半透明記録

もやもや日記

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巻貝の家

2012年06月14日 | 夢の記録





またしても、夢。
夢を記録し続けていると、私の夢にはやはりある一定のパターンがあるということに気がつきます。今朝の夢もいつかとよく似た状況、よく似た風景。

舞台は、長崎。私は実際には行ったことのない土地なので、現実の長崎とは別の、たぶん夢の長崎。島尾敏雄の「摩天楼」と同じく、夢の、「Nangasaki」かもしれない。

長い列車での移動。乗り換え。そして、その乗り換えに失敗するところがいつものパターン。

乗り換えのために町を彷徨うと、ある見知らぬ人(芸術家夫婦)の家に招かれる。その円形をした家の通路を延々と歩く。反時計回りの回廊が無限に続くイメージも、私のひとつの夢のパターン。

今朝の夢は、私の夢にありがちな要素に溢れていましたが、いつも通り面白かった。



*******************



私は仕事で長崎へ向かっている。列車に揺られ続けた末にようやく到着した。脇には大きな黒い図面ケースを抱えていたかもしれない。しかし、ここが終着ではなく、私はまだ列車を乗り継がねばならない。ホームに降りると、乗り換え口に続くはずの下り階段が見えたのでそこを下りると、どういうわけか長崎の市街に出てしまう。そしていつの間にか目的地を同じくするらしい見知らぬ男性と並んで歩いていた(もしかするとこれは同僚で、ここまで一緒に旅してきたのかもしれない)。

初めて降り立つ長崎の町は、小規模だった駅とは異なり、駅前には広く真直ぐな道、ずらりと赤いレンガの建物が並ぶ美しい賑やかな町だった。商店の2階部分に掲げられた看板の太い文字は右から左へと書かれている。大勢の人が行き来し、静かな活気に満ちていた。

連れが言うには、乗り換えにはここから少し歩かなければならないのだという。彼の指差す方へ目をやると、建物と建物の間の狭い路地をぞろぞろと歩いていく人の姿が見える。あれについていけばいいのだ。

人々が並んで歩くその路地はごく狭く、壁も地面も灰色で、向こうへ行く人は沢山いるのに、こちらへやってくる人はひとりもいない。我々も最後尾からついて歩いていく。すると、道は次第に上り坂になる。

坂の途中の左手に、立派なお屋敷があった。白く高い塀には大きな表札がかかっていて、その灰色の地には白薔薇の装飾が一面に施され、その上に真っ黒な華麗な装飾体で3人の名前が彫られていた。うち2人は近ごろ世に出たばかりの若い芸術家夫妻だそうで、連れはこの人たちと面識があるらしい。もうひとり、表札の一番上に書かれている名前は、彼らの父親のものだという。

顔見知りの家を見つけたということで、連れはここにちょっと立ち寄りたいと言って塀の中に入っていく。私もついていく。

迎えてくれたのは、若い、まだ少年と少女と言ってもいいくらいに若い夫婦だった。妻の方が私を案内してくれる。私は彼女に連れられて、お屋敷の内部を見て回ることにする。


お屋敷は、巻貝のように円い巨大なものだった。その内部のほとんどが人間がようやく二人並んで歩けるだけの狭い通路によって構成されている。中心に向かって曲がる壁が果てしなく続き、部屋らしい部屋はない。

先導する女の子(彼女はレースの付いた軽やかな白い服装、波打つ髪を額の真ん中で分けて腰まで垂らした美しい、まだほんの女の子だった)が私の手を取りながら説明する。この屋敷は、芸術家の彼ら夫婦の稼ぎではなくて、彼らの父(どちらの父親だかは忘れた)が宝くじを当てたお金で購入したらしい。その父親はどうやら不在のようだった。

「これは巻貝を模しているのではなくて、本当に大きな巻貝の中なのよ」。

私と女の子はその巨大な巻貝の内部の狭い通路を中心に向かって辿っていくのだが、その天井は高く、壁には窓がひとつもないが、壁の全面が外の日の光を透かして薄白く輝いているのだった。巻貝の殻は硬くて非常に薄いらしい。私は左手を彼女と繋ぎ、右手で温かく白く輝く壁に触りながら進んでいく。

