半透明記録

もやもや日記

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『秋の色』

2010年09月17日 | 自作まんが




先月に引き続き、今月もマンガを描きました。誰得マンガを。
よかったら、どうぞ(^_^;)
全4ページです。

↓↓↓




(クリックで別窓/拡大表示)
















なんだか最近の私は描くペースが上がっていて月いちで描けるようになってますね。おまけに描き始めてから大体3日で仕上がるようになりました。これはやはり少しは上達したと考えてもいいのでしょうか。ふふふ。
でも内容がないのでやっぱり面白くありません。上達したというよりは、変に慣れてきただけなのかもしれません。悲しいなぁ。3日で仕上げなくてもいいから、もっと中身を練らないとならないんだよな。じゃないと誰にとっても楽しくないではないか。それは悲しすぎるぜ。よし、今度は一度客観的に見つめ直すことにしよう!(←と、描き終わるといつも思うのに、同じことを繰り返してしまい…)


少しも進歩していない様子ではありますが、今回の目標は「立体感のあるコマ割り」ということだったので、いくらか練習にはなったかと思います。全然実現できていませんけれども、これは想像以上に難しいのです。そのことはよく分かりました。私の希望では、なんかこう、もっと格好よくしたかったのになぁ(←ならば格好よいコマを作る展開をまず作らないと!)。

そして今回もうひとつの課題は「手で描く」ということでしたが、それもまあまあやれたかなという感じです。普段は曲線や直線、円や四角を描くのに専用ツールを多用しているのですが、今回はブラシツール一択。フリーハンドでがんばってみました。線がずいぶんと太くなり歪んでしまいましたが、暖かみを感じられなくもないですね。手描き風。下描き風。

あとは、ほんとうは全編カラーでやるつもりでしたが、表紙だけで挫折してしまいました。挫折して塗らなかったおかげで、お話の結末(←結末と言えるかどうかはともかく)が、ますますよく分からないことになってしまった。これはヒドイ。わはは…とりあえずコレやっとくか。orz。



ちょっとずつ、ちょっとずつ。





『少女革命ウテナ』漫画版(途中まで)

2010年09月16日 | 読書日記ー漫画

さいとうちほ 原作:ビーパパス
(小学館文庫)





結局おとといは、ウテナ(TVアニメ版)DVDの第8巻を泣きながら観ました。最終4話が収録されています。いつ観ても傑作。何度観ても傑作。

それにしても、ああ、ほんとうにこれをもっと高画質で観られたらなぁ。私の持っているのは旧DVD版なので、画質が3倍ビデオ録画並みなんですよね。うぅ。……BOXが欲しい。欲しいよぅ。しくしく。とは言え、画質が気になるのは最初の5分だけで、あとは夢中になってしまってもう何も気にならないわけなんですがね、ははは。


そういうわけで気分が盛り上がったので、先日買ってきた『少女革命ウテナ』の漫画版(文庫)を読んでみました。さいとうちほ先生の絵がうますぎて悶絶。こともなげに描いているように見えるんですよね、こんなに美しい絵を。はぁ、うらやましい。

漫画、TVアニメ、劇場用アニメ、と3つの形態で製作された『少女革命ウテナ』という一連の作品群ですが、それぞれに設定に違いがあるので、見比べてみるのも楽しいです。
こちらの漫画版では、アニメ版のほうでは描かれることのなかった、ウテナが鳳学園へ来ることになったいきさつが読めるというのが見所と言えるかもしれません。
しかし、私はアニメ版の内容が頭にクッキリと刻まれているので気になりませんでしたが、漫画の方はストーリー展開がものすごく速いので、もしかして最初に漫画版だけを読んだら展開の速さについていけなかったかも。それに謎があっさりバラされ過ぎっていうか…。でも、これはこれで魅力的で面白いです!

そしてつくづく感じるのは、やはりウテナは漫画にしろアニメにしろ、キャラクターはさいとう先生のデザインでないといかんな! ということですね。最高に美しい、素晴らしいデザインです。ああもう、美しい。

私はちなみにこの作品に登場する「有栖川樹璃」という人物を崇拝しているのですが、文庫版2巻の途中に樹璃先輩のプロフィールが載っていて楽しめました。美しいわ~! 素敵すぎるわ~~!(でも、漫画版だと若干影が薄いような……。やはり樹璃先輩をめぐる物語については、TVアニメ版が最高ですね。奇蹟の完成度)
あと、薔薇の花嫁こと姫宮アンシーに関しては、アニメ版よりも漫画版のほうが可愛かった! なにこのアンシー、可愛いぞ!



