前にある会員が言っていたことだ。私の考え方や意見は日本人的ではない、日系ブラジル人のスポーツ評論家と言うことがにているらしい。私自身は彼の考えかたがどういう考えかたかは知らないが、この前日本人には体育はあってもスポーツはないスポーツはエンジョイするものだ、日本では体罰が問題になるが、スポーツをエンジョイするものと考えていたら体罰など入り込む余地はないと言っていたが、これは私が何年も前から日本人はスポーツを修業だと勘違いしている。スポーツの本質は楽しむことだと入会の時に言っていることであるが、日本には体育はあるがスポーツはないというのは全く同感である。スポーツクラブでその競技のために小学生ぐらいから子供を追い込むような人たちがいるが、私はそういう人たちは認められない。なぜならスポーツにたいする冒涜であるからだ。誰が小学生といういろいろなことを体験しなくてはいけない時にそれがすべてなどというような感じで指導するのか?小さい価値観のコミュニティにおしこんであほな精神論を洗脳するようなジムは危険、前にも言ったがボクシングという競技はアドレナリンとドーパミンが普通のスポーツよりも多く分泌されるので脳内麻薬(俗語的に)の状態になってそれが快感になる。よくボクシングは一度やったらやめられない、引退してもまた復帰したいと思うのはそのことによるものだと思っているが、子供の時にそういう状態を作り出すということは非常に危険なことである。小学生というのはゴールデンエイジと言われているのであるからその時期にいろいろなスポーツを経験したらいい、子供に遊びを教えるようにスポーツも教えればいいと思っている。がしかし指導者の関心ごとはどれだけ一生懸命やらせて勝つことができるかということだけで、こういう人間たちがスポーツの世界を思いっきり小さくしている。本来スポーツというものは誰でも参加できるわけであって、競技という名においては何ら差別をうけることはないだろう。しかしこういう特別の考えを持った人間が集まれば独特の雰囲気を醸し出す。お前らに何がわかるのかといかにも偉そうな態度で、それは失敗したときに競技者をおこるような態度が物語っているが、そういう態度はこれから楽しもうと考えている人たちから見たら非常にうっとうしい存在であって、むしろこいつらが競技者の邪魔をしていると言ってもいいだろう。リングサイドからおいそこというやつ、くつがそろっていない、あいさつの声が小さいと叱るバカ、そこは公共の場というよりも自分のなわばりだと思っているのだろう、こういう奴に何とか何々とかあほな肩書を持っているのだから始末が悪く、こういうやつらがいる限りは一部の人間しか競技を楽しむことができないであろう。
この前転勤で4月に他県にうつる人が「他県でもボクシングがここみたいに自由にさせてくれるところがありますかねえ?」と聞くのでどこか必ずある。ただ場所によってはあれこれとなんくせをつけられてお前何をやって来たんだと言われることもあるが、その時は「でもその人英語は理解できますよ」ときついいやみを言ってやれと言ったのだが、これからのスポーツ指導は当たり前だがここが重要である。まだまだ日本のスポーツは外国から学ぶことが多い、まあ野球は若干メイドインジャパンになっているものの、しかしボクシングなどはまだまだ精神論的も含めて外国から学ぶことが多々ある。私は個人的にはスポーツ指導とスポーツを競技者として競技することとは別の次元でとらえている。スポーツの実績がなくても別の次元で学べば素晴らしい指導者になると思っているのだが、日本はオリンピックに向けて指導者を育成していくのも一つの課題であると思う。おそらくそれは日本よりも外国のほうがわかっていることであるが、そのスポーツ学が進んでいる諸外国から学ぶためには英語が必須条件である。これからの指導者は英語が話せないと失格だということを聞いて、何を言っているんだとか現実を考えろと言うことを言っているようでは先が進まない。実はこのことをどうとらえるかということが大事であって、そうはいってもねえ困るんですよの環境ではアンデイ(だめ)だ。ここで英語などの語学を教えているのは競技者だけではなく、指導者として携わってくれる人が出てきてくれたらいいと考えているからで、そのためにはその必須条件の英語を理解することである。
子供のボクシングに関しても英語でこういう論文が出てますよと聞かれて「俺は英語がわからない」と言うのかそれとも逆切れするのか、多数で大丈夫ですよと誤魔化すのか、自己責任と言って責任能力のない子供あるいは親に押しつけるのか?義務教育程度の次元で物を考えることができないこういう人間でも指導者になれてしまう、そこがおそろしい。