どこまでもどこまでも貝殻の中を歩いていく。長い長い時が過ぎていって、いつしか私と彼女とは溶け合うほどに親密になっていく。狭い通路の途中に向かい合って眠り、目覚めて頭を持ち上げる時に彼女の長い髪が本当の波のようにゆらゆらと動くのを見るのと、目を覚ましてすぐに彼女と微笑みを浮かべながらじっと見つめ合うのが私は好きだった。

彼女の夫と私の連れ(今やこの連れは私の恋人であることが分かる)の姿はもう随分前から見えないのだが、私たちとは真反対のルートを辿っているのだと確信している。あるいはこの貝殻は二重構造になっていてもう一つの壁の中を同じ方向に辿っているのかもしれない。いずれにせよ、彼らもこの長い回廊のどこかにいるに違いない。中心部で再び会えるのだろうか。


そうして、私と彼女はついに巻貝の中心部へと辿り着く。そこはやはり円い小部屋で天井は低く頭がつかえそうな真ん中に、小さな円い寝台がひとつ置かれている。それは大理石のように硬くて白い同じ径の円筒形の台によって支えられ、寝台と言っても真青の柔らかく薄い布地(これも円い)が一枚敷かれているばかりである。

私と女の子はその上に腰掛けて、互いの手を取り、身を寄せ合って、待つのだった。これからさらに長い時間をこうして待つのだ。誰を? おそらくは私の連れと彼女の夫とを。しかし、待ちながら私は待ち人は決して来ないような気もしている。来なくてもよいと思えてくる。ただ美しい彼女の手のさらさらとした温もりを、その波打つ長い髪が私の肩にもかかるのを感じていられさえすれば、時はこのまま過ぎてゆけばよいと私は思うのであった。


*******************




列車の乗り換えは、仕事は、どうなったんですかね??

ともあれ、気持ちの良い夢でした。キーワードは、反時計回りに上っていく通路、白、美術。電車に乗り換えられない前半はともかく、後半はなかなか良さそうな内容でしたかね。

巻貝のイメージはしかし、ゆうべ「耳がきーんとする」とか思っていたら、そのうち「耳の中がズキズキする」となり、中耳炎になりかかっているのではという心配から生じたものかもしれません。一晩寝てみて治らなかったら耳鼻科へ行こうと思いましたが、寝て、夢を見て起きたら治っていました。助かった!





最近のこと

2012年06月13日 | もやもや日記





フリッツ・ライバーの『闇の聖母』をもうすぐ読み終えられそう。同時に、1日1話ずつブラッドベリの『ウは宇宙船のウ』も読んでいる。さらに同時に、アナトール・フランスの『鳥料理レエヌ・ペドオク亭』も読んでいるが、これは最後まで辿り着けるかどうか、いまのところかなり怪しい。そして次は、フィリップ・ホセ・ファーマーを読むつもり。忙しいぞ! さらにその次は南米だぞ!


「鳥料理」といえば、ゆうべは豚肩ロースにクレイジーソルトをふりかけてジュージュー焼いていたら、K氏から「焼き鳥買った!」とメールが。こないだ私が「焼き鳥! 焼き鳥! 塩味のが食いたいんだ!」と叫んでいたせいですね。そういうわけで、豚肉と鶏肉という肉だらけの豪華な夕食でした。なにこれ、夢みたい。豚も鶏も美味しかったです。そう言えば、私はあまり牛肉を食べません。一番好きなのは豚肉。豚が一番うまいよな。



さて、梅雨入りしてしばらく経ちますが、暑いような涼しいようなよく分からない日が続いて、耳がきーんとしますね。でもまだそれほどの湿気には悩まされていないので、今のうちにできることはしておきたいものです。






『栞と紙魚子』(文庫版第1巻)

2012年06月11日 | 読書日記ー漫画

諸星大二郎(ソノラマコミック文庫)



《内容》
奇々怪々な人々が棲息し、摩訶不思議な事件が頻発する胃の頭町を舞台に、女子高生コンビの栞と紙魚子が大活躍する、諸星大二郎の異色シリーズの待望の文庫版第1巻。
「生首事件」「自殺館」「桜の花の満開の下」「ためらい坂」「殺人者の蔵書印」「ボリスの獲物」「それぞれの悪夢」「クトルーちゃん」「ヨグの逆襲」「ゲッコウカゲムシ」「本を読む幽霊」「青い馬」「おじいちゃんと遊ぼう」「雪の日の同窓会」の14編を収録。