というわけで、私のウテナ愛がとどまるところを知らない、もうそろそろ秋。実は文庫版の『ウテナ』は、まだ2巻までしか買っていないので、最終巻の3巻を買ってこないとな。






どうやら秋が来るようです

2010年09月14日 | もやもや日記




降ったり止んだり、雨。



わけもなく気持ちが沈むので、朝から呪いの言葉をK氏に向かって浴びせかけていたら、「UZEEEEE! なんだよ、何か嫌なことでもあったの??」と言われましたが、嫌なことが発生する余地すらない最近の私。あ、そういえばこのあいだ自転車を漕いで隣町まで行ったら、往復5キロの予定が迷ったり寄り道ったりしたものだから8キロくらい(もっとかも)になってしまって、おまけに自転車なんかを漕ぐのは久しぶりだったものだから太腿の筋肉が剥がれちまうんじゃないかってくらい痛みましたね。そのくらいですね、最近ちょっと不快だったのは。あとは何もない。なんにもない。


落ち込みの原因がまったく見つからないので(八つ当たりするだけしておいてややスッキリした後も)片付かない顔をしていたら、「あ、あれじゃない? 《季節の変わり目病》」というK氏の指摘が。

ああ、そ・れ・だ!!


急に少し涼しくなって、夜にもよく眠れるようになったせいか、こう、ガクッときましたね。この夏は猛烈な暑さだったために気をつけていたおかげでバテはしなかったのですが、そこでエネルギーを使い果たしてしまって、季節の変わり目を乗り越えられるか不安です。いやまあ多分だいじょうぶだけど。

とりあえず、《季節の変わり目病》というのもアレなので、《トーマス・マンの呪い》とでも名付けることにしましょう。というのは、なんかあの人の作品って秋なイメージで……。あと、この落ち込みのレベルは、あの人の小説の読後感に近い、みたいな……。読みかけの『ヴェニスに死す』にもグッサーとやられているせいもあるっていうか、なんというか。そもそも全般的にドイツ小説には秋の雰囲気を感じてしまう私。いったいどうしてかしら。


大好きな秋がもうすぐすっかりやってくる。
だから、ここを、乗り切って……!
『少女革命ウテナ』でも観ようかな~(もう何度目?)
あ、このアニメにも私は秋を感じていますね、なぜか。

 ←たぶんこのシーンのせい。傑作OP『輪舞』。
参照:YOUTUBE_少女革命ウテナ オープニング


秋、秋、秋。
秋ははじまりの季節。私にも始めなくてはならないことが、山と積んであるのです。ちょっとがんばるか。






『居候々』

2010年09月13日 | 読書日記ー日本

内田百(ちくま文庫)




《内容》
同僚の教師や生徒たちの生態を動物に擬してコミカルに描いた表題作に唯一の童話集『王様の背中』を併せて収録。谷中安規氏の美しい版画と共に楽しめる一冊。
「この本のお話には、教訓はなんにも含まれて居りませんから、皆さんは安心して読んでください。どのお話も、ただ読んだ通りに受け取って下さればよろしいのです。」(『王様の背中』序より)


《この一文》
“「万成さん」と鳥雄さんが後から顔をのぞけて云った。「猫の子は捨てたかい」
 「ええ、今捨てて来た」
 「もう死んだかね」
 「もう死んだでしょう」
 後(うしろ)を向いて見たら、鳥雄さんはもういなかった。 ”
  ――「居候々」より




「居候々(そうそう)」は、「時事新報」の夕刊に連載された小説だそうですが、読んでみると、本当に、何と申しますか、わりとどうでもいい内容です。でも面白い。私などはもうこの文章を読んでいるだけで面白くなってしまう。それに、ところどころに版画家の谷中氏の愛嬌のある版画が挿入されているので、それを見るだけでも楽しいのでした。


物語の方は、ある苦学生(万成くん)が、独逸語の吉井先生(あだ名はネコラツ。ネコがラッパを吹いている看板絵にそっくりなところに由来)の家に書生として入ることになり、奥さんにこき使われたり、息子の鳥雄さんは子供のくせにかわいげがなかったり、家族の食卓ではなぜか食器がすべてブリキ! という異常事態に困惑する日常を描いてあります。どうでもいいんだけど、なんだか面白い。

それで、なんでもないようなお話のなかにも一応の筋らしきものはあって、学校の先生同士の内紛が起こりそうな雰囲気がじわじわと漂って来たり、ネコラツ先生が身重の奥さんを差し置いて、なにやらお隣のお嬢さんと怪しい関係になっている様子だったりと、事件が起こりそうなことは起こりそうなのです。
しかし、さあこれから事態が緊迫してきそうですよ! というところでまさかの大惨事が!

私としては、物語もそこそこ面白く読んでいましたけれども、百先生が連載していた「時事新報」が、連載途中にまさかの倒産! という顛末にもっとも面白みを感じてしまったわけです。(原稿料も貰えなかったらしい。…だめだ、笑ってはいかん!)いやもう、ひどい話ですよ!

お話の途中で子猫を箱詰めにして川へ捨てにいくとても心の痛む場面があるのですが、それが何か薄暗いものを暗示していたのか、登場人物および作者の百先生、また時事新報もみな川に流されたかのようなひどい運命に見舞われたのでした。そのへんのいきさつが、あとの方の「再び作者の言葉」に詳しく書いてあって、笑ってはいけないと思いつつ、大変に笑えました。

そういうわけで、非常に面白かったです。このお話は最初と最後の「作者の言葉」がとくに見所と言えますね。もう呪われているとしか思えない。オチとしても強烈すぎる!



