半透明記録

もやもや日記

『地獄へ下るエレベーター』

2008年06月06日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト

ペール・ラーゲルクヴィスト 谷口幸男訳
(『現代北欧文学18人集』新潮社 所収)

《あらすじ》
愛し合う一組の男女がエレベーターで下ってゆく。女にはしかし別にもうひとりの、とっくに愛想の尽きた恋人がいたが、今は目の前の男に夢中だ。二人を乗せて、エレベーターは下りに下る。そして着いたところは、地獄だった。

《この一文》
“――考えてみて、と女は、長い抱擁から自分をとりもどすと言った。あの人にあんなことができるなんて。でも、あの人ったら、いつも変な考えにとりつかれていたのよ。あの人はものごとをあるがままに、素直に、自然にとることができなかったのよ。いつも命にかかわるみたいだったの。――まったくばかばかしい話さ、とイェンソンが言った。  ”



うっかりして読むのを忘れていたラーゲルクヴィストの短篇。思い出して良かった!

この「地獄へ下るエレベーター」は、調べてみるとラーゲルクヴィストの初期の短篇であるようです。『刑吏』や『こびと』よりも前の1924年の小説集『不吉な物語』に収められた一篇。ごく短い短篇です。

ひとことでこの物語の印象を述べるならば、非常にお洒落であるということでしょうか。『バラバ』や『巫女』に見られた震え上がるような迫力は見られません。それは、この作品がとても短いというためかもしれません。が、とにかく、どちらかというときらびやかで明るく軽い印象です。ユーモラスでさえある。

それでも、ここにはすでにラーゲルクヴィストという人特有の疑念というか悲観というか、憎悪というべきか、そういうものも感じられます。

ひとりの女を愛する二人の男。男のひとりはイェンソン支配人。女の現在の愛を一身に浴びて幸福の最中にあります。もうひとりの男はアルヴィド。去っていく女を引き止めることができなかった「くそまじめ」な男。

女はなぜイェンソン支配人を選ぶのか。ものごとを疑わずにはいられないアルヴィドはなぜ捨てられるのか。
なぜ女とイェンソン支配人は地獄まで下りていかねばならなかったのか、なぜ二人はそこでアルヴィドと会わねばならなかったのか、そしてなぜ二人はなにごともなかったかのように平然と地上へと上がるエレベーターに乗って帰ることができるのか。

女はイェンソン支配人と出会うまで「愛ってどういうものか、知らなかった」と言う。またしても「愛」だ。この人の作品を読むと、「愛」の身勝手さや閉鎖性、無責任、そういうことばかり頭に浮かんでしまう。愛。そのひとことで全てが解決するだろうか。いや、誰も解決など望んでない。そもそもそこに問題があることすら気が付いていない。これが幸福というやつだろうか。そうかもしれない。たしかに問題なんてないのかもしれない。愛し合うふたりは美しくも見える。

だけど、でも。では、アルヴィドはなぜ地獄の住人とならねばならなかったのだろうか。彼が全てを疑ったからだろうか。そうかもしれない。今や地獄も近代化され、すっかり人間的になった。なにものをも信じられぬ魂を持つアルヴィドには地獄がふさわしい。愛のもとに手を取り合って見つめ合う幸福な男と女だけが、上へあがるエレベーターに乗ることができるのだ。

これはもちろん痛烈な皮肉だろう。と私は思う。でなければ、私の感じているこの激しい胸のむかつきに理由をつけることができない。


深く読もうとすると、私の読みは合っていないかもしれないけれど、なんだかとても痛みを感じる短篇です。苦い。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