《この一文》
“悪魔のタンクローリーめ!
 地獄へ追い返してやる! ”
   ――「ためらい坂」より





うーん。面白い。
『栞と紙魚子』の第1巻を読みました。私はこのシリーズを文庫版の第2巻から読んだので、いまいち「胃の頭(いのあたま)町」や「段先生一家」、「鴻鳥さん」などのことがよく分からなかったんですよね。それでシリーズのはじめから読めば少しはよく分かるようになるかと思っていたのです。


結果としては、えーと、まあ、何て言うか、やっぱりよく分かりませんでした。でも、「鴻鳥」さんのことはちょっと分かったかな。少なくとも彼女が「人肉パーティーよ!」と第2巻で叫んでいた理由は分かりました。

それから「段先生一家」についても少し理解が深まりました。今頃気がついたのですが、段先生の名前は「段 一知(だん いっち)」。第2巻でも出ていたのに、その時には気づきませんでしたが、ラヴクラフト絡みなんですね。先生の娘の名前が「クトルーちゃん」だから、先生自身もなにか関係があるんだろうとは思ってましたが、ラヴクラフトの『ダニッチの怪』から来ているんだなー。なるほど。“Dunwich”とは、ラヴクラフト作品中に出て来る架空の村の名前。私はまだ読んだことがないけれど、やっぱそろそろ読む頃合いだなあ。段先生の奥さんも、性格が可愛らしいからうっかりしてたけど、どうやら邪神みたいですしね(まあ、あのただならぬ姿から、ただ者ではないことは容易に推測できましたけど)。


さて、第1巻に収められた14のお話はどれも奇妙かつ怪奇、不気味な雰囲気に満ちていますが、やはりどこかほのぼのとさせられます。斧をふりかざして襲ってくる仮面の男や、血を滴らせた袋を手に持って裸足で歩き回る幼女(クトルーちゃん)、女の長い髪と血糊がべっとりと貼り付いたラブロマンス本、などなど恐ろしいものが次々と登場するわりには、読み終えたあとに不思議と爽快感に似た感情が沸き上がってくるのが凄い。こんなに血と破壊に満ちて猟奇的なのに、諸星先生はいつもユーモアを忘れません。人肉料理に執着する幽霊がカップ麺の汁を浴びて「まずいっ! 死ぬ!」と言って消えるところには、諸星先生の天才が燦然と輝いていました。コマの外には諸星先生ご自身による「もう死んでるよ」というツッコミが入っていて、これを見た私は生涯『栞と紙魚子』を愛し続けると誓いました。

どの作品もとても面白いですが、今回特に面白かったのは、「ためらい坂」ですかね。ケーキ屋の親父さんの逞しさに心を打たれました。しかし、紙魚子はなんで『ケーキ爆弾』なんていう本を持ち歩いていたんですかね? しかもそれってレシピ本なの?? オチのつけ方も最高でしたね。これは面白かった。


さあ、これで私は『栞と紙魚子』の文庫版を第1巻から第3巻まで所有することになりました。こないだ本屋へ行った時、第4巻があったのを買っておけばよかったです。次に行った時には買ってきますよ!

私のようにホラーが苦手な人でも読める、ほのぼの怪奇シリーズと言えましょう。世の中は不思議に満ちていて、少しくらい常識はずれのことが起こっても、人生を楽しく過ごすことはできるんじゃないかという気になってきます。栞と紙魚子のように、恐ろしい目にあっても、「やれやれ、とんでもない目に合ったわ!」なんて軽く流していきたいものですね(^_^)







『ジョジョリオン』(第2巻まで)

2012年06月09日 | 読書日記ー漫画

荒木飛呂彦(集英社)



《あらすじ》
S市杜王町(もりおうちょう)。震災後、突如、町の中にあらわれた「壁の目」と呼ばれる隆起物付近で、大学生の広瀬康穂(やすほ)は謎の青年を発見した。彼の身元を突き止めることにした康穂であったが、不可解な現象が2人の周りで起こり始め……!