『王様の背中』もまた、どうでもいい感じのお話ばかりで楽しいです。「教訓は含まれて居りません」と書かれてある通り、一切教訓などは見当たりません。それどころかお話の筋すらなかったりもします。でも、やっぱり面白い。「桃太郎」で、桃太郎に夢中になって割れた桃の存在を忘れてしまっているおじいさんとおばあさんから、その桃を失敬してくる猪……なんていうところなどは、着眼点がいいですよね。で、この話もただそれだけの話で、オチも教訓もありません。ただ面白い。


ちょっとした気晴らしにはよい一冊と言えましょう。
何と言っても、挿絵がふんだんに入った本というのは楽しいものです。







『クマとインテリ』

2010年09月12日 | 読書日記ー漫画

basso(茜新社)


《内容》
『イタリア男、スーツ、眼鏡』がテーマの小粋なCOMIC。
初老のインテリ政治家ファウスト・カッラーロはバカンス先でカメラマンの熊男ブルーノと出会う。全く好みのタイプではなかったブルーノに次第に引かれていくファウストだが……。





近頃大人気のオノ・ナツメさんは、bassoという別名義でBLなんかも描いておられるそうで、私は評判の高い『クマとインテリ』を手に取ってみたわけです。

実は、この人の絵はちょっと独特の雰囲気があるので、「絵柄がちょっと私の趣味には合わないのではないか」と思って尻込みしていたのですが(松本大洋のときも同様のことを思っていた)、読んでみたらアラアラ不思議! 「この絵でないとダメだろう!」というほどにハマってしまいました(松本大洋のときも同様のことを思ったのだった。どこまでも学習しない私;)。


というわけで、面白かったです!

表題作の「クマとインテリ」、「Manifesto(マニフェスト)」の2作には唸らされましたね。人物の造形が独特すぎるなんてことは、一瞬で吹っ飛びます。たちまち、ものすごく魅力的な人に見えてくる、この不思議! なぜ! どうして! こんなに格好いいのですか!? わなわな……。特に「Manifesto」の秘書の彼には悶絶させられました。眼鏡がテーマとのことですが、なるほど眼鏡ですね。ブルブル。短髪に眼鏡ってサイコーですね。フフ…



結局、ストーリーが良いのだと思います。ドラマチックで、とてもお洒落でもあり。クセのある絵柄の割に、描かれている物語は非常に繊細なものであると言えるでしょう。ちょうどよい具合に控え目で繊細。場面の切り取り方が素晴らしいですね。

また、そのクセのある絵柄にしても、たしかに私好みの丁寧で繊細な感じではありませんが、大胆で力強い、圧してくるような魅力が要所要所に感じられるので、つい目が離せなくなってしまう。
それにしても、この人の絵は、何を使って描いているものなんでしょうかね? 線の太いところは、版画のように見えるところもあります(特に影の部分)。いったん太い線で描いてから、細い白い線で消しているように見えますね。
それから塗りの部分もちょっと独特です。トーンを貼っているというより、やっぱり塗って(あるいは描いて)いるように見えるのですが、どうなんでしょう。なんにせよ、個性的な絵柄ですね、ほんとうに。

アクは強いけど、嫌味なところがない。なるほど人気があるわけだぜ……



うーむ、そういうわけで、大変に面白かったです。やっぱり絵の第一印象だけでは分かりませんね。というか、よくよく見たら、このカバーイラストだって、ものすごく格好良いではありませんか。私はもっと目を鍛えねばならぬようです。うむ。






すべてを失ってゆく物語

2010年09月11日 | 読書ー雑記




昨日感想文を書いたドノーソの『三つのブルジョワ物語』の最後のお話「夜のガスパール」が忘れがたい余韻を残しているので、私はなんだか今日も落ち着きません。


「すべてを失って、そこではじめて…」という物語には、私は悲しみながらも魅かれてしまいます。私が読んできた物語には多かれ少なかれ「喪失」ということが描かれていたかと思うのですが、そのなかでもとりわけ「主人公が何もかも失ってしまう」お話というのは忘れられないような印象を残しています。

ドノーソの「夜のガスパール」を読んで思い出した物語が、他にいくつかあったので、忘れないように書いておこうと思います。


 まずは、ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』。

 次に、やはりホセ・ドノーソの短篇「閉じられたドア」。

 それから、フロベールの『ジュリアン聖人伝』。


上の三つのお話を、一晩の間に私は連想したわけですが、並び順としては、それぞれの物語の結末において主人公が感じていただろう幸福感・充足感が低い方から並べてみました。あとへいくほど、主人公は幸福であっただろうと私は考えているということです。もっとも、いずれも「すべてを失ってしまった」3人の主人公ですが、『果てしなき逃走』のフランツは結末ではまだ生きていてその後もおそらく生き続けねばならず、一方で「閉じられたドア」のセバスティアンと『ジュリアン聖人伝』のジュリアンは結末にその最期(幸福な解放としての死)が描かれてあったので、そのように感じるだけかもしれません。

また、よくよく考えてみると、フランツ・トゥンダはいくぶん「奪われるようにして失った」のに対して、セバスティアンとジュリアンは「自覚的に、自発的に捨て去るようにして失った」という違いはあるかもしれません。この意識の違いは大きいのかもしれない。


