お宿&かふぇ 布屋 《主人のひとりごと》

120年経った京町家を改修した民宿『布屋』

思い出の地 北海道その4(お墓参り編)

2013年07月07日 17時48分34秒 | 旅先で
ホテル検索サイト「一休」の早割で予約しておいたので小樽の宿泊料は朝食付きで一人¥5250という破格値です。客室も期待していなかったのにチェックインした部屋はなんとバスルームが洗い場付きでトイレが別にあるタイプで驚きます。



朝食もバイキングスタイルで広い明るいレストランに行くと老若男女が結構おられます。意外とご年配のご夫婦が(60代~)目立ちます。うちも最近は結構中年以上のお客様が増えていますが、みなさん元気で何よりですね。バイキングは和洋ミックスですが、自分で作る海鮮丼にひかれ今朝は珍しく和食でせめてみます。





でも我々は欲張りなのでついつい洋食コーナーのパンケーキとワッフル、ヨーグルト、珈琲も取ってきて朝からお腹いっぱいです。ホテルをチェックアウトして駅前のトヨタレンタカーに急ぎます。実はレンタカーを利用するのがこの年ですが初めてで、ちょっと緊張します。いつも軽に乗っているのでここはトヨタヴィッツを頼んであります。実はカーナビも使ったことがありません。係の方より簡単に説明を受けて(さっぱりわからんままに)さあ、積丹半島へ出発です。国道5号を函館方面に進みます。途中ニセコの手前までは内地の道路とそんなに変わらない海べりや山の中を進みます。ちょっとぎこちない運転のためうちの奥さんも心配顔です。国道5号から国道229号に入るころから北海道らしい道路になります。制限速度60キロで走ってるクルマはありません。80くらいまでの安全運転で走っていると「軽」とかにもびゅんびゅん抜かれます。今は雷電国道という名称がついたこの道も昔は海べりの崖道で道幅も狭くしかもこれから向かう「神恵内村」の先で道路は途絶えていました。途中泊村を通ります。原発があるこの村に至る道は高速道路かと思うほどとても素晴らしい道で、しかも交通量は極端に少ないので慣れないクルマのドライバーには快適です。左手に日本海を眺めながら昔の崖道は新しく掘られた長ーいトンネル道路でスイスイ走ると神恵内村に到着です。道の駅「オスコイかもえない」で休憩です。



ホタテが水槽にいっぱい入っていて一つ¥200です。うちの奥さんがもう少しで買いそうなのを止めて(この先長い予定なのに見ると買いたくなるんですね)長いトンネルをいくつか抜けると目的の「珊内村」に着きます。この小さな漁村が僕たちが学生時代にお世話になった「えりもの父さん」が生まれ育った家があります。その隣に「積丹かもいユースホステル」があり「かもい」は母さんがペアレントで、「えりも」が父さんがペアレントで二人は別々のユースでその当時の旅の若者たちを受け入れていたわけです。我々は昭和50年(1975年)に「えりも岬ユースホステル」で共にヘルパーを経験して、縁あって、そして今京都で民宿をやっているのも実は父さんと知り合ってなかったら、ありえなかったことかもしれません。その後、ユースもいろいろありましたが10年ほど前に突然病に倒れた父さんのお墓にいつかお参りしようと予てから思っていたので、珊内村に着いて青い日本海を眺められるお墓に着いたときは思わず涙したものです。



こんなに遠いところなのに父さんのお墓参り(母さんも)に来ている当時の「えりも」や「かもい」の仲間たちが多いのもお二人の人徳だと痛感します。本当にお天気もよくて、はるばる訪ねてきてお墓参りを済ますと、僕たちの気持ちもなんだか一段落したようです。ここまでの道案内は前もって東京の仲間の「N」ちゃんにナビゲートしてもらっていたので全然迷わずにたどり着けました。ホントご協力ありがとうございました。しかしこんな北海道の果てにある(確か当時は途中までしかバスが来ていなかったトコロです)ユースに皆何を求めて旅をしていたんだろう。母さんも亡くなった「かもいユース」は当時のまま朽ちかけていました。





今思うにどちらのユースも海に面していて都会で育った僕たちは海を眺めらる土地で何かを求めていたのかな。海岸のほうに行くと昔、母さんが生きたタコを捕まえていたことを思い出します。しばらくそんな海を眺めた我々は先に進むことにします。つづく。