昨日kajiさんとユキさんと久しぶりに一緒に食事をしていて、大震災の影響と今後のなりゆき、依然先の見えない原発問題について激しいやり取りがありました。私たちの意見は三者三様で、希望と絶望、期待と失望、後悔と反省、自己嫌悪と憎悪に充たされていたように思います。それぞれが違ったところに立ちながら、違った言葉を絞り出したという感触があります。でも、私たちの望んでいることそれ自体は、少しも違わなかったんだろう。私たちはただ、誠実に粛々と平穏で安心できる魅力的で素晴らしい世界を築いて、そこで生きたいと望んでいるだけです、たぶん。私としては、私たちの意見が食い違うということは、つまりそれだけ可能性が存在することを意味しているのだと肯定的に考えたいところですね。
人間にとっての善の道というのはどういう道でありうるのだろう。人類という種を、とにかく存続させることだろうか。あるいは、人間にとっての進歩や進化とはどういう方向をさすべきものなのだろうか。
今回の原発問題では、「人間は、自分の力の及ばないほどの威力をもったものを、なぜ制御できるだなんて思ったのか。それは《バベルの塔》のようなものではないのか。自分たちの手には負えないものを、少しでも間違えば破滅すると分かっていてそんなものを生み出すなんて、人間はどうしてこうも愚かなんだ」という意見を目にしました。正直なところ、放射能への得体の知れぬほどに強烈な恐怖心から、私も同じように考えたものです。今だって恐ろしい。
「人間は、自らの限界をわきまえて、自然の力の上に君臨できるなどと考えず、そこでしか生きられないと宿命づけられたこの大地とともに静かに穏やかに生きるべきではないか。どうしてだか《進歩》というのは、《前へ前へ!》と人間の力を拡大させていく方向でしか語られないが、かならずしもそうではないんじゃないか。人間の限界の範囲内で、確実に地道に粛然と生きていくことは《進歩》でありえないのか」
こういう意見に触れて、私自身もまた《進歩》とはもっと《前へ前へ!》突き進むことだという方向へ傾いていたことを、そしてそれは人類をもっと遠くへ押し出すことだと、これまで歩んだことのない道へ、宇宙へと向かわせるものだと思い込んでいたということに気がつきました。どうしてこんな風に思うようになったのだろうな。気がついたら私は人類はいずれ宇宙へ出るべき存在だと信じていましたし、そのために必要になるであろう膨大な知識の蓄積と莫大なエネルギーの確保こそが《正義》であり、その困難な道のりの途中で発生するであろう多くの失敗や犠牲は、そんなことは出来ればあってほしくはないけれど、ある程度はやむを得ないとすら思っていたかもしれません。いや、これはいまでもやはりそのように信じていることではあるのですが。しかし、人類全体の、その構成員それぞれにとっての《進歩》に対する考え方には多様性があるのだということに気がついたわけです。未来の、進歩の可能性はひとつではないんだ。
ときに人は、間違えば大惨事になると予想していながらも踏み出してしまう。間違えば破滅だと思いながら、やっぱり間違ってしまう。なにがそうさせているのだろう。どうしてもっと理性的になれないのだろう。どうして自分たちの限界を正しくはかることができないのだろう。
人間の限界。それをどうやってはかるのか。
極論を言うと、ひとつ分かっている人間の限界には、《死》があると思う。いまのところずっと人間は《個人の死》を免れ得ない。ならば、死ぬと分かっているのだから、もう新たに人間を生み出すのはやめたらいいと思う。まあしかし、これは極論過ぎるだろう。それでは詰まらないんだよね。
あるいは別の限界ということでは、人間の知性や理性といったものもあるだろう。人間は、この世界のことをほとんどよく分からないままに生き延びてしまっている。常に色々なことがよく分からないんだけれど、とりあえずあれこれとやってみたりすることはできたりする。そして時々、または頻繁に失敗する。こういった人間の愚かさと惨めさをこらえきれないなら、すっかり人間の存在を絶滅したらいいと思う。それがもっとも理にかなっているのではないだろうか。そうすれば、てっとりばやく永遠の平穏が手に入るのではないだろうか(ああ、私はまた極論に走ってしまう)。けれど、そうはならないだろう。人間は生きることが楽しいばかりではなく苦しいものでもあると知りながら、むしろ不足と不満と不安に苛まれるばかりと知りながら、そして生まれれば死ぬまで生きるしかないと知りながらも、飽きもせず延々とこの種を存続させてきた。神話の時代から、人間は失敗すべくして失敗を繰り返し、その愚かさを克服できないまま、ここまでやってきたらしいように思える。人間が人間になる前からずっと生命はそれを繰り返してきたのではないだろうか。しかし自滅的破壊的行為を繰り返す人間の愚かさと不完全さは、いまだ人間を滅ぼしきってしまうことに成功していない。愚かで弱くて足りないものは滅ぶべきというのが真理ならば、いずれそれは果たされて人間は滅びるだろう。でもまだそうなってはいないじゃないか。これをつまりどういうことだと考えたらいいんだ?
