ラーゲルクヴィスト 谷口幸男訳(主婦の友社 「キリスト教文学の世界13」所収)
《あらすじ》
中世のどこかわからぬ巡礼宿。あらゆる階層の人びとからなる巡礼者の一団とそれにたかる悪人たち。この山中の宿に嵐をさけた一人の見知らぬ男がはいってくる。「遠い遠い昔に汲みつくされた泉のような眼」をしたこの男、キリストに呪われ、永遠に地上をさまよわねばならないユダヤ人アハスヴェルスである。彼は、学生から兵士に、さらに盗賊にまで成り果てたトービアスの打ち明け話に耳を傾け、彼の愛人だった野生の女ディアーナも今は淫売婦としてすさんだ姿をさらす。この三人に共通した点は巡礼の意味を信じていないこと。聖地を目指す彼等は、どういう運命をたどるのか。
《この一文》
” 人は、どうやって生きるかについては真剣に考えます。それに心を奪われ、よくしゃべります。しかし、人は何のために生きるのでしょう。それをわたしにいえますか。
人は何のために生きるのでしょう。 ”
熱望していたこの作品をようやく読むことができました。あいかわらず胸に深く突き刺さるような鋭さです。ほんの短い物語ではありますが、とても重要な問題が提起されています。人は何のために生きるのか。不条理で無意味としか思えない悲惨さにまみれて生まれたり死んだりする人間は平安を得ることができるのか。神を信仰することが、果して本当に人間に安らぎを与えることなどできるのか。もし与えることができるとしたら、神を信じない者に魂の平安は訪れないのか。
「さまよえるユダヤ人」であるところのアハスヴェルスは、『巫女』に引き続き今回も登場します。そして、『巫女』同様物語のほとんどの部分で、彼は聞き手として描かれます。今回、苦しみを述べる語り手は、トービアスという貧乏学生から兵士に、さらに盗賊にまでなった男です。彼の巡礼に同行し、トービアスの苦しみや彼の代わりに女(トービアスがかつてともに暮した女。本名は明かされないが彼はディアーナと呼んでいた)が死んでいくところに居合わせることで、アハスヴェルスは神の求めるところを知ることとなります。ディアーナは神など全く信じてはいませんでしたが、彼女が決して側を離れようとしなかったトービアスのために生命さえ投げうったというその事実に満足して死んでいったと、アハスヴェルスは思います。誰かの「代わりに」生命さえ投げ出す人々、神を父と仰ぎ人々の「代わりに」磔になったキリスト。結局のところ、人間を美しく輝かせるものとは、そのために生きているという実感、そのためなら全てを犠牲にしてもかまわないほどの何か理解を超えたものなのではないか。それは必ずしも神である必要はないかもしれない。
キリストによって呪われたと思っていたアハスヴェルスは、実のところ神によって呪われており、その神はキリストにとっても同じように犠牲を要求したという点において、アハスヴェルスとキリストはともに犠牲者、兄弟であったと気が付きます。しかし、キリストの方が幸せなように思えたのは、彼が「人々の代わりに自分を犠牲にする」ことを成し遂げたという満足感を感じていたからでした。呪いを受けさまよいつづけたアハスヴェルスは、ついに自分を呪った神の正体を、常に犠牲を要求するその姿を知り、そしてその神よりもさらに向うに確かに存在する何かもっと神々しいものの存在を感じることで神に打ち勝ち、呪いから自らを解き放つことになるのでした。
信じたくても信じられない苦しみや不安から抜け出すためのひとつの考えを得ることができました。私も、一人の神を信じることが出来なくとも、そのさらに向うに確かにある何かを信じ、そのために生きることができるでしょう。私のずっと先を歩いたラーゲルクヴィストのあとをもう少しついていこうと思います。そのためには、とりあえずこの『アハスヴェルスの死』につづく『海上巡礼』、『聖地』を読まねばなりますまい。しかし邦訳されてなさそうです。
ところで、ストルガツキイの『みにくい白鳥』でもダイアナという女性が登場しましたが、ここでもディアーナという女性が出てきます。「狩りの女神」であると同時にたしか「月の女神」でもあったのではなかったでしょうか。どういう象徴を持っているのか、この『アハスヴェルスの死』でも、謎めいた女性でありました。
《あらすじ》