《この一文》
“ これは「呪い」を解く物語―― ”



荒木先生の新しいJOJOシリーズ、『ジョジョリオン』。『jojolion』と書くらしい。これが面白いらしいという話を聞いたので、私も読んでみました。いや、面白いのはいつも分かっているし、いずれにしろ読もうと思ってはいたんですけどね。実はまだ前作の『スティール・ボール・ラン』を途中までしか読んでいないんですよ。大統領、あのあとどうなっちゃったのかしら…? こんどまとめて読む。



さて、『ジョジョリオン』です。舞台は第4部と同じ「杜王町」ですが、そして登場人物もどこかその時の彼らを思い出させる名前(あるいはその時のまま全く同じ名前)を持っていますが、別の人々の別の物語ということだそうです。私は第4部の雰囲気が好きなんですよねー。なので、この『ジョジョリオン』にも期待しています。

最新の第2巻まで読んでみた感じでは、すごく面白いです! まず、主人公の謎の青年がとても魅力的です。すべてを忘れた状態で発見された彼は、康穂とともに「杜王町」で不可解なトラブルに巻き込まれながらも、調査を進めていきます。自分が誰であるのか分からない青年の物語だなんて、これは燃えるわ!

特に「第1話」の最後のコマが最高でした。奇妙な人物に、奇妙な状況。荒木先生は相変わらず素晴らしいなあ! というのが、とりあえず今の感想です。続きが楽しみです!








蒸し暑い

2012年06月08日 | もやもや日記





うーん。湿っぽい。急にじめじめしてきましたね。近畿は梅雨入りしたそうです。マジかよ!


私は湿気に弱く、手足の先に湿疹が出てしまいます。乾いた冬にさえ手足が汗でびっしょりの私は、こんな季節にはとても順応できません。なにもしていないのに今日も汗だくですよ!(´;ω;`)ヌルヌルして鉛筆も握れやしねえ! そして四六時中手を洗い、タオルで拭う生活が始まるのです。
これから3、4カ月はこんなふうにウンザリしながら過ごすことになりそう。本当にウンザリ。乾燥した夏とか、一度でいいから体験してみたいわ~。


ところで、先日はレイ・ブラッドベリ氏が亡くなりましたね。私はまだこの人の作品をろくに読んだことはありませんが、『ウは宇宙船のウ』(創元SF文庫)は手もとにありました。



追悼に、そろそろ読もうかと思います。これを原作とした萩尾望都先生の同名漫画なら、昔読んだことがあるはずなのですが、内容をどうしても思い出せません。雰囲気だけはおぼろげに残っているのですが…

それからブラッドベリと言えば『華氏451度』ですよね。原作は読んでいませんが、トリュフォーの映画は観ました。ラストシーンの美しさが忘れられない。

漫画や映画になったものばかりで、ブラッドベリの小説自体をまだ全然読んでいないのかと、よくよく思い出してみると、『二人がここにいる不思議』という短篇集は読んだことがあるはず。でも…やっぱり内容を思い出せない。。。だめだなー、私は。
待てよ! 『歌おう、感電するほどの喜びを!』も読んだことがあるぞ!! …やっぱり内容は思い出せないけど……。でもこれは面白かったと言う記憶がありますね。

数少ない私が知っているブラッドベリ作品から感じることは、SF小説というジャンルに対して私が抱いていたイメージからは離れ、ずいぶんと抒情的な雰囲気をもっているということですかね。どちらかというと幻想小説みたいな。そこがちょっと独特でした(ほとんど忘れておいて言うのもなんですけど…。そしてこんなことは既に世間の常識ですけれど…)。

ともかく、『火星年代記』くらいは読んでおかないとですね!







最近はようやく真剣に読書しようという気分が高まってきていたのに、手汗がひどくて本に触れなくなってしまったという、罠!

