半透明記録

もやもや日記

『トーニオ・クレーガー』

2007年11月04日 | 読書日記ードイツ
トーマス・マン 佐藤晃一訳(「世界文学全集32」河出書房新社 所収)

《あらすじ》
トーニオは裕福なクレーガー家に、北方の真面目な実務家の父と、南方の情熱的でほがらかな母の息子として生まれた。彼は詩を、その世界を愛する一方で、詩などには目もくれぬ《幸福な人々》への憧れをも募らせてゆく。
故郷を離れたのち、作家として名をあげた彼は、ふたたびかつて住んでいた街を訪れるのだが…。


《この一文》
“――認識と創造の苦悩との呪いから解放されて、幸福な平凡のなかで生き、愛し、ほめたたえるようになれたならなあ!……‥ もう一度初めからやる? しかし、そんなことをしたところでどうにもなるまい。また同じことになるだろう、――いっさいがまたこれまでと同じことになるだろう。というのも、ある人々は必然的に道に迷うからで、それは彼らにとっては正しい道というものが全然ないからなのだ。   ”



私はいつか読もうと思って何冊かトーマス・マンの本を長らく手もとに置いたままにしていましたが、なかなか読むことができませんでした。
結局、私は自分が持っている本ではなく、K氏の持っている本(『詐欺師クルルの告白』という作品が収められていて、それが面白そうだった)で、『トーニオ・クレーガー』を読むことになりました。

これまでに私はたびたび「トーニオが人生に決定的な影響を与えた」という人の文章を見かけたのですが、今回手にした本のしおりには、その中でももっとも強烈な告白が載せられていました。少し引用してみましょう。


“へたにこの本の悪口でもいってみろ、ただではおかぬ、と、いまさらもうそんなことをいうつもりはない。そのころにしてもそうはいわなかった。けれども「トーニオ・クレーガー」、ぼくはこの小説をたいそう愛していた。生きることよりもこれの方がだいじに思われたことがあった。この小さな本が道づれであるなら死んでもいいとさえ思われた、むしろそうして早く死にたいと思った。
      ――中田美喜(ドイツ文学・慶応大学助教授)  ”


「むしろそうして早く死にたいと思った」。興味津々です。私はこの人とは逆に、本と出会うことでますます「このまま死ぬわけにはいかない」と強く思うのですが、情熱の種類は多分に同じ気がして、読んでみたくなったのです。

それで、読んでみたところ、「早く死にたい」とはやはり思いませんでしたが、たしかに多くの人の心を掴むだけのことはある物語でした。

無知で無関心で純潔でどこまでも美しく幸福な人々。彼らを軽蔑すると同時に激しく憧れもする。何の疑問も抱くことなく「あたりまえの幸福」のなかに反り返って立ち、その外を軽蔑のまなざしをもって見下ろす彼らを、自分とは決定的に違う人間であることから憎みつつも、しかしやはり美しいとしか思えない。

実に悲しい。引き裂かれるような痛みを感じます。

上の中田先生の続きの文章にも書かれているのですが、この小説を読むとしまいには「トーニオと自分との見境いがつかなくなる」ところがあります。人間のなかには程度に差はあれ、いくらかこのトーニオ的気質を持った者がいるのかもしれません。私はどうだろうか。少なくとも、ハンスやインゲボルクではあり得ないと自覚するならば、いくらかはやはりトーニオ側の人間かもしれません。
いえ、正直に告白すると、私は《この一文》で取り上げたあたりを読んでいるときには既にすっかり「トーニオと自分の見境いがつかなくなって」いました。
私は流されやすい性質であることを除いても、実際にこの小説にはたしかに人の心を掴むものがあるようです。

トーニオは詩人らしい感じやすい性質の、一方では冷静で自らを客観視できる人物として、それ故に世間に馴染みきれない人物として描かれています。が、これまでに多くの人を熱狂させたという事実を考えてみても、むしろ特殊なのはトーニオのほうではなくハンスやインゲボルクらの《幸福な人々》のほうではないかと思ったりもします。
でも、どうだろう? どのくらいの人々にとってこの『トーニオ・クレーガー』は必要だろうか? 《幸福な人々》にとってはまったく不必要な物語であるとは思う。読む気にさえならない、それが幸福者の条件である。
けれども、なにせこの作品は世間一般でも「名作」として認知されている上に、今でも大勢の読者を獲得しうる文学である。大勢の読者を…
と、ここまで考えて、文学を必要とする人間は必ずしもそう多くはないという現状に思い当たり、またその上で、これを読み、そして共感した私はもしや《幸福な人々》の列には連なることができないのではないかという怖れから(とは言え私のあと半分の心は「そうならない」意志を持ち、それを怖れてもいないのですが)、とりあえず私はこの問いは保留にしておくことにしました。

仮にこの作品を読もうとさえ思わない《幸福な人々》のほうがはるかにこの地上を占めているとしたら、それは喜ばしいことではないですか。おそらく。きっと。

しかし当分はある程度の割合で、ここにたどり着かざるを得ない人間も生み出され続けることでしょう。というのも、ある人々は必然的に道に迷うからで…‥



ドイツらしい静かで透明な物語の底には灼熱のようなものがたぎっていました。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (イーゲル)
2007-11-05 12:20:25
トニオ・クレーガー、新潮文庫で読んだので
名前がトニオ・クレーゲルでしたが、いやあ、
曇天模様な人物像だと思いました。
どちらかに属したいけれども、どちらからもハブられるようなハッキリしないこのもやっと感。
でも、大抵の人間はトニオのような悩みを少なからず持っている気がしますし、私にもあります。
読まない方が幸福だったような気もしますが、読んで良かったとも思います。曖昧ですね。
新潮文庫の建石修治の鉛筆画に惹かれ、表紙を眺めるのを楽しむためだけに買ったはずが、魔が差して電車の中で読んでしまったのです。

『エミリーにバラを』も読みました。フォークナーは
新潮文庫の『フォークナー短篇集』と『八月の光』を読みましたがうろ覚えです。
文庫の解説によると「バラぐらいあげないとエミリーが可哀相だ」という理由でこの題名になったらしいです。
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私も (ntmym)
2007-11-05 18:12:14
トニオ・クレーゲルだと思ってました。

イーゲルさん、こんばんは!


トニオは実はけっこう普通の人物なんですよね。気が変わりやすいところとか、妙に引っ込み思案なところとかが…。でも才能はある、と。そこが魅力なのでしょうか。
トーマス・マンは初めてだったのですが、結構よい感触でしたね。私はまた読むかもしれません。


それにしても、

>「バラぐらいあげないとエミリーが可哀相だ」という

そ、そうだったのか…;
なんと可哀相な理由でしょうか。
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