最近ある人にメールを送ったのですが、私自身も噛み締めたいと思ったこと。
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目が覚めてみるとふいにある物語の一場面が浮かんできました。
私の話すことはいつも物語からの引用ばかりなので情けなくも申し訳ないけれど、人生を疑似体験によってしか生きられない私のような人間には仕方のないことでもあるのでちょっと許してほしい。
その場面というのは、ロア=バストスの『汝、人の子よ』より、
若い夫婦が貧しい暮らしから新天地を求めてマテ茶農園へ移住するのだけれど、そこでは死ぬまで続くあまりに過酷な農奴生活が待っていたのであった。耐えかねた夫は身重の妻が出産するのを待って、息子が生まれるなり3人で決死の脱出を試みる。
密林の泥沼の中に潜みながら逃げる家族、前方にはピューマ、もう一方には銃を構えた無慈悲な農園主。絶体絶命の状況で、乳飲み子が腹を空かせて今にも泣き声をあげそうである。
という場面です。たしかこの場面でこういう文章が出てきた。
そうだ、生きるということは、どれほど前方から、あるいはどれほど
後方から眺めようと、つまりは心の奥底で執拗に焔(ほのお)を燃や
すことなのだ。一見不可能と見えるものも達成し、最後まで持ちこた
え、力の限界を越え絶望とあきらめを乗り越えて耐え抜かずにはおれ
ないことなのだ。
――『汝、人の子よ』ロア=バストス(集英社版 ラテンアメリカの文学10)
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その人にはどういう風に伝わったのか、あるいは全然見当違いで話が通じなかったかもしれませんが、思い出したこの場面はやっぱりむしろ私にとって必要なものだったのかもと思う。
誰かに今こそ何か伝えたいと思うことは多々ありますが、言葉というのは届かないことを前提に放たれているもののような気もする上に、私自身の言葉というのがなかなか出てこなかったりもします。それでいつも物語に記された言葉を借りて済ますのです。しかし、そういった言葉の数々はたしかにある時私に届いたものであって、私も簡単に諦めたりせずに、いつかは自分の言葉をどこかに残したいものです。放たれてしまえば、たとえ一方通行だろうと、もしかしたらいつかどこかの誰かに届くかもしれない。文章を書いたり読んだりするということには、可能性がありますね。