工夫してどうにかしようと思います(^o^;)




金星の太陽面通過

2012年06月06日 | 学習




本日の大阪の空はこんな感じでした。雲はやや多いものの、すぐに流れていくので太陽の様子を観察することができましたよ。


本日6/6には、金星が太陽の表面を通過するとのことで、私は先月の「金環日食」に続き、今回も日食グラス越しに太陽を見つめてみました。

さて、晴れ間を狙って4、5回観察してみたのですが、えーと、何と申しますか、太陽も金星も肉眼だと小さすぎてよく見えない…!(´;ω;`)
写真に撮って拡大すればいいかな、と思って撮ってみたのは、こんな感じ。


 午前11時頃の太陽の様子。

……、うん、太陽って丸いですね(^o^;)

ダメだ! 私の装備ではこれが限界!! 天体望遠鏡があれば、もっとまともに観測できたようですが、あいにくとそんな素敵アイテムは持ち合わせておらず…。視力が良ければ肉眼でも確認可能であると【国立天文台】のHPの「観察方法」のところには書いてありましたが、とりあえずは私の右目の「1.5」の視力ではよく見えませんでした。無念!



この「金星の太陽面通過」は、前回は2004年の6/8にあったそうですが、そのときは私は気づかずにぼんやり過ごしちゃってましたね。次回は105年後まで起こらないそうです。

今回はつまり私が生きている限りでは最後のチャンスだったというのに、自分の目で確認することができなかったのは残念です。しかし前回2004年の時の観測画像が【国立天文台】のHPで公開されています。それを見ると、金星が小さな点となって太陽の表面を通過していく様が確認できますよ。
太陽ってものすごくでかいなあ! というのがよく分かりますね。この小さな点に過ぎない金星よりも、人間というのはもっとずっと小さな存在であることを思うと不思議です。宇宙は広すぎるし、大きすぎるなあ。それでもこれからさらにその広大な宇宙の神秘に近づいていくのでしょうね。遠くの星を、隣町くらいに認識できる日がいつかは来るのかなあ。



正午にも太陽を見上げたら、高度が高すぎて首が痛いです。





『マインド・ゲーム』

2012年06月05日 | 映像(アニメーション)
 2004年 103分

原作:ロビン西
監督:湯浅政明
製作:STUDIO 4℃






生への強すぎるほどの執着。悲しみと苦しみに満ちた世の中で、ゴミクズのように扱われ、欲しいものも手に入らず、無様に惨めに生きるしかないならば、本当にそこまでして生きなければならないものだろうか。とは思うものの、さまざまな困難にぶつかったときにも我々を滅亡させずにここまで連れてきたのはやっぱりこういう執着心なのかもしれない。


電車の中に飛び込んできたのは、久しぶりに会う初恋の相手・みょんだった。婚約したばかりという彼女に連れられて彼女の姉が経営する焼き鳥屋へ向かう西くん。ところがそこにはみょんの父を追う借金取りのヤクザもやってきて、事態は急激に悪化、西くんは拳銃で撃たれて死んでしまう。

というところから物語は始まります。実に胸糞の悪くなる冒頭でした。まるでゴミクズのような人間模様です。世の中ってのは、まったくクソったれですね。

西くんは、みょんちゃんが焼き鳥屋の床で裸に剥かれてヤクザにやられそうになってるのをどうすることもできずブルブル震えているだけで、怒りだけはあってもそれが爆発する前にケツの穴から弾丸をぶちこまれ脳天を破裂させて死んでしまいます。無様な死です。天に召された西くんはしかし、それが惨めすぎると言って、天国で神さまが教えてくれる「消滅への道」を逆走して地上へと戻ってきてしまう。ここから西くんの生に向かっての疾走が始まるわけです。

西くんはまず拳銃で撃たれて肉体的な死を経験し、生き返ってからはヤクザにやられる前に殺ることで逃亡を余儀なくされて今度は社会的な死を経験することになります。自動車ごと橋からダイブしたところを、巨大なクジラに飲み込まれ、西くんとみょん、姉のヤンの3人は、クジラの腹の中で出会った器用な老人とともに、この閉ざされて日の光も届かない場所で暮らすことになるのでした。

さまざまな物が流れ着き、ときどき嵐のような大波に見舞われるというクジラの腹の中の生活の様子はなかなか面白かったです。老人が孤独な30年間で作り上げた住居は素晴らしいものですが、その裏側には30年の孤独と後悔とが深く刻まれているところにズシリとくるものを感じます。他人をすべて踏みつけにしてのし上がりたかった男の末路が、ひとりっきりの暗闇の中の30年間という恐るべき皮肉。私が登場人物の中で好きになったのはこの老人でしたね。だって、この人は耐えたんだもの。

