半透明記録

もやもや日記

『コルヴォー男爵 フレデリック・ロルフの生涯』

2010年04月16日 | 読書日記ーその他の文学

河村錠一郎(試論社)




《内容》
ビアズリー、ワイルドが活躍した世紀末に妖しくその名を馳せた一人の作家がいた。コルヴォー男爵、本名ウィリアム・フレデリック・ロルフ。D・H・ロレンス、W・H・オーデンらに絶賛されながらも忘れ去られた男の、美と背徳の生涯。


《この一文》
“文明社会の定義そのものともいえる「偽りの構造」を攻撃するのに、ロルフは偽りをもってした。爵位詐称の象徴する意味はそこにある。馴れ合いを拒否し、その生から「何となく」や「涼しげなスマートさ」や「それなりに」を振り捨てた男、権力に抗った男――。 ”




試論社は私が個人的にちょっとしたご縁のある出版社で、そこのKさんとお茶をしていた時に(要するに私はKさんと友達なのです)、ふとこの『コルヴォー男爵』の話になりました。私は以前に試論社の出版書籍一覧を見ていて、この紫のような青のようなかなり印象的な表紙カバーが強く脳裏に刻まれていたのですが、「忘れ去られた男の生涯」という内容もすごく面白そうだよね、と申し上げたところ、なんとKさんは一冊私に譲って下さいました。わーっ、そういうつもりではなかったのですが、Kさん、どうもありがとう!

さて、頂いた本だから、あるいは友人が関わっている本だから、そういう理由で褒めようというわけではありませんが(私は極力率直でありたいので、まったくそんな気持ちがないとは言い切れませんが、しかしそれでもやはり)、この本は装丁からしてとても凝っていて美しい本でした。
まず、先にも述べましたが、表紙カバーの色合いが強烈に印象的です。そして、カバーを取ると、本の本体には真っ黒な背景にロルフの肖像(モノクロ写真の人物像を輪郭に沿ってクッキリと切り抜いて)が大きく配置されていて、すごく格好良い。さらに、本を開くと、見返しには金色で美しい人物画が置かれてあります。
私は正直なところ、本の装丁そのものにはさほどこだわりのない人間なのですが、それでもやはり美しい本を美しいと思えるだけの感性や、それを喜ぶような性質はいくらか備わっています。私が持っている本の中では、これはエレンブルグの『わが回想』と並ぶ美しさですね。


内容について以外のことをだいぶ書いてしまいましたが、私にしてみれば、その本がどうやって私のもとへやってきたのかも重要なことなので、記録しておきたかったのです。私は偶然を信じません。やはりこれも偶然の出会いではなかったと、「今このタイミングで読まなければならない本」であったと、読んだら分かりました。そういうわけで、私はこの本に関わった多くの方々に感謝を捧げたい気持ちです。
ちなみに明日の土曜には、国立西洋美術館で著者の河村先生の講演会があり、またしてもKさんのご厚意で私はその講演会を聴きに行ける予定なのでした。楽しみ!




さて、本題です。
コルヴォー男爵、本名ウィリアム・フレデリック・ロルフ、優れた才能を有しながらも世に出られず、争いの種をまき散らし、いくつかの偽名と身分詐称の上に不遇の人生を送った人物。絶えず浴びせられる屈辱と、忍びがたい赤貧という闇の中に身を置きながら、輝かしい美の世界を描き切るだけの精神を持ち合わせた人物。

私は普段は随筆などを少し読む程度で、小説以外の文章はほとんど読まないのですが、この本は、《コルヴォー男爵》という謎に満ちた人物の生涯を、その埋もれた著作(作品の内容は作者の実生活や実体験と緊密に関わっているらしい)や、破棄されることを前提に美しい少年たちとの交わりなどをあけすけに書いたロルフの書簡などを引用しつつ、読者がその特異な魅力にぐいぐいと惹き付けられるように紹介してくれています。また、ロルフの著作をめぐる人物が、時に小説の登場人物のように登場するので、私にはとても読みやすかったです。


それにしても驚くのは、光と影と真っ二つに引き裂かれたような、同時にそのいずれでもあるというような、コルヴォー男爵/フレデリック・ロルフの生涯です。
巨大な才能と願望を持ちながら、誰からもほとんど認められることなく、何一つ手にすることのないまま世を去ることになったこのロルフ氏の生涯はあまりに凄まじく、まるで物語のようでした。いっそただの物語であれば良かったのに、と思うほどの悲惨に覆われた彼の生涯ですが、不屈のロルフ氏は、逆に彼の物語の中に、彼の求めたすべてを描き出し、その世界のうちに美と幸福を実現したようにも思われます。そこが凄い。そこが素晴らしい。ただ者ではありません。普通の精神力ではない。

赤貧にのたうちまわりながらも素晴らしい作品を世に残した人物と言えば、ヴィリエ・ド・リラダンが浮かびますが、彼は落ちぶれたとはいえ本物の貴族であって、作品もいまだ世の中に広く読まれているのに対し、コルヴォー男爵は貴族でもなければ(著者による、この身分詐称についての解釈には納得)作品も広く読まれたとは到底言えないのが実に悲しい。こうやって埋もれていった輝きが、これまでどのくらいあったのだろうか、どのくらいの才能が浮かびあがることなく沈んでいったのだろうか。なんという悲しさでしょうか。けれどもまだ、コルヴォーはすっかり忘れられたわけではないのですね。それをこの本が証明していました。そうして私のところまでやってきました。胸が詰まりました。


本書では、ロルフの著作『ハドリアヌス七世』『自らを象って』『全一への希求と追慕』などいくつかの作品が部分的に引用されていますが、そのどれもがものすごく面白そうです。
それから、ロルフの書簡の内容もまた興味深いものです。カトリックの熱烈な信者であり神父になることが生涯の夢であったロルフでしたが、その一方で裸体の美しい少年の写真を撮ったり肉体的に交わったりすることに無上の喜びを感じているらしいこともうかがえました。人間というのは実に複雑なものですね。

引用された文章のなかでも私が特に気に入ったのは、作家コルヴォーの想像力の秘密に迫るために引用された『自らを象って』のなかの、ドン・フェデリーコが少年トトに、トトが語る物語の出所を訊ねる場面です。

“ ……ぼくは無から創造することのできる万能の神ではありません。
 ワインを作るのに、ぼくには葡萄と清潔な足が要るのです。   ”

そう語る少年トト。水の中に真逆さまに、底まで目を開けて潜るというトト。美しいトト。

涙で目が曇りました。できれば全篇通して読みたいものです。日本では翻訳されていないのでしょうか。どうにかして読めないかしらと、私はなにかジリジリするのでありました。




ある人物の生涯を追うことで、創作、芸術、社会、あるいはそれ以上のことについて考えさせられる一冊です。






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