正月気分もそろそろ終わりでしょうか。私はまだ帰省中ですが(明日まで)、家の者は皆今日からお勤めなどで出払っております。
年に必ず2度、なるだけ長く帰省するように心がけてはいますが、それでも私には1年のうちほんの10日間ほどしか実家の人たちの顔を見る機会がないわけです。その計算で行くと、今後10年間で100日、20年間で200日。仮にお互いあと20年を元気に過ごし、今と同じペースで顔を合わせられたとしても、全部で1年分にもならない。まあ、先のことは分かりませんから、もしかするとまた私はここで暮らすことがあるかもしれない。でも、それが無いと想定すると、私にはあと1年足らずの時間しか、家族孝行するチャンスがないわけだ。
そこで私はそろそろ少し大人になろうかと思う。
実は昨日も正月早々ちょっとしたいさかいがあって、家族は年明けから噛み合わないことになってしまいました。きっかけはささいなことでしたが、たぶん問題の本質はそこになく、もっと深くに根差した大きなものがときどき小出しに噴出するのだと推測します。
私はそれをただ悲しんでいても仕方がないので(←このへんが少し大人になった感じ)落ち着いてよく考えてみるに、この家の人たちにはそれぞれに「よりよい家庭」が与えられるべきなのです。誰もがうらやむような家庭ならなおよろしい。それを誰かにポイっと与えてもらう。そうすれば、もう誰がどう見ても素晴らしい家庭の中にある自分を発見し、不足や不満の苦しみから解放され、安心して穏やかに暮らせるのじゃないかと。
ところが、それを誰も与えてくれないから腹が立つわけだ。自分は家族のために苦労してきたのに、自分は家族のためにずいぶん我慢してきたのに、どうして結果がこんなものでしかないんだ、と。私に素晴らしい家庭とやらをみんなに与える力があればよかったのですが、残念ながら出来そうにないのが悲しいところです。自力ではなかなか望み通りにならない焦燥感は、みんなが自覚しているんだろうとも思われます。だからこそ腹が立つのだろう。
多くを望むなとはとても言えない。私自身の望みの大きさを思うと、とても言えない。望むのは構わない。でも、「望み方」というのがあるんじゃないだろうか。
しかしあれこれと考えてみたものの、この家族のいさかいについては、もう40年近く飽きもせず繰り返されているところをみると、またそこにあまり進歩のあとが見られないようであるところからも、ひょっとするとこれは単なるスポーツで、私がいまさら気を揉んでも意味がないのではないかと思ったりもしてきました。しかし私は揉め事は嫌なのです。悲しい気持ちで別れて、それがその人と会った最後だったなんてことにでもなれば、ずっと後悔するだろうと恐れるのです。少なくとも私には、家族との時間はあまり残されていないのだし。
それで私は、とりあえず私の心の平安のためではありますが、家族の人たちにもっと安心して穏やかに暮らしていける方向を探してほしいと思います。そして、人に変わってほしいと期待するからには、まずは私自身が変わるべきであろうと考えるのです。私は無関心で冷たい娘であることをやめて、遠くに住んでいることを逆に活かせるような役の立ち方ができる娘になりたい。どうしたらいいかな。もう少し頻繁に連絡するところからはじめるかな。
人間は変われるということを、人間関係は変わり得るということを証明しなければ。
望みのものを手に入れるために必要なのは、苦労や我慢というよりも、むしろ別のものではないかということを検証しなければ。
私はそろそろ大人になる。大人になったら、どういうことになるだろう。私が思っているような「大人」になる。何も変えられないかもしれない。けれども、もしも大人になれれば、少なくとも私だけは変わったと言えるに違いない。
私はそろそろと、しかし着実に、大人になりますよ。
ステキな結論だと思います。
ntmymさんはスゴい人だ。
無理に変わろうとするとまた疲れるので
徐々にやっていきましょう^^
去年の今頃は家族のいざこざの果てに超絶暗黒読書感想文を書きつけるに至っていたことを思えば(そのときもmanimaniさんはコメントをくださいましたね☆)、今年の私はなんていうかポジティブ? へっへっへ! 幸先は良い感じです♪
私はいよいよ一大決心をして大人になることにしましたが、たぶん最速でも5年…か、じ…10年くらいはかかるかもしれませんね(^_^;)
まあ、ノロノロと進むことへの頑固さでは私は定評がありますので、ゆっくり気長にやりますよ!