アナトール・フランス 堀口大學訳
(『詩人のナプキン』ちくま文庫 所収)
《あらすじ》
ルイ王の治世のフランスに、コンピエンヌ生れのバルナベと呼ぶ貧しい一人の曲芸師があって、手品と軽業を人に見せながら町から町へと渡り歩いていた。聖母を深く信仰する正直者の曲芸師は、あるとき僧院の院長と知り合い、そのまま出家する。仲間の僧侶達が各々に備わった技能の限りを尽くして熱心に聖母に祈りを捧げている様子を見て、バルナベは自身の無学と素朴を嘆くのであった。
《この一文》
“ ――ああ! 私の心のやさしさのすべてを捧げている神様の聖なる御母の頌徳のために、私の同僚たちがつくすような芸能を、私の持たぬのは悲しいことだ。ああ! ああ! 私は粗野でありかつは芸能の無い男なんだ。聖母さま、私はあなたさまのご用に捧げるために、感化力のある説教も出来ず、規則的に区分された論文も書けず、精細な画も描けず、と云ってまた、形の正しい石像を刻み得るでもなく、字数を合せ調子をとって進んで行く詩も書けないのでございます。私には何も出来ないのでございます。ああ! ”
『詩人のナプキン』は私のお気に入りのアンソロジーであり、私はアナトール・フランスが大好きであり、さらにその「聖母の曲芸師」は他にも多くの作品集に収録されているので、私はこれまでに何度も読んだことがありました。もちろん物語の大筋も頭に入っていたのです。
しかし、物語の大筋を把握していることと、細部についても詳しく理解しているということとの間には天と地ほどの開きがあるのだということを、私はあまりに巨大なアナトール・フランスの足もとに平伏し涙をこぼしながらあらためて痛感することになったのです。
今回もう一度「聖母の曲芸師」を読んでみると、驚くほどに心を打たれました。美しい物語だと分かっていたつもりでしたが、これまではこれほどではありませんでした。ほんの短い物語ですが、今日は途中から、温かいものが溢れ出てくるのを止めることができません。
この物語がどういうお話かというと、こんなお話です。ほぼ全部の要約なので、これから原作を読もうという方はご注意ください。
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ひとりの信心深く正直な曲芸師が出家すると、同僚の僧侶たちは彼らの持つ立派な技能でもってラテン語の詩を作ったり、素晴しい石像や絵を描くことで聖母を熱心に信仰しているのを目の当たりにする。それに比べて曲芸師には曲芸以外に何の芸もなく、どうにかして聖母のために尽したいと願いながらも手立てを見つけられず悲嘆に暮れる。
ところが曲芸師はある時から元気よく起き出てはしばらく御堂にひとりっきりで籠るようになる。不審に思った院長と長老たちはこっそり彼の様子を戸のすきまからのぞくと、曲芸師は聖母像の前で、彼が以前に世の中で好評を受けた曲芸の数を尽くしているのであった。院長は曲芸師の無垢なことを知ってはいたが、この時は精神錯乱を起こしたのだと思い、瀆神であると言って、彼を御堂から引きずり出そうとする。
すると、祭壇から聖母が降りてきて、その衣の裾で軽業師の汗を拭ってやるのであった。院長と長老達は地に接吻し和唱する。
「心、愚直なる者は幸いなるかな、彼等神を見るべければなり」
「アアメン!」
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という、とても美しい物語です。私の要約よりも、この堀口訳を読むのをおすすめしたいですね。
さて、「無学と素朴」ということについて考えると、時々私も嘆きと悲しみの中に陥ってしまいます。どうして私たちはあれらの人のように優れていないのか。どうしてこんなにも分からないことばかり、できないでいることばかりなのか。なぜこんなふうに、何も持たないままで生きていかねばならないのだろうか。
けれども立派な他人と比べて自分を嘆いたりしなくても、何か少しでも誰かを喜ばせたり誰かが認めてくれるような能力を持っていたら、それだけでもこのバルナベのように私たちもまたこの世の中で美しく生きていくことができるのではないだろうか。不足や不満、嫉妬や羨望が人間をより高く遠いところへ突き動かそうとするのかもしれないけれど、その前に、まずそれぞれが持っているものを優劣なしに評価してやることができればなあ。その価値と意味を正しく知ることができたらなあ。そしたら、もしもそれが自分の求めているものとまるで違っていたにしても、せめて「何もない」なんて思わなくてもいいだろうし、そしたら「何もできない」なんて嘆かずに済むんじゃないのだろうか。
私は人生というものが誰にとってもそんなふうなものであってほしい。誰にでもそれぞれにできることがあり、どんなにささやかなことであってもそれによってせめてその分くらいは満たされたっていいはずだと思う。これは、ただ与えられたものに満足しろというのではなくて、立派で素晴しい、自分は持たぬなにかに憧れるのもいいけれど、比較するあまり自らの能力を低く扱いすぎたり能力があること自体を見過ごしてしまうことがないといい。誰にでもなにかしら美しいところはあるはずだ。いつかそれを、誰もが聖母の裾に拭われるように、優劣なしに評価してやることができたら。誰もがただ存在するだけで美しくなり得たら。我々が、我々自身の価値と意味を知ることができたら、我々自身の価値と意味を本当に理解することができたなら、私たちは不足も不満も忘れて、そのために誰とぶつかることもなく透き通って硬く丸い珠のようになって、安心して生きていくことができるようになるだろうか。違うのはそれぞれの色くらいでさ。遠くを目指すのは、それからだっていいはずじゃないか。だからまずは知らなければ。私のそれを。彼等のそれらを。
と、今回はこんなことを思いました。
無垢なるものへの眼差しが、アナトール・フランスの魅力のひとつだと感じますが、とくに無垢なるものが汚されぬほどに強く、傷つかぬほどに美しく描かれている時、私はなにか圧倒的なものの前に立たされ、溢れ出るなにかに押し流されてゆくのでした。
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