半透明記録

もやもや日記

「幻滅」

2012年03月28日 | 読書日記ードイツ

『トオマス・マン短篇集』所収
実吉捷郎訳(岩波文庫)



《あらすじ》
サン・マルコの広場で出会った、年齢のよく分からぬ、風変わりな男は、彼の生涯にわたって続く「幻滅」について語り始める。

《この一文》
“ 人生というものは、私にとってまったくのところ、いろんなぎょうさんの言葉から成り立っていました。なにしろ、そういう言葉が心中に呼び起す、あの絶大な茫漠たる予感をのけたら、私は人生についてなにひとつ知っていなかったのですからね。 ”




トーマス・マンは、ほんとうに残酷だと思う。道を行き過ぎる人たちの姿から、あるいは毎日鏡に映してみる私自身の姿から、ときおり滲み出るあのどうしようもない哀しみについて、どうしてこんなふうに書いてしまうのかといつもしょんぼりさせられる。この「幻滅」は『トオマス・マン短篇集』の最初のお話で、ほんの10頁ほどの短い作品です。しかし私はこれがあんまり残酷なものだから、もう次の話を読む気力もない。ひどいや。


「僕」はサン・マルコ広場で出会った風変わりな男から、数多くの幻滅に覆われた彼の人生について聞かされる。男は書物の中の多くの言葉によって人生が幸福であれ不幸であれ何か強烈なものになるに違いないと予感しながら世間へ出て行くも、その期待はそこそこ叶えられたとしても結局はいつも「けれども、こんなものにすぎないのか」と思わずにいられない。どんな不幸な目にあっても、死の予感ですら「これがどうしたというのだ」という幻滅を生じさせるばかり。幸福の、感激の体験ですら彼を幻滅させただけであった。自分は事実に対する感覚を欠いているのかもしれぬという彼は、幸福でも苦痛でも、ただ最低限度の稀薄な状態のところだけを知っているにすぎないのだろうか。

「そうとも信じられません。私は人間というものを信じないのです。ことに、人生に直面しながら、詩人どものぎょうさんな言葉に、声を合せるような奴等は、一番信じられませんな。――あれは卑怯です。虚偽です。あなたはまた、世の中にこういう人間がいるのに、お気がつかれましたか。つまり、ひどく見栄坊で、むやみと他人から尊敬されたい、ひそかにうらやまれたいと渇望する結果、自分たちは幸福についての偉大な言葉は体験したが、不幸についてのはしたことがないなんぞと、述べ立てる連中があるのですよ」



幻滅しないためには、期待をしないことです。しかし、少しの期待もなく人生を送ることはできるでしょうか。過大な期待と欲望を抱いたがために幻滅に幻滅を重ねながら、それでいてその幻滅を無視して、幸福な振りをして暮らすこともしてみたというこの風変わりな男の姿は、どこか私の姿とも重なりました。私のこれまでの人生にも、さまざまな喜びと苦しみの瞬間があり、いくつかの瞬間は私を打ち砕くのではないかという激しいものでありましたが、結局はただ一瞬間だけのものに過ぎず、のこりは平坦なものでした。それが人生であり、それが幸福だといえば、そうなのかもしれません。

人生とはこんなものでしかないのか、と問えば、必ずしもそうではないのでしょう。しかし、「私の人生とはこんなものでしかないのか」と私自身に問えば、「そうだろうな」と思うのです。私は常に何か凄いものに私ごと打ち砕かれたいと願ってはいますが、私の器は小さく脆く、簡単に打ち砕かれそうなのになかなかそうならない。それは単に「私にはその価値がないから」あるいは「私には常にその用意があると思ってはいるが、それは思い込みに過ぎない」のではないかと思うのです。そう考えることは私のためにはとても哀しい。ときどきそんな姿が鏡に映るのを見ては哀しみを感じます。


トーマス・マンの作品をいくつか読みましたが、ときどきこういった人物が出てくるので悲しいです。最初からその人が持ってすらいない何かを身のうちに留めようと空しく見当はずれな努力を続ける人物。その何かにこだわるあまり、すっかり時間や世間の流れからはずれて、年齢不詳の、一見若いようにも見えるがよく見ると年老いて残骸のようでもある風采の人物。私もそのうちこうなるだろうと思うと悲しい。でも、こんなふうに見えたり、こんなふうになったりすることが、どうして悲しいのかな。なにが悲しく思えるのだろう。なにか悪いことがあるだろうか。得がたいものを熱烈に求めることは無様なことだろうか。いや違うか、得がたいものを熱烈に求めながら、結局得られないことが無様なんだな。得られないと知りながら諦めないでいることが悲しいんだ。でも…どうしてそれが、そんなに悲しいと言うの?



ともかく、「幻滅」にはガックリきました。トーマス・マンはこんなお話ばかりを書いていて辛くはなかったのでしょうか。こんなふうに世の中を見つめてしまえることが辛くはなかったのでしょうか。

私も毎日身に余るほどの期待と欲望のために幻滅をつづけています。彼のように人生を決定づけるほどの幻滅もいくつかあった気もしますが、今日のところは、この「幻滅」について3日間もくよくよ考えさせられたことに「幻滅」。その上その間考えたことをすっかりまとめきることができなかった私の能力のなさにも「幻滅」しております。でも、まあ、それはいずれもうちょっとマシになるんじゃないかな。私はきっとそこまで「幻滅」しきれるほどの器じゃないや。そんな、なにごとも中途半端な私にまた「幻滅」。「幻滅」がとまらない! けど、こんなのはささいなことだ。


私はまだ「ぎょうさんの言葉」に翻弄されるのが楽しいから、本格的に幻滅と哀しみを味わうのは、私が残骸になってからにするとしよう。さあ、夢を見て星を数える作業に戻るんだ!







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