3つの物語を挙げてみたものの、思ったより考えがまとまらないのでこれ以上何も書けませんが、ひとつ言えることには、私はたぶん「すべてを失って」しまっても「代わりに何かを得られる」のではないかと思いたいのだということです。

フランツ・トゥンダは名誉も地位も金も愛も希望も何もかもなくして呆然と立ち尽くしてしまいましたが、けれどもそこからこそ始まる何かがあるのではないか。そこからこそ、ようやく何かに近づけるのではないか。

と考えたい。私は「失う」ということを、もう少し肯定的に考えたいのかもしれません。

この、「失う」ことを肯定的に、というのがどこからくる発想なのかについて、ちょっとよく思い出してみると、大昔に習った漢文の教科書だか参考書に載っていたお話を思い出したのでした。詳細は忘れてしまいましたが、

「人は生きている限り失い続けるものだから、たとえば腕や脚を失ったとしても、まあ、たいしたことではない」とある老人が言った、というようなそんな感じのお話。

かなりおぼろげな記憶…。これが何のお話だったか、どなたかご存知でしたら教えてください。それともすっかり私の捏造でしょうか? とにかく古い記憶、かつてそれによってものすごく納得したというある記憶が、私の深いところに根付いているようです。




つねにじりじりと失いつづけていながら、私は失うことが恐ろしくてたまらない。いつか何もかも失ってしまう。そしてそれはほんのちょっと先のことかもしれない。
こういう人間のために、文学や、たとえば宗教やなんかも生まれてきたのかもしれないなぁ。と、当たり前の中途半端なところで、今日のところは考えるのを中断したいと思います。
たまには出かけないとね!








『三つのブルジョワ物語』

2010年09月10日 | 読書日記ーラテンアメリカ

ホセ・ドノーソ 木村榮一訳(集英社文庫)



《内容》
男の人って、〈命令したり〉、〈働いている〉のはおれたち男なんだ、だから女には何の力もないんだと思い込んでいるけど、本当におばかさんだわ。というか、無邪気なのね。…わたしたちを甘く見てはいけないわ。…(「チャタヌーガ・チューチュー」より)。ほかに、ブルジョワ社会を舞台に、人間のうちに潜む狂気と妄想をコメディ・タッチで描く「緑色原子第五番」「夜のガスパール」を含む傑作三部作。


《この一文》
“うわべは、あなただけがわたしのすべてよという態度をとっているが、その実あれは自分のことしか考えていないのだ、いやな女だ、いやな性格の上に臆病ときている、今だってそうだ、自分のいない間に、いくつかのもの、いや、たぶん沢山のものが失くなっているはずだが、それを認めるのがいやなものだから――誰だっていやなことは分かりきっている――、ベッドで狸寝入りをきめこんでいるんだ。”
  ――「緑色原子第五番」より




ホセ・ドノーソの三部作。私は最初の「チャタヌーガ・チューチュー」を3回くらい読みながらその先へ進めないでいましたが、今回ようやく読了。本の裏の内容説明には「コメディ・タッチ」などと書かれてありましたが、なかなか気持ちが暗くなる感じで面白かったです。


「チャタヌーガ・チューチュー」

3つの物語の中では、描写はいくらかグロテスクではありましたが、雰囲気と内容はもっとも明るく軽く楽しい、わりと笑って読めるような作品でした。

医師アンセルモとその妻マグダレーナは、有名モデルのシルビアと建築家ラモンのカップルと知り合う。シルビアは大変に美しい女だが、彼女のつるつるした顔のなかに鼻を見た者はおらず、聞くところによると毎朝恋人のラモンが彼女の顔に目や鼻を美しく描き込んだり、体の部品を組み立てたりしているのだという。アンセルモは彼らの邸宅に招かれて、どういうわけかシルビアと二人だけで一夜を過ごすこととなり……というお話。

物語の最初のほうで説明がある通り、シルビアはまるでマネキンのような女で、顔を自在に描きかえたり、腕や脚を取り外したりできるのです。普通は化粧を拭い取るための「ヴァニシング・クリーム」ですが、この物語におけるそれはすべてを消し去る魔法のクリームで、それによってラモンに両腕を外されどこかに隠されてしまったと言いながら、夜の屋敷をうろついていたシルビアと暗闇のなかで遭遇するアンセルモ。シルビアは顔立ちもまた半分以上がかき消されていて、口に当たる部分がもの言いたげにもごもごと動いている。このあたりはとってもホラーです。

アンセルモは、顔もなく腕もないシルビアに対して言いようのない欲望を感じ、そのまま浮気の肉体関係を結んでしまうのですが、ここからが物語の面白いところでした。
男と女、支配権を握るのは一体誰なのか。最後までぐいぐいと読まされます。