この場所で西くんたちが自分の内面を見つめ直して、かつて抱いて知らぬ間に潰えた夢を、子供の頃に置き去りにしていたり気づかなかった感情を取り戻すところには、ついしみじみとさせられます。4人の人物は、このクジラの腹の中でそれなりに充実した楽しい生活を手に入れるわけですが、そんな平穏もやはり長くは続かず崩壊の日が刻々と近づいて、ついには脱出計画に乗り出すのです。



本当なら、西くんは最初で惨めな死を遂げていたはず。本当なら、その死を受け入れるよりほかになかったはず。でも、そんなのは嫌だと思うとき、そんな惨めに死ぬのは嫌だと思うとき、彼が本当に求めるのは「別の死に方」であると同時に「別の生き方」でもありました。

誰も彼もが、ほんのささいな選択の違いで、良くもなり悪くもなる人生を生きている。すべてはこの心次第。すっかり思い通りにはならなくても、他人から踏みつけにされるばかりでも、ヒーローを夢見た子供がすっかり薄汚れた大人になってしまっても、人間がこの社会でそれぞれに生き延びようとするとき、それには多分価値はある。ただ青空を見上げられるというそのことだけにも得がたいものがある。まだ生きているということには、多分意味があるはずなんだ。



そうまでして生きなくてはならないのか?

どうだろう、私には分からない。私は西くんのようには走らない。けど、彼らと同様に、生きられるところまでは生きようと思う。誰かに踏みつぶされたり、うっかり誰かを踏みつぶしたりしながら、嘆きながら、喜びながら、怯えながら、ときどき楽しんで、通り過ぎるだけの人生をただ通り過ぎるままに生きよう、くらいには思う。たとえ望むものがひとつとして私のものにならなくても、たとえわずかばかりの成果を残すことも生み出すことすらできなくても、ただこの先になにがあるのかを見てみたい。それが何か分からなくたって構わない。ただそれだけのために生きたって構わないでしょう? どうかな、やっぱり分からないけれど……


とにかく、最初から最後まで過剰な作品だったと思います。色といい形といいスピードといい、常軌を逸した過剰さでした。へとへとになりました。結局どういう作品だったのかは理解しきれませんでしたが、この過剰さに激しく圧倒されたのはたしかです。こんなの、よく作ったもんだなあ!








「片おもい」/「たとえばささいなところに…」

2012年06月04日 | 自作まんが





土曜日は、kajiさんとお茶してきました。『化物語』やら『偽物語』やら、『アズールとアスマール』やらのアニメ談義で盛り上がって楽しかったです。それから四ツ橋や南船場をブラブラしたり、ジュンク堂で漫画を探したり、いつも通りとても捗りました。

しかし私が前回kajiさんと会った時に買った『ポーの一族』(文庫版第3巻)を、買ってそのまま放置して読んでいないと告白すると、「どうしてそんなこと(家にあるのに読まないでいること)が起こりうるのか理解不能!」と言われました。うっ、スミマセン(´;ω;`)! でもでも、私は最後まで読んじゃうのがさびしくてイヤなんですの。とは言うものの、ポーはすでに最後まで読んでいるんですけどね。まあ、そのうちに読みますよ…(^o^;)


それはさておき。
kajiさんと会う時にはできれば恒例にしたいと思っている「即興漫画大会」を、今回もがんばって開催してきました。日本橋あたりのカレーが有名らしい落ち着ける喫茶店に入って、kajiさんはコーヒー、私はラッシーを飲みながら、がんばってきましたよ。

では、以下。



まずはkajiさんの 「片おもい」





そして私の 「たとえばささいなところに違いがあらわれるものです」




kajiさんのは相変わらずほんのりロマンチック。少し物悲しいところがいいですよね。今回のはモノローグのみの構成になっていますが、たった1頁の中に時間の経過があらわれているのが凄いですね。また、4コマ目が非常に愛らしい。

私のは相変わらずストーリー性が皆無、刹那的な内容です。しかしこの「どうでもいい感」はやはり私の作風なんだろうと思います。ネタが浮かばず唸っていたところ、喫茶店でお茶のおともに出て来た小さなお菓子の袋から着想を得て描きました。