中世のどこかわからぬ巡礼宿。あらゆる階層の人びとからなる巡礼者の一団とそれにたかる悪人たち。この山中の宿に嵐をさけた一人の見知らぬ男がはいってくる。「遠い遠い昔に汲みつくされた泉のような眼」をしたこの男、キリストに呪われ、永遠に地上をさまよわねばならないユダヤ人アハスヴェルスである。彼は、学生から兵士に、さらに盗賊にまで成り果てたトービアスの打ち明け話に耳を傾け、彼の愛人だった野生の女ディアーナも今は淫売婦としてすさんだ姿をさらす。この三人に共通した点は巡礼の意味を信じていないこと。聖地を目指す彼等は、どういう運命をたどるのか。
《この一文》
” 人は、どうやって生きるかについては真剣に考えます。それに心を奪われ、よくしゃべります。しかし、人は何のために生きるのでしょう。それをわたしにいえますか。
人は何のために生きるのでしょう。 ”
熱望していたこの作品をようやく読むことができました。あいかわらず胸に深く突き刺さるような鋭さです。ほんの短い物語ではありますが、とても重要な問題が提起されています。人は何のために生きるのか。不条理で無意味としか思えない悲惨さにまみれて生まれたり死んだりする人間は平安を得ることができるのか。神を信仰することが、果して本当に人間に安らぎを与えることなどできるのか。もし与えることができるとしたら、神を信じない者に魂の平安は訪れないのか。
「さまよえるユダヤ人」であるところのアハスヴェルスは、『巫女』に引き続き今回も登場します。そして、『巫女』同様物語のほとんどの部分で、彼は聞き手として描かれます。今回、苦しみを述べる語り手は、トービアスという貧乏学生から兵士に、さらに盗賊にまでなった男です。彼の巡礼に同行し、トービアスの苦しみや彼の代わりに女(トービアスがかつてともに暮した女。本名は明かされないが彼はディアーナと呼んでいた)が死んでいくところに居合わせることで、アハスヴェルスは神の求めるところを知ることとなります。ディアーナは神など全く信じてはいませんでしたが、彼女が決して側を離れようとしなかったトービアスのために生命さえ投げうったというその事実に満足して死んでいったと、アハスヴェルスは思います。誰かの「代わりに」生命さえ投げ出す人々、神を父と仰ぎ人々の「代わりに」磔になったキリスト。結局のところ、人間を美しく輝かせるものとは、そのために生きているという実感、そのためなら全てを犠牲にしてもかまわないほどの何か理解を超えたものなのではないか。それは必ずしも神である必要はないかもしれない。
キリストによって呪われたと思っていたアハスヴェルスは、実のところ神によって呪われており、その神はキリストにとっても同じように犠牲を要求したという点において、アハスヴェルスとキリストはともに犠牲者、兄弟であったと気が付きます。しかし、キリストの方が幸せなように思えたのは、彼が「人々の代わりに自分を犠牲にする」ことを成し遂げたという満足感を感じていたからでした。呪いを受けさまよいつづけたアハスヴェルスは、ついに自分を呪った神の正体を、常に犠牲を要求するその姿を知り、そしてその神よりもさらに向うに確かに存在する何かもっと神々しいものの存在を感じることで神に打ち勝ち、呪いから自らを解き放つことになるのでした。
信じたくても信じられない苦しみや不安から抜け出すためのひとつの考えを得ることができました。私も、一人の神を信じることが出来なくとも、そのさらに向うに確かにある何かを信じ、そのために生きることができるでしょう。私のずっと先を歩いたラーゲルクヴィストのあとをもう少しついていこうと思います。そのためには、とりあえずこの『アハスヴェルスの死』につづく『海上巡礼』、『聖地』を読まねばなりますまい。しかし邦訳されてなさそうです。
ところで、ストルガツキイの『みにくい白鳥』でもダイアナという女性が登場しましたが、ここでもディアーナという女性が出てきます。「狩りの女神」であると同時にたしか「月の女神」でもあったのではなかったでしょうか。どういう象徴を持っているのか、この『アハスヴェルスの死』でも、謎めいた女性でありました。
トーピアスと交わることで、穢れをもってしまった彼女が、自然を感じ、憧れを取り戻したことで、安らかな満足した死を迎える。
ドラマチックです。
大して複雑なストーリィでないのに、すごくレヴューに悩みました。
レヴューをいろいろな人に読んでもらって、「海上の巡礼」「聖地」が邦訳される機運が高まればいいなぁ。←希望的観測
そうですね。
素朴なもの、その身に本来的に神聖なものと変化をし続ける性質を持っているものとして描かれているような気がします。なんとなく。
ディアーナの死の場面はかなりドラマチックですよねー。とても印象的でした。
なんとか流行ってほしいラーゲルクヴィスト。
地道に普及活動をするしかないんですかね~。