「緑色原子第五番」

私としては、3つのなかでこれがもっとも恐ろしかった。

歯科医ロベルトとマルタは新しくマンションを買ったばかり、子供のいない彼らが情熱を傾けるのは、家を素敵に装飾し、住みやすくすることだった。ロベルトには絵を描く趣味もあり、ある日曜日の朝、「緑色原子第五番」と名付けた自分の作品(これは妻にプレゼントしたもの)を玄関に飾ってみた。そこへマンションの守衛にそっくりな男(おそらく弟だろう)が訪ねてきて、部屋の中を眺めてまわり、帰り際にさっと「緑色原子第五番」を外して持ち帰ってしまった。唖然とするロベルトだったが、その時を境にして、家の中からさまざまなものが消え去っていく……というお話。

人間にははたして物をすっかり所有するなんてことができるのか。物を所有するとはどういうことなのか。と問われているよう。(以下、ネタバレ注意)

ロベルトとマルタは二人の家を飾るさまざまな物に対して愛着と執着を見せるものの、それを目の前で奪われていくときにも、彼らがブルジョワ階級に属しているという自尊心からか、あるいは育ちの良さからくる控えめさのせいなのか、略奪者に対して、それは自分たちの所有物であり持ち出すことを許さない! と告げることがどうしてもできない。家から物が失われていくだけでなく、ロベルトは外出するたびに「もう二度と家へ帰る道を見つけられないのではないか」という妄執に悩まされるようにもなる。そしてふたりは、互いのそういう頼りにならない有様を罵り合うことになるのでした。

「これは私のものだ」と宣言するためには、意外と力が必要になるのではないかと思わされます。ロベルトとマルタはブルジョワなので、お金の力でもってさまざまな物を手に入れてきたわけですが、いざそれを奪われる段になると、自分のものだと思いながらもなぜか指をくわえて見ているだけしかできない。不条理に憤りつつも、(ブルジョワらしく振る舞うべく)どうにか取り澄ましてやりすごそうとするのに、物を奪われれば奪われるほど、彼らの表面を覆っていたものは引き剥がされてゆき、最後はすべて取り払われた剥き出しの本性で掴み合い殴り合い罵り合う。恐ろしい物語でした。

結局、物を所有しようというのは、何らかの力で誰かの持ち物を奪い取ってくることでしかないのでしょうか。お金を介した交換ならば上品で円満な行為に見えるけれども、力の行使には変わりない。そこにお金と同等かそれ以上の別の力が働けば、物の所有権は簡単にどこかへ移ってしまう。という恐怖。
また一方で、そのように物に対して力を注ぎまくっては、物にますます支配されてゆく人間の姿にも恐ろしさを感じます。人は物を所有しているつもりで、物によって支配されているのだった。なんてこった。恐ろしい!


とにかく、最後まで先の読めない暴力的なまでに緊迫感のあるお話でした。疲れるほどに面白かった。




「夜のガスパール」

これは少ししみじみとする物語。とても悲しいお話でしたが、これは私の今年のテーマと深く関わるものでもありました。


シルビアは夫のもとで育てられている16歳になる息子を、恋人のラモンと暮らす家へ呼び、3ヶ月間をともに過ごすことになった。自由気ままに暮らすことを信条とするシルビアは、息子のマウリシオの年頃なら欲しがるだろう物をなんでも買ってやろうと思うが、彼は何もいらないと言う。それどころか、行きたいところもないし、食べたいものも特にないのだと。不安に駆られるシルビアだったが、あるとき開いたドアの向こうから、マウリシオの口笛が響いてくるのを耳にする。その旋律はシルビアの不安をいっそう掻き立てるような音色で……というお話。


青春小説といった風情。ほんものの自由とはどういうものか、ほんとうに束縛されないとはどういうことか。自分を取り巻く世界にまったく居所を見出せない思春期のマウリシオを通して、そういうことが描かれていたかと思われます。(以下ネタバレ注意)

シルビアは有名モデルで(「チャタヌーガ・チューチュー」にも登場している。この3部作には同じ人物が幾度も登場していて、彼らがひとつのブルジョワ社会を形成しています)、彼女はずっと自立した自由な女性としての勝手気ままな暮らしをしてきたので、母親としてどのようにマウシリオに接したらよいのか戸惑います。父親の家で厳しく育てられたのだろうと想像するシルビアは、マウリシオに対して年頃の男の子ならそう望むはずだと彼女が思い込んでいるように「何でも好きにしていいのよ」と言うのですが、実のところ、マウリシオは父親でも母親でも他の誰の言う通りにもなりたくないのでした。

私の能力ではうまく説明できませんが、マウリシオの口笛には不思議な力があって、その力で彼は分身を生み出します。そして少しずつ彼の口笛による複雑な旋律や、ちょっとした仕草の癖などを分身へと伝授していき、マウリシオに生き写しの浮浪者であるその分身と衣服を取り替えることでなりかわるのでした。そうしてマウリシオは、こぎれいな服も、口笛も、顔も、身分も家族も、すべて失って「誰でもない人間」となり、入れ替わりに元浮浪者の少年は、シルビアやその他の大人が望むような普通の「ひとかどの人間に」なろうとするマウリシオとして社会へと溶け込んでゆきます。