うーん。やっぱり即興漫画は楽しい! 毎回、描いた漫画は私が預っているのですが、だいぶストックされてきたという感じです。もっと貯めたら綺麗に綴じて作品集にでもしましょうかね☆







『トゥルーデおばさん』

2012年06月02日 | 読書日記ー漫画


諸星大二郎(ソノラマコミックス)



《内容》
「グリム童話」を諸星流にアレンジしたブラック・メルヘン作品集。待望の文庫化!
「トゥルーデおばさん」
「赤ずきん」
「ブレーメンの楽隊」
「いばら姫」
「Gの日記」
「ラプンツェル」
「夏の庭と冬の庭」
「鉄のハインリヒ または蛙の王様」の8編を収録。

《この一文》
“ここ…夢?
 それともあたし
 もう目を覚ましてるの? ”
  ――「ラプンツェル」より




諸星大二郎によるグリム童話のアレンジ。……怖い! 何が怖いって、絵が!! なにこれ、なんなの、この得体の知れないモノは? いや実に諸星大二郎的な世界ですね。実際、「何だかよく分からない何か」を描かせたら、この人の右に出る人はいないのではないかと思います。不気味で恐ろしくとらえどころのないモノどもが、この作品にもたくさん描かれていますが、それでもやはりどこか愛嬌があるのが諸星風味というところでしょうか。

さて、全部で8つの物語。どれも馴染みのある物語ですが(「トゥルーデおばさん」だけは分からなかったですけど)、いずれも諸星大二郎によって新しくなっていました。先の読めなさ加減が凄いですね。「Gの日記」では、主人公の女の子が誰なのか、最後まで分からなかったですよ。私は特に「Gの日記」と「ラプンツェル」が気に入りました。

「Gの日記」は、8つの中では一番ドラマチックだったかもしれません。謎めいた屋敷に暮らす少女。どうしてここにいるのだか、どうしても思い出せない。広い家の中には、少女がいつも食事の世話をしている地下室の子供(これが非常に恐ろしく描かれている…)、眠っているときは目を開けて起きているときは目を閉じるおばあさん、いつも背を向けてひたすら曲芸の練習をつづける男の子。少しずつ謎が明らかになって結末へ向かっていくところは圧巻です。少女の最後の言葉も強烈でした。これは名作。

「ラプンツェル」は、塔の中に閉じ込められた髪の長いお姫さまのお話ですよね。これも、演出次第ではこんなに恐ろしげな物語になるのかと驚きました。こ、怖いっすよ! 謎のずた袋のようなものが、天井からいくつもぶら下がっているとか、人形の首とか、あれもこれも不気味で恐ろしい。けれども、全体的にみればこの「ラプンツェル」はかなり爽快な物語でしたね。明るく美しい結末には心が洗われるようでした。これは素晴らしい。

それから、「夏の庭と冬の庭」も良かったです。これは「美女と野獣」を元にしていますが、いろいろ突っ込みどころが多くて楽しかったです。美女がおもむろに携帯でメールをチェックするとかね、あとあの苦々しい結末…! ディズニー版の『美女と野獣』が大好きな私としては、ひどい、あんなの見たくなかった! まあでも面白かったな。


この『トゥルーデおばさん』は、諸星好きのkajiさんからお借りしました。それぞれのお話の扉絵が素晴しくて、まじまじと眺めたくなるようです。物語はどれも不気味ではありますが恐ろしすぎることはないので、手もとに一冊あると安心かもしれません。私も持っておこうかと思います。何度も読み返したくなる作品集でした!







チェコ映画祭り

2012年06月01日 | もやもや日記





昨日はユキさんと、【チェコ映画祭り】を開きました。チェコの映画やアニメーションなどをいくつか観ましたよ。私のコレクションが役に立つ日がようやく来たぜ! うへへへへ!


