そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

浦上天主堂の原爆遺構としての保存の長崎市民の声はかき消され、被ばくマリア像は彷徨う

2024-08-19 | 


長崎にはかつて、「幻の原爆ドーム」とも呼ばれる遺構があった。浦上天主堂である。爆心地から400メートル離れていたが、ほぼ爆心地である浦上天主堂は、隠れキリシタンが明治維新後の開放になったこともあり、1925年に東南アジア各地の寄付などを集め、東洋最大の規模を誇る天主堂として完成した。
原爆によって信者8500人を失ったが、三ヵ月後には浦上天主堂で信者たちは慰霊を行っている。(上図の上)10か月後には、大々的な慰霊祭も行われていた。(上図下)市民感情も遺構としての保存に強く傾いていた。
イスラエルに招待状を出さなかった現松井長崎市長の祖父、田川市長は長崎市議会の前回全会一致の決定に沿って、或いは多くの長崎市民の遺構保存の希望を受けて、浦上天主堂の保存に前向きだった。
ところが、姉妹都市のアメリカ・ミネソタ州のセントポール市を1956年に訪問した後に、態度急変し天主堂の撤去に踏み切った。 何があったかは不明であるがキリスト教国家のアメリカにとって、教会を直撃するようなことをメモリアルにされてはたまらんと思ったのは容易に推測がつく。
結局天主堂は撤去され、側壁の一部は爆心地公園に壁の一部とともにひっそりと移設された。(下図)
浦上天主堂の建設地は、切支丹弾圧の急先鋒の庄屋の土地であり、その周辺は非差別部落に隣接し、また大陸からの移住者(主に朝鮮人)の居場所 であったことも複雑に関係している。
更に瓦礫の中から、イタリアから贈られたマリア像の頭部が奇跡的に見つかttのである。目に嵌められたエメラルドは爆風と閃光と熱線で溶けて焼けただれたマリアの目は大きく陥没し空虚な訴えをしているかに見えるものであった。
マリア像の頭部はその後、居場所のないマリア像頭部は欲顔同に名が何保管されたり、ローマ教皇に展示されたりチェルノブイリの厳罰事故地のベラルーシに展示されたりされている。
被爆マリア像頭部   


羅臼港

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