まったく同じタイトルで過去にも記事を書いたことがあるような気がしますが、これはエレンブルグにこういうタイトルの著作があって、私はこの語感が好きなので日頃からよく思い出しています(本のほうはまだ読んでいない)。
人は生きることを望んでいる。私もまた生きることを望んでいます。とにかく生きる。今日も生きているか、それが私の核心。もうダメだと思うときに戻ってくるべき場所が「私はまだ生きているか(もうダメだという思いしか見当たらないにしろ、まだそう思うこと自体は可能であるか)」というところなのです。生きるべきかどうかに悩んだ末に、とにかく悩みながらでも迷いながらでも苦しさに耐えられる限りは生きのびると選択して以来、私は少し落ち着いたような気がしますね。少なくともこの問題では当分悩まないつもりです。
しかし、とにかく生きると決めたものの、いかにして生きるべきかについては悩みの真っ只中です。どうしたらより良く生きられるのか。より良く生きるとはどう生きることなのか。どうも人間というのは、ただ生きているというだけでは満足ができない種族のようにも思えるけれど、たくさんの欲望や願望を抱きながらそのすべてが叶わずに終わるとしたら、それでも望み続けるべきなんだろうか。なんてことを悩んでいるあいだに、なにもできないまま、時だけが過ぎていくけれども、果たして人生はそれでいいのだろうか。私の人生についてはそれでもいいんだけれども、周囲の人々とともにより良くありたいと思うとき、私はやっぱりなにかしらの行動に移らないとならないよな。これからの私は、少しは他者を思いやったり手伝ったりそのために生きたりすることができるだろうか。それを望んではいるのだけれど。
お産まであと2週間を切って、私のナーバス加減もマックスに近づいています。焦りと重圧と不安にほぼフリーズ状態です。そのせいか、思っていたことを書ききれませんでした。本当は「転機は思わぬときに思わぬ形であらわれる」ということにからめて書きたかったのに書けなかった。こんな思考力のなさで大丈夫なんだろうか。まあ、いい。大丈夫じゃなくてもしぶとくいくぜ!