半透明記録

もやもや日記

芸術の秋を堪能するーその2

2005年10月16日 | 学習
" Carmina Burana " Carl Orff
( SIMON RATTELE  BERLINER PHILHARMONIKER   EMI CLASSICS )



I氏からお借りしたCDです。テレビ番組でもよく使われている音楽なので、聞けば必ず「あ、これは!」とお思いになるだろう「カルミナ ブラーナ」。私は無知なので、I氏から教えてもらってはじめて、カール・オルフなる作曲家がいたということを知りました。そして気が付くと3周くらい平気で聞いてしまうのでした(1周およそ1時間)。

何でも「凄い」の一言で済まそうというのが私の欠点ですが、今のところ他に思い付きません。それに、絵や音楽というのは言葉ではない領域にある表現手段なので、それから得られる感動をいくら言葉に置き換えようとしても限界があるのではないかという気もします。逃げですかね……。

ともかく、この「カルミナ ブラーナ」ですが、とてもドラマチックでしびれます。盛り上がります。眼から鱗です。聞くものなのに「眼から」というのも変ですけれど。私はクラシックを聞くと眠くなると思い込んでいましたが、世界が狭過ぎました。じっくり聞くことができる音楽もあったんですねー。歌があるからかもしれません。物語を読んでいるような、映画を見ているような、不思議なことにそんな感じがします。そして明快で力強く、誰にも何にも似ていない。私はこういうのに惹かれるらしいです。


さて、このように、絵画や音楽でも自分の好きな方向を見つけることで、分かったことがあります。私には「言葉によって作り上げた(つまらない理屈をこねくりまわす)自分」とは別の性質の自分も存在しているらしいということです。馬が走っているだけの場面(ディズニー映画の「ノートルダムの鐘」の割と最初のシーンだったかと思われます)やある種の音楽(この「カルミナ ブラーナ」以外にもホフディランの「欲望」の2番の冒頭など)を見たり聞いたりして、悲しいわけではないのに涙が出るのはどうしてなのか、ずっとわかりませんでした。それ自体はいわゆる「泣くところ」とはどうしても思えなかったからです。(とは言え、いわゆる「泣くところ」も、それがどうしてそこで泣かなければならないのかも、実は分からないのですが……どうしようもないですね)
思うに、私はそこに自覚していなかった自分のある部分や、私が求めている何か(それが何かは言い表せませんが)を感じ取っていたのかもしれません。御承知の通り、私には言葉によって受け取ったものを表現することができないので、かわりに涙という形であらわれたのかもしれません。それが一番近い感覚なので。ともかく、そういう「受容体」としての自分を発見したせいか、このところ人として安定してきたようです。はじめて自分にも可能性があるかもしれないと思えました。もっと感動することなら出来そうだからです。それは錯覚に過ぎないかもしれないし、ちっとも生産的でもありませんが、私自身はそれでなんだかとても喜ばしいのです。遠くの星の光に憧れる時と同じように、先人たちの偉大な業績は、それが文学であれ絵画であれ音楽であれ、私の愚かさやそれに伴う恐れを一瞬間吹き飛ばしてくれます。「類推の山」の姿は今も見えませんが、そこへ続いているかもしれない道がぼんやりと見えて来た気がして、小躍りしているのです。

大好きな秋になってきたので、つい興奮してうわ言のようなことを長々と書いてしまいました。少しは自分を高めたい、そんな気持ちになる芸術と文化の秋です。天高く、私よ、もっと拡がれ。

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