高齢者外出介助の会

さあみんなで出かけましょう!

死から思うこと

2014-06-15 21:27:13 | 思い出

さろんに来られていた高齢の方々が続けて亡くなられました。喉頭癌で声を失ったSさん。肺炎は治ったけれど転院されて自宅に帰ることなく亡くなられたTさん。

とりわけ悲しいと思ったのがTさんでした。ご夫婦仲が良く奥さんの骨折と治療で最後は二人が同じ病院で同室に。

亡くなられる前日にお見舞いに行ったら、ご主人は拘束服?つなぎでファスナーで襟のところに自分では開けられないボタンのようなものがついたパジャマ姿に驚きました。

転院してますます悪くなっているようで、この様子は生きる意欲を奪っているうえつらさが見え悲しと思いました。

亡くなったと知らせが入り、最後にあった姿が思い出され自分らしい終わり方ができなかったTさんの無念さを思いました。

一方のSさんは自宅に最後まで居たいと希望でヘルパーさん、ケアマネさん、訪問看護師さんなどの支えで願ったように逝かれました。

どちらの終わり方も、またそれどれの人生だと思うのですが、Tさんの痛ましい様子がつらいなあと私はおもって、また頑固度を加えるのではと思いながらも、入院はしないぞ!とまた決心を新たにしました。


今年もお世話になりました

2012-12-29 10:40:00 | 思い出

ブログを久しぶりに見て自分でびっくりです。

なんと12月は書いていなかったのですね。理由は一杯ありますが、一番は定款変更手続きが進まなっかったことです。

やっと、多分12月末に書類は通過したと思うのですが。なれない活動予算にアタマを悩ませ眠りも浅くプレッシャーは相当ありました。やっと、新年を迎えられる気ぶんになってきました。

今年も多くの皆様にお世話になりました。ご支援もいただきました。

まず会の財政が高額寄付をいただき2年は安心なこと。同級生が突然さろんに来て、その後はハーモニカでサロンの皆さんに楽しみをくださっています。念願だった若い子育て中の皆さんと交流ができないか考えていたのが、近くにある「田中キッズクラブ」の院長さんが訪ねてこられ、「何か一緒にしませんか」と提案をいただきました。

早速ハーモニカで一緒に楽しむことになりました。また折り紙の好きな会員さんに手伝っていただけることになり、新しい年に新しい芽がそだちそうです。

悲しい別れもありました。博識のIさん、いつも袋を作ってプレゼントくださったMさんなど。会の理事をき受けて財政を心配しさんてくだっさていたHさん。新しいプロジェクトを考えてくださっていた矢先に病で倒れ12月に悲しい知らせがありました。

いつも今日を最後と出会いを楽しみ心残りなくと思っていますが、のぞもとすぎれば忘れるのです。

いろいろありましたが、来年は良い年になるよう邁進します。楽しい出会と別れがあるでしょうが期待しています。皆様にとって良い年になりますようにお祈りしてます。


年末に

2009-12-29 15:11:24 | 思い出

年末になると思い出すことがあります。高校生時代のことです。いま思うとカラーで表現するとブルーだったと思う時代のこと。

理由は学校(クラブはしていた)と家と帰りに寄り道する本屋だけ。この三角形を毎日あきもせず繰り返す日常でした。なぜ?といっても本以外に興味を引くものが無かったのも事実ですが。

それで、父からいくら小遣いをもらっていたか忘れましたが、12月末に貯まった小遣いから困っている人に寄付をしようと思い立ったのです。

当時の5千円(今思ったら若い方の1ヶ月の給料ぐらいになるようです)を持って千林の交番に届けようと家を出ました。

千林に着いてからいろいろ考えたのです。「交番に置いて逃げ出したら誰か分からないから良い」と。「不審に思われるかな」「名を名乗って新聞などに載せられたらこまるし」。

交番の前を何度も行きつ戻りつしました。そして気がついたらそのお金がなくなっていたのです。

それで、今までの悩みは何んだったろう。これでどんなにして寄付をするかという悩みから開放され、意気込んでいた肩の荷も降ろすことができました。

「誰か困っている人に届いてほしいと」願いながらやっと帰途に着きました。

今なら寄付先も一杯情報がありますが、未熟な高校生だった時のちょっと苦い思い出です。


終わりの時

2009-12-16 13:56:24 | 思い出

枚方でボランティア活動を一緒にしていたSさんから電話がありました。多くの出会いの中で私の尊敬するお一人です。

「もうボランティアが出来なくなったので身を引きます」と言われるのです。

理由は今年の夏にご主人が亡くなられたこと。その前から肝臓が悪く入退院を繰り返し歩くのも人に心配をかけること。立ち居振る舞いにも周りの人や息子さんたちが気にされていることなど。

私は、枚方から活動の地を大阪市内に移して15年になります。その間一度もお目にかることなく来てしまい、昔のように声も張りがあり年を取られた実感が湧いて来ません。

Sさんを尊敬しているのは、まず穏やかな方。お母さんの話をされたのですが、このお母さんに育てられたのでSさんのような人格を持っようになられたと感動したのです。

20数年も前ですが、電話で「今日わらしべ学園で洗濯を干し終わって空を見たら風で干した子供たちの服がひらひらとしていたのです。そのとき、体の弱かった私がこんなことが出来るようになり健康な体になったと嬉しくなった」と言うよな事を話してくださったのでした。

ボランティアのリーダーをしていましたが、苦しく嫌なことがあって、この電話で慰められ喜びが与えられ勇気と感動が心からわきあがりました。

苦しいことがあるけれど人から喜びを分けていただき、それもすぐになくなるような喜び以上に心の深みからあがってくるようで「この喜びは誰にも奪われない。リーダーをしている褒美だ」とその時思いました。

こんな出会いで心の端に大切な人としてしまっていました。

誰にも終わりは有りますが自分で決めるのもまたSさんらしいと名残惜しい電話でした。


いきる覚悟

2009-11-26 11:11:52 | 思い出

トウゴマを探して漢方薬屋さんに行きました。

いつもサロンに来ておられた○○さんが居られ久しぶりに出会いました。

顔色が悪く元気の無い様子。話しかけますと「寝たきりになりたない。外で倒れてもいいと思って出ている」。気迫に息を呑みました。

20年以上前にもなると思いますが、枚方の老人ホームに行っていたときの事を思い出しました。

4人部屋は当たり前の頃のことです。

いつも元気な方の顔が見えないので聞きましたら、その方は倒れられたのでホームでは「静養室に移ったら」と寮母が勧めたそうですが4人部屋で良いと応えられたそうです。

みんなと一緒だと決められた当番はしなければならず、寮母さんの心配の中でトイレ掃除などもされていましたが、倒れて一週間ばかりで帰らぬ旅に出られたと聞きました。

ホームで何時倒れても良いと覚悟されていたのだと思ったのですが、老いることは生き切る選択をいつも迫られていると再び思わされたのでした。