ベランダから見下ろす桜がいよいよ満開に。
今日は桜を見に出かける予定。
ゆうべはだいぶ前に録画して保存してあったNHKの『映像の世紀』を見ました。シリーズのうちの何回目だったかはちょっと覚えていませんが、ヒトラーが登場する回でした。
当時のドイツは第一次大戦で敗北し多額の賠償金を背負っていた上に、追い打ちをかけるように1929年の世界恐慌にも深刻な打撃を与えられて瀕死の状態でした。そこへ颯爽と現れたのがヒトラー。30代後半の若い政治家は、その後5年ほどで、多くのドイツ国民、特に若い層の心を熱狂的に掴むのでした。
映像記録として残っているヒトラーの演説が印象的です。「私は幸福や金が天から降ってくるようなことは約束できない。それを手に入れるのは国民自身の努力によってだ!」とか、そういうようなことを叫んでいました。そして、実際にヒトラーは当時600万人とも言われた国内の失業者を大規模な公共事業によって50万人にまで減らすことに成功します。
金も名誉も自尊心も失って空洞化していたドイツ人たちが、この言葉と行動に熱狂した気持ちも分かるなあと、私などは思うわけです。状況は違えども、日本にもこれからこのような雄弁で実行力のあるカリスマをもった人間があらわれるかもしれません。人々が先の見えぬ不安に憔悴してしまったときに、強力なリーダーシップを発揮する人間があらわれるかもしれません。そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。とりあえず心構えはしておくべきかもしれません。
大きな困難を乗り切るには、より多くの人が団結して事に当たらなければならず、そのためには強力なリーダーが存在する必要があるのではないかと思うことがあります。独裁者は、最初は必ず民衆に熱狂的に迎え入れられ、彼の持つビジョンは魅力的で、しかもはじめはそれでうまくいきさえする。よって、喫緊の事態に対応しなければならない局面においては、独裁者は必ずしも悪ではないと思う。彼がその能力を十全に発揮し、責任を果たす限りは。けれどその存在価値は時限式なんだろうということは、『映像の世紀』のヒトラーを見ていてもつくづく感じたことです。どこかの時点で必ず迷走し始める。それが独裁者の欠点ですね。権力が、ある段階を超えると暴走してしまう。必ず馬鹿げてひどいことになってしまう。これはどうしてなんだろう。
そういうわけで、私は独裁者に興味があります。いま読んでいるロア=バストスの代表作に『至高の存在たる余は』という作品があるそうですが、これは独裁者小説の最高峰なんだそうです。読みたい。でも邦訳はないっぽい。。。うーん、うーん……
話がまとまりませんが、『映像の世紀』でゆうべ観た映像は、だいたい1920年代から1930年代を中心としていて第二次大戦直前までの当時の世界各国を映していました。そのなかで印象的だったのは、恐慌後の貧しいドイツのぼろぼろの服を着た小さな男の子が水たまりから泥水をちょっと掬って口に運んだり、家を持たない人々がその辺でごろごろ野宿している様子。このような悲惨の時代から、まだ100年経っていないということに、私はあらためて戦慄してしまったというお話です。ドイツ、凄いな。よくまた持ち直したよな。ドイツだけでなく、あの、あの混乱を極めていた世界が、よくまた栄えたりできたもんだぜ。
20世紀の前半は、人類の大規模な戦争の時代でした。瓦礫と死体の山がいくつも築かれた時代でした。それからまだ100年も経っていない。100年というのは、あるいは50年というのは、長い長い年月なんだな。そして、時代というのはなだらかに流れていくものではなくて、時々の凄まじい断絶を経て変化していくものなんだ。苦しみと悲しみの時代は突然やってくる。けれども逆に、きっと気がついたらまた人々は幸福と安定の世界で笑って過ごせるようになるはずだ。私は人間のこのような逞しさを信じる。信じるんだ。
若い頃から、21世紀はどんな世紀になるんだろうと、想像していました。
さあ、どういう世紀になるのだろう?
「わが闘争」をお好きだとおっしゃってましたもんね(^o^) 私はまだ読んだことがないのですが、ちょっと面白そうですよね~。そのうち読んでみたいところです!
>子供の純粋な心は、大人には理解できないのです。
それはある程度はその通りかもしれません。けど、大人になるにつれて純粋さを失うのだとしたら、それってどうしてなんでしょうね。