昨日観たのは、チェコ映画の名作『ひなぎく』、チェコアニメーション『ガリク・セコ短編集』と『チェコアニメ傑作選II』からポツポツと数作品。どれも面白かったです。ユキさんがガリク・セコの「本棚の世界」にウケていたのは、ちょっと意外でしたが、でもよく考えればそう意外でもないかな。あれは私も好きです。ユーモラスな作品ですよね。


さて、『ひなぎく』を久しぶりに観直してみて、今回私は少し認識を改めました。
この作品については「女の子映画の決定版!」とか「ポップでキッチュな☆」とか「これを観て元気にならない女の子はいない!」なんていう文句で紹介されていることが割と多いのですが、私はどうしてもそこに納得がいかなかった。このしっくりこない感じはなんだろう? とずっと疑問に思っていたのです。とりわけDVDのパッケージの裏にも書いてある「これを観て元気にならない女の子はいない!」の部分には、ものすごく引っかかりを感じておりました。私は全然元気にならないんだけど、むしろものすごく悲しくなってしまうんだけど、どうして? え?? 私がもう女の子じゃないからなの…??


 『ひなぎく』1966年 チェコ


冒頭から、列車の車輪が回る影像とさまざまな爆撃の場面が繰り返され、暇つぶしに男をたぶらかし、小銭を盗み、場所もわきまえず乱痴気騒ぎを起し、名前も持たず住民票もなく何者でもないまま何者になるべきなのかも分からず、もっと楽しいことを、ただもっと楽しく幸せなことを求めてこの刹那を弾けるように生きる二人の女の子は確かに可愛らしい。けれども、彼女たちは自分たちがダメダメだということも自覚している。このままでは幸せになれない。じゃあ、どうしたらいいの? それが本当の心からの言葉にはなり得ないと分かっていながら、自分たちで壊した皿の破片を並べるという不完全なお片づけをして、自分たちが好きな色と形のワンピースのかわりに新聞紙でできたスーツを着て、「私たちはいいこ。だから幸せ」とつぶやいてみる。落ちるシャンデリア。そして再び回る車輪と爆撃影像。

私には、どうやって「これを観て元気に」なったらいいのか分かりませんでした。けれども、今回あらためて観て、ユキさんとあれこれ話し合っているうちに、私は少し暗い方へ考え過ぎていたかもしれないと思ったのです。あの結末はたしかに痛ましいもののようではあったけれど、同時に恐るべき反骨精神、自由と幸福を願う魂の力強いあらわれだったのかもしれない。彼女たちは押しつぶされたとしても、「何かを求める心」をすっかり譲り渡したりはしないということか。それが「何か」を知らなくても、嘘は嘘だし、お芝居はお芝居に過ぎないと知っている。…そう考えると、燃え上がるようなものは感じるな。

うーん、でもまだまだ考える余地がありますね。特にラストの新聞紙スーツの意味するところを考えてみたい。あれはどういう意味ですかね? 言論の自由と正義を求める象徴であるべきはずの新聞紙によって体をぐるぐる巻きに拘束される皮肉。っていうことでしょうか? あるいは、大衆の声(常識、規律)を反映するものとしての新聞紙に全身を覆い尽くされ強制されていることを意味しているのでしょうか? だめだ、私にはまだ読み解けないわ……


ともかく、『ひなぎく』はやはり名作であることを確認しました。恐ろしいほどに洗練された映画であることは間違いないですね。画面を眺めているだけで、ぽつりぽつりと交わされる意味ありげで言葉少なな台詞を聞いているだけで、胸の真ん中がメラメラするような作品です。




そういうわけで、充実した半日を過ごせました(^_^)
それにしても、お昼に連れて行ってもらったパスタ屋さんの「ウニとイクラのパスタ」があまりにおいしくて、1日経った今も味覚を思い出しています。おいしかったなあ。お店は前もそうだったけど、満員だったなあ。次はエビとクリームソースのが食べてみたいですね。と、さりげなく次回の催促(^_^;) ユキさん、どうもありがとうございました~☆




それから、ユキさんからは、チェコ土産をいただいたのでした(^o^)☆
猫の栞です。カワイイ! ブルーグレイの背景に猫! これでまた私の猫グッズが充実しましたわ♪ ありがとうございました~♪♪ ユキさんがチェコで作ってきたという骸骨の操り人形も見せてもらいましたが、なかなかイカしてましたね。目玉が恐ろしげながらも愛嬌のある表情で素敵でした。お人形を作るのは楽しそうかも。チェコ、行きたいよ、私も!


旅行に行きたい。と思いつつ、帰りの阪急梅田駅。



ホームの床がつるっつるのぴっかぴかなのが、いつもとても気になる。なんでこんなつるつるなんですかね?