円満に解決したようでいて、なんだかとても悲しい。「誰でもない人間」となった少年は、これでようやく好きなところへ好きなように旅立つことができるようになったわけですが、実際のところ、彼が社会を捨てたのか、社会が彼を捨てたのか、すべてを手放さなければ人は自由になれないのか、というところが私には悲しい。また実際のところ、すべてはマウリシオの幻想であり、彼は「誰でもない人間」としての部分を切り離すことで、社会に馴染み得る大人としての人格を獲得したというわけです。これがまた私にはとても悲しい。

マウリシオがひとりで散歩する途中の描写にこんな一文があります。

 “町の人たちは仕事をしているか、下の町に働きに出ていた。母親や
 ラモンと同じようになすべき務めを果たしているのだろうが、その
 せいで自分の顔立ちを、つまり自分自身を失っていた。”


「人は誰しも社会の中では何者かであらねばならない」ということです。役割は果たされなければならないのです。そういった何者かであるために、マウリシオは「自分自身」を「誰でもない人間」として社会の外へ押し出したのです。もう会えない。会ったとしても「誰でもない」その人物に対してはもはや恐怖のような感情しか感じられず、きっと分かり合えない。「誰でもない」その人は、いったいどこへ向かうのか。もう、それを知ることはけっして出来ない――。

ということに、私はどうしようもなく悲しみを感じてしまうのでした。社会とは、いったいなんなのでしょうか。「誰でもない人間」がその中で生きていけるはずがないと、生きていていいはずがないとは私も思うのですが、でも、どうして? 





そんなわけで、かなり読み応えのある一冊でした。ドノーソと言えば『夜のみだらな鳥』も読みたいのですが、全然見当たりません。図書館は遠くてなかなか行けないので、もう少し涼しくなったらまた考えようかと思っています。





『脱獄計画』

2010年09月09日 | 読書日記ーラテンアメリカ

アドルフォ・ビオイ=カサレス
鼓直/三好孝訳(現代企画室)

ラテンアメリカ文学選集




《あらすじ》
アンリ・ヌヴェール海軍大尉はある疑惑を受けて一族の長から追放され、フランス領ギアナの流刑地での任務に就く。不吉な予感に苛まれながら、彼の任地での生活が始まるが、自分の着任を熱烈に待っていたという総督にはいつまでも会えず、しかも総督の行動や態度、島の様子に異常なものを感じ――。


《この一文》
“ 何よりもまず、ヌヴェールは小心ではなかった。お喋りにかけては小心ではなかった。話すべきことを話すという点では勇気に欠けていなかった。欠けているのは、口にしたことの結果にまともに立ち向かう勇気だった。自分は現実には無関心である、といってはばからなかった。 ”







終盤にいたるまで、ほとんど何が何やら分からず、己の読解力のなさを呪いに呪いまくっていたのですが、どうにかこらえて読み進めた結果として、最後の最後でこれはやはりものすごく面白い物語であったことが分かりました。やった! がんばってよかった!!


物語はいささか複雑な形式で語られてゆきます。「解説」の鼓直氏による説明が分かりやすかったので以下に引用してみますが、こういう感じで物語られるのです。


 フランスではむしろイル・デュ・サリューとして知られているサルヴ
 ァシオン群島の流刑地に派遣されたアンリ・ヌヴェールの奇怪な物語
 を形づくっているのは、彼のおじアントワーヌ・ブリサックのやはり
 日録であるが、そこには、しばしば矛盾をはらんだ甥からの手紙の断
 片が差しはさまれている。また、べつの甥グザヴィエ・ブリサックに
 よって書き送られた手紙の一部や、アンリ自身が送付したメモと書類、
 「人倫にたいする、いや、ある種の人間の生命にたいする、無関心さ
 を要求する実験」を行なった総督の手紙や指示書、二つの刊行者注な
 どが付け加えられている。(中略)その断片化した、多様なレヴェル
 からなるテクストを喩えていうならば、ピースがさんざんに掻き混ぜ
 られたジグソーパズルである。破片が床に散乱した鏡である。

   ――「解説」より


そう、まさにジグソーパズルといった趣でした。飛び散った欠片をどのように繋ぎ合わせたらよいのか分からないまま、結末まで連れて行かれた感じ。おまけに、この結末というのが非常に印象的なものであるのですが、印象的ではあるものの、事件が決着した様子はうかがい知ることはできても、その真相がいったいどこにあったのかは分からずじまいで終わるのです。参った。参りました。登場人物はめいめい好き勝手に断片的な言葉を残しているだけであり、またそのように感じられるのはそれらの断片を好き勝手に抽出して語るアントワーヌ自身にも何か思惑があるのがありありと感じられるからで、公平な語り手とは言いがたい彼による語りの内容がどこまで本当のことなのかが、読者には(少なくとも私には)最後まではっきりとは分からない。

しかし断片的ながらもいくらか読者に分かることには、《地獄島》と総督をめぐる疑惑だけでなく、ヌヴェールといとこのグザヴィエとのイレーヌをめぐる関係、またアントワーヌとアンリの一族との対立などなど、いくつもの薄暗い要素が絡み合っている様子です。探偵が不在のミステリ。事件が起こり、事件が決着する。しかし謎は依然謎のままで置かれている物語。これは面白い。非常に面白かったです。

いったん読み終えて、これがとても面白いお話であると理解した私は、ジグソーパズルのようにあらかじめテクストがバラバラにちりばめられているのだということを念頭に置いて、もう一度最初から読み返してみることにしました。すると、なるほどヒントとなりうる言葉の数々が念入りにあちらこちらに配置されているということに気がついたのでした。うーむ、そうだったのか!(と言って、スッキリするかというと、否!)

