『美しい水死人』(福武文庫)
『遠い女‐ラテンアメリカ短篇集』(国書刊行会)
所収
《この一文》
“また、自分のことを知らない人がやってくると、わざと、目につくところに寝そべって<死んだふり>をするのだが、そのあとだしぬけに卑猥な指形を作ってみせた。かつての主人である司令官の顎を軽く叩くのがひどく気に入っていたが、蠅がうるさくまとわりついたりすると根気よく追い払ってやったものだった。司令官は出来の悪い息子でも見るように、そんな手をうっすら涙を浮かべ、やさしい目でじっと見つめていた。
――「アランダ司令官の手」より ”
ラテンアメリカの作家を整理する、第2弾。
今日はメキシコの学匠詩人・外交官であったアルフォンソ・レイエス(1889-1959)です。この人の作品は、『美しい水死人-ラテンアメリカ文学アンソロジー』(福武文庫)と『遠い女‐ラテンアメリカ短篇集』(国書刊行会)にそれぞれ1篇ずつ収められています。
まずは「アランダ司令官の手」(井尻香代子訳:『美しい水死人』所収)から。
さて、何度読んでも、燃え上がるような興奮を抑えきれなくなる物語というのがいくつかありますが、アルフォンス・レイエスの「アランダ司令官の手」もそんな物語のひとつです。これを読んだか読まないかで、私の人生は大きく違ったことでしょう。面白いのです。ありえないくらいに面白いのです。私がもっとも好きな短篇のひとつです。超傑作。
アランダ司令官は戦闘で右手を失い、その右手を剥製にして飾っておくことにします。よく手入れされ、ガラスケースに飾られた司令官の右手はしかしあるとき突然に自意識を持ち、好き勝手に家中を歩き回っては司令官の家庭に大混乱をもたらすことになる……というお話。
なにこれ。本当に何度読んでも面白過ぎます。この奇想! このユーモア! 短篇小説がこんなに面白いなんてことが、こんなにも面白く読めるなんてことがありうるだろうか! ほんとにもう面白いとしか他に言いようがないです。
この面白さを私はどうにか人にも伝えたいと以前からずっと思っていて、機会があるごとに一生懸命に説明しようと努力を重ねてきたのですが、なかなかうまく伝えられません。なにしろ一分の隙もなく面白いので、私は「面白い、凄い」のほかに言葉が出てきません。他に言いようがありません。たとえば、切断された手が自我を持ってその辺を這い回り、いたずらしたり筋トレしたり自分で運転してドライブに行ったり愛人である左手のもとへ夜ごと忍んできたり、しまいには文学に目覚めたり…なんて粗筋を説明しても、それだけではこの作品の面白さは伝えられない気がします。むしろ私はここで全文引用したいくらいです。そうすればいかにこの物語が驚異的であるかが分かってもらえるだろうになぁ。と、いつも己の説明能力の足りなさが恨めしく思われるのでありました。ついでに残念ながらこの本は絶版です。なんてこった!
それで今日もまた私は面白い、面白いとひたすら連発しているのですが、ただ愉快だとか笑えるという面白さがあるだけではありません。読者はここに描かれた《手》を通して、さまざまな問題に直面させられます(多分)。何度もしつこく読み返しているくせに私はまだこの物語を読みこなしているとは言いがたいのですが、多分ものすごく深いところにある意味を探ることも可能な作品なのではないかなと思います。
人生とは、社会とは、人類とは何か、というところまでだって行こうと思えば行けそうです。けれどもそんなことを考えなくても文句なしに面白く読める! というところがやはりこの作品の素晴らしさと言えましょう。好きです。もう無茶苦茶に。感動的過ぎる。
もうひとつは「夕食会」(入谷芳孝・木村榮一訳:『遠い女』所収)です。
正直なところ、私はこれはいったいどういう話なのかがよく分かりません。なにか意味深なところがあるのは感じるのですけれども。
見知らぬ二人の女性から夕食会に招待されて行ってみると、彼女たちは「僕」になにか頼みたいことがあるようで…というような話。うまくまとめられません。
いまのところこれは私の理解を遥かに超えています。見返してみるまで「アランダ司令官の手」と同じ作者によるものだと気がつかなかったのですが、とにかく幻想怪奇風味な一篇です。
というわけで、アルフォンス・レイエス。他にも読んでみたいところですが、邦訳はこの2篇以外になさそうです。残念だなー。ま、でも私は「アランダ司令官の手」と出会えただけで、かなり、十分に満足しているのですがね。