萩藩士杉百合之助の二男大次郎は、1830年に生まれた。のちの吉田松陰である。
大次郎は、幼いうちに吉田家の養子となり、山鹿流兵学師範の家職を継いだ。6歳で、吉田家の8代当主となったのである。
11歳の当時、吉田大次郎は兵学教授見習いとして、全国有数の藩校明倫館で山鹿流兵学の講義をうけもっており、藩主に親試もおこなった。「兵法に曰く、まず勝ちて後に戦ふと・・・」
16歳になった読書熱心な大次郎がさかんにのぞんだのは、海外の情報だった。たいへんな危機感をもってアヘン戦争の概要を知ったのは、17歳の夏ごろである。
それから3年後の5月、海外情報があつまる九州の平戸の存在をしった。大次郎は九州遊学を決意し、願書を藩に提出した。21歳の8月25日、許可を得て旅立った。
処刑されるまでの9年にわたる大次郎の旅のはじまりだ。小倉、佐賀、長崎。平戸には50日滞在。むさぼるような読書の毎日。島原をへて、熊本。柳川、佐賀。帰国は12月29日。
1年後、江戸へ遊学。江戸で知った著名な学者たちは、かれが予想したほどのものではなかった。
大次郎の東北旅行は、友人との約束をまもるために、藩の許可が下りる前に、亡命してしまう。亡命は士籍はく奪、家禄の没収がふつうだ。難渋する旅で、50篇の詩がうまれた。
吉田松陰の生涯の重要な部分は、旅にあけくれている。10年間に8度の旅にでて、日本列島をほぼ二周するほど歩いた。
結果的には、松陰の亡命は、封建家臣から解き放たれ、活動に大きく寄与することになった。
士籍はく奪とされた松陰は、藩主のはからいで、10年の遊学にでるようにうながされ、江戸へむかった。24歳。
その5か月後、ペリーが浦賀にあらわれた!それを知った松陰は、ただちに浦賀にむかった。夜小舟をやとい品川で上陸したかれは、「遂に上陸して疾歩す」と日記に書いている。「心甚だ急ぎ、飛ぶが如し、飛ぶが如し」と。
藩は黒船来襲にどう対処すべきか、松陰は死にも値する罪をおかして上書した。幕府の対応を批判している。そして、翌年春にペリーが返事をうけとりに来るときには、必ず戦争になると予想した。そうすれば江戸は総崩れになるだろうと。
しかし、和親条約が調印された。
松陰、どうする?
かれは、条約を破棄せよとはいわない。ここがすごいのだが、松陰のつぎの行動は海外渡航なのだ。密出国をはかるが失敗する。
江戸小伝馬町の獄から荻に移送された松陰。1年2カ月におよび野山獄につながれた。その間、なんと、554冊を読破している。その後2年をあわせて、3年間の読書は、実に1,500冊。
獄を出た後も、家族以外の面会は禁止されていた。家族のためにはじめた小さな講義が次第に拡大し、やがて松下村塾に発展する。松陰は、いう。「奇傑の人物は、必ずここから輩出するだろう。・・西端の僻地たる長門国が天下を奮発振動させる根拠地となる日を期して」と。その明確な理念をもった松下村塾は、そのとおりとなった。
中心メンバー30名の半数が明治までになくなるという激烈な革命集団をうみだした松下村塾。それは、吉田松陰の刑死によって塾生に覚悟と思想と結束を生み出したからである。
海外渡航の失敗は、1,500冊の読書と、松下村塾の発展を生み出した。失敗は「天命」というべきか。松下村塾抜きの明治維新は考えられない。