今回の大震災とおさまらない原発事故に接して、なんだか急に多くの人が、いますぐに聖人や超人になりたがっている気がする。「あまりにも酷い。それなのに、なぜ私は素晴らしい人間になれずにきて、今この時にもそうなれなんだろう」と心を焦らせている気がする。あれこれの酷いことは起こらないほうがよかったに決まっているけれど、しかし起こってしまったからには、起こしてしまったからには、いずれにせよ立ち止まることはできないのだろう。多くの人が変わりたがっている。
一大跳躍が待っているのではないか。
焦りと混乱と恐怖の渦の中から、誰かがきっと飛び出すことを期待する。少しでも多くの人がここから抜け出せることを期待している。深い傷を負い、多くを失ってしまったあとでも、まだ生きているなら。まだ生きているなら、この無力感や喪失感、絶望に耐え抜いて、激変の中を生き延びるんだ。たとえ私という存在がこれほどに無力で愚かで馬鹿げていて、いまこのときに苦しんでいる人々にとって何の具体的な助けにならなくても、「人が生きる」ということを肯定するなら、私もまた生き延びねばならない。人間はこんなふうに惨めに生きるべきではない、こんなふうであっていいはずがない、なんて怒り怯え震えながら、這いつくばってでも生きないとならない。私の無様な体の上を、けれどもそのおかげで汚れずに歩んでいけるかもしれないこれからの人たちが現れるのを期待して。もっと遠くが見たいという彼らのための、まだまだ低くて脆いだろう土台のごく一部にでもなれるといい。私が今、間抜けで無力な馬鹿者としてここに立っていられるのは、いつかの誰かが耐え抜いてくれたおかげ。それが果たして良いことだったのか、彼らはこんなことを期待していたのか、私はこんなふうであるべきではなかったのかもしれないが、ともかく私はまだこんな有様でも生きなければならない。私はこの足もとに悲しみと苦しみの涙を注ぎながら、同時にもう一つの目では遠い星の光を探したい。
ああ、やっぱり私の考える《進歩》とは、こういうものなんだな。これからの世の中がどこへ向かって歩き出すのか分からないけれど、私はまだしばらくはこの考えを持って、端っこでそろそろと後をついていこうと思う。
しかし…それにしても、私はまったく抽象的にしかものごとを考えられないのであった。どうなっちまってるんだ。ふう。
とりあえずそういうわけで、昨日は、こんなことを一生懸命に考えました。こんなものが何の役に立つのか。さあ、それを決めるのは私ではないだろうからなあ。でもいつか少しでも誰かの役に立つかもしれぬ可能性を捨てきれないので、今日も私はこの私の足りなさと愚かさに耐え抜きます。いますぐ克服はできないけど、そしてたぶん克服できず仕舞になるだろうけど、とりあえず耐えるよ。
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