もしも私がもっと注意深い読者であったなら、最初からひとつひとつの言葉に気をつけていたら、1度目の衝撃をさらに大きいものとすることができただろうになぁと思わないこともありません。まあ、しかし結末を知ってから読むという行為も十分に意味があったと思います。そのような楽しみ方を可能にする、むしろそのように読むことを前提とした物語だったのかもしれません。初読で理解できなかったのは、私の理解力が足りていないせいだけではなかったんだ! そうさ! 2度読むことで、おぼろげながらでもどのあたりが分からないままで放置されているのかを掴めただけでも収穫であった、と納得したいと思います。

というわけで、とても魅力的な幻想怪奇SF小説でした。面白かったなあ! 普通にミステリやサスペンスとして読んでも十分に面白いこの小説ですが、「解説」にもあったこのような眼差しをもって読むとさらに興味深い物語となりそうです。この不安感や孤独感はどこからやってくるのか。人は、自分に向って語りかけてくる誰かの言葉を、その言葉だけでどれくらい信じることができるのか。あるいは信じるべきなのか。そのようなことにまでも考えを及ばせたくなるような奥深い作品でありました。



 ボルヘスにとっての〈迷宮〉に比べることのできるビオイの〈島〉は、
 (中略)、究極のコミュニケーションの道を閉ざされた人間の絶対的な
 孤独を象徴している。われわれ人間存在は、永久に相接することなく、
 世界という海をただようことを宿命づけられた〈島〉でしかない、とい
 うわけである。

   ――「解説」より


(私はそこで久生十蘭の傑作短篇『湖畔』や、太宰治の『駈込み訴え』などを思い出したりもします。いずれも一人称による語りによって進行する物語であり、読者はいったんは盛大にお話に対して感激するものの、あとで一歩ひいてみるとそのあまりに一方的で一面的に語られる物語の真相への疑念が募るという構造になっていると私は考えます。同じ種類の面白さがこの『脱獄計画』にもあったような気がしますね)



さて、『脱獄計画』に先立つビオイ=カサレスの代表作『モレルの発明』を読みたいと以前から思っているところなのですが、「解説」によると『モレル』の方はこの『脱獄計画』とほぼ同じようなテーマを扱っており、さらにこれよりもいくらかシンプルな構造を持つ物語であるそうなので、いよいよ読んでみようかという気になりました。また私は他にもこの人の小説を何冊か積んだままにしているので、それを読むための弾みがつきました。ビオイ=カサレスを私は理解しきれないのではないかという強い恐怖に悩まされていたのですが(ビオイ=カサレスやボルヘスを読みこなすには、一定以上のインテリジェンスを要求されるのではないだろうかという強迫観念があるのです)、でも、なんかちょっといけそうな気がしてきたぜ。へへへ。






ちょっとひといき

2010年09月08日 | 学習




今日は台風の影響か、ものすごく久しぶりに涼しさを味わっています。湿っぽいけど、風が涼しい! 雨も少し降りました。しばらく続いてほしいところですが、きっと明日からはまた暑いのでしょうねー。



というわけで、今のうちにすこし休憩しておこうと思います。少し涼しい、というただそれだけで、私の頭はいくらか回転するようになった気がします。小説を読むこともできます。

今読み始めたのはアドルフォ・ビオイ=カサレスの『脱獄計画』。この人はボルヘスのお友達としても有名ですが、なるほどそうだろうなという感じで、どうも私にはその世界をすんなりとは理解できません。これまでにこの人のいくつかの短篇を読んでいつもピンと来なかったのですが、今回もよく分かりません。しかしそれは面白くないという意味ではなくて、ただ分からない、というだけのことです。けっこう面白いですよ、全然分からないけど……。いつも分からなすぎて、読んだことを忘れてしまう。読み返しても、読み返しても、いつも初めてのような味わい。そういう楽しみ方もあると思いたい。


そんな私はガルシア=マルケス派。この人のはすごくよく分かる。分かるような気持ちになれる。実際の思い出のように覚えていられるのです。

で、ガルシア=マルケスとの出会いのことを少し思い出してみたりもします。私を物語の世界へ走らせた最初の人がこのガルシア=マルケスと内田百だった(まったく同時期に両者は私の前に現われた)わけですが、どうしてそうだったのかということを出会って以来私はずっと考えつづけてきて、今日も少し考えを進めてみたところです。いや、別に進みませんでしたけど、再確認したというか。

私が本当の意味で物語を愛するようになってからもう15年以上が経過しましたが、最初の一歩を踏み出そうという気になった、そのきっかけというものはこの先も私にとってものすごく重い意味を持ち続けるだろうと思います。

