニティが本当にそこでコモンセンスを理解して、平等にそのコミュニティを運営してはいけないと思っている。読書、語学、クラッシックというのはスポーツ指導者の嗜みだと思う。次回はクラッシックについて書きたい。

 

 

 

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