行き当たりばったりでさまざまな物語と出会い、その都度それらを愛し、ドイツ・フランス小説に夢中になって、ロシア文学に圧倒されて、さらに他のどこか、他の誰かの物語にも節操なく熱狂するだろう予感はあります。しかし、最初のふたりの存在感が色褪せることは、この先もけっしてないでしょう。たぶん多くのことを中途半端に残したまま、私がこの遍歴を終えなければならない日がいずれ来るでしょう。そのとき、最後に読んでいた物語が何であったか、ということは恐らく私にとってはそれほどの問題にはならないでしょう。それよりも最初のふたり、最初の2冊こそが、最後の瞬間まで私を捉えつづけているだろうな、と確信するのでした。(もっとも、「宿命」を信じる私は、おそらく最後の瞬間に手にした一冊にも必ずや最初の因縁が固く結びつけられているだろうことを期待しているのですが、最後の時にそれを自覚できるといい。そしてそれに気がついてニヤニヤしながら終わりたい)


私に最初の一歩を踏み出させた、あのエネルギー。あのものすごく強い力のことを思うたび、私は胸の奥にぐるぐると激しく渦巻く感情を発見するのです。私は闇雲に転げ回っているようで、中心はいつも同じ点にあるのです。夢みたいにあやふやで曇っていて不安定であるようでいて、そこにあるとしか思えないほどに確固たるあの世界、ふたりの物語は完全な形で私を飲み込みます。最初からそうでしたし、今でもそうで、これからもそのようであるでしょう。人生をまるで夢のようにしか捉えられない私がなぜ彼らの物語を神聖視するのか、その理由があと少しで分かりそうな気もします。あと少しではないかも。でも、いつかは。




ちょっと涼しいから頭が冴えてきたと思ったのに、全然冴えてなかった。読み返しても、読み返しても分からないような文章を書いているのは私の方だった。私の頭の方がそんな感じだったんだ。ビオイ=カサレスは悪くなかった。私がもっと明晰ならば、きっとすんなり理解できるんだろうなぁ。まあ、これもまたいつかは。






最近のこと

2010年09月07日 | もやもや日記

お土産にもらった「都まんじゅう」





遅めの夏休みで帰省していたK氏が「都まんじゅう」というお菓子をお土産に買ってきてくれました。翼をえいっと丸く拡げた鶴のマークのお店のもので、お菓子そのものは小さな大判焼きのような形をしています。中身は白あん。「都まん」という焼きが入っているものの中に、「謎の3人組」の柄のものがあってすごく気になる。よく見ると、中国雑技団みたいに逆立ちしたりしているようでした。
全部で12個入り。結構ボリュームがあって一度には食べきれませんでしたが、こういうお菓子は美味しいですね~。






もうひとつは、これまたK氏がブラジルのお土産にくれた本場のコーヒー。食後にコーヒーでも飲もうということになってお湯を沸かしたのですが、私が別の用事を片付けているのを見て、珍しくK氏がいれてくれようとしました。
最近の私はコーヒーをペーパードリップでいれているのですが、K氏は初めてだったらしく、フィルターをセットするところからしてうまくできないので、私は横から見ながらアドバイスをしました。

(/o\)「紙をぴっちりセットして粉をいれたらお湯がいきわたるように、ゆっくr……」

(`・ω・)「お湯がいきわたるようにね!(ドバーッ!←溢れるほど)」

Σ(/o\;)「ウギャァ~~~~ッ!アァァァ~~~~~ァ!! おい、やめろ! ヤメテくれェェ!」


と、荒っぽいK氏の技に思わず絶叫したら、「なんだよ、プンプン!」といった感じで向こうへ行ってしまいました。私もコーヒーくらいで大人げなかったかなと思ったりしたのですが、残りのお湯を静かに注いで仕上がったコーヒーを持って行くと、「君があんな大声出すの初めて聞いたよ。そこまでコーヒーが好きだったんだね。ヒャハハ!」などと笑われてしまいました。

(/o\#)「……!」

でも、うん、まあね。やっぱりコーヒーは私がいれますよ、うんうん。ちなみにそのコーヒーはたいした失敗もしておらず美味しかったです(´∀`)タブン… そんな神経質になることもなかったかな。ははは。






そんなことがあった月曜日の前の週末にはK氏が帰省していて暇だったので、私はちょっと海へ行って舟遊びでもするかと思い、時を忘れて遊びまくっていました。



私の言うところの「海」「舟遊び」。



風を操って、夜の海を疾走したり、巨大イカと戦ったり、不思議な葉っぱで空を滑空したりして楽しみました。やっぱ、いいなぁ、海って!! 舟に乗ってあちらこちらへ出かけるのって楽しいですよね☆ 冒険、ロマンです(^o^)

着々とイベントをこなして(攻略サイトのお世話になりまくり)、今はちょうど中盤のあたりまで進んでいます。『ゼルダの伝説 風のタクト』はやはり面白いですねー。今度こそクリアするぞ!!




そんな最近の出来事でした。
明日は台風の影響か、久しぶりに雨が降りそうです。しかし、この暑さはいつまで続くのかしら……。