土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

慈尊院は空海さんが母公のために建てたお寺です。

2012年10月23日 | 和歌山の古寺巡り


(2012.10.20訪問)

八葉蓮華の仏の世界高野山は、女人を永らく拒んできました。自らが決めた女人禁制の法度、母親すら入山
を許すことのなかった空海さんは、一往復約50キロの山道を母に逢いに月に九度は山と寺を往復、このお寺
に通ったと伝わる九度山町。それが九度山 (くどやま) の名の起こりと伝わるこの町に慈尊院はあります。
なんと3~4日に一度ですよ! 真言密教教義の完成者空海さんとて人の子、母を想う気持ちは人一倍、どこか
身近に感じる空海さんの一面が伝わってきます。そんなお話の残る慈尊院を訪ねました。

▼世界遺産碑 平山郁夫さんの揮毫です。




[ 慈尊院 ]
●山号 万年山(まんねんさん)
●寺号 慈尊院(じそんいん)
●宗派 高野山真言宗別格本山
●開基 弘法大師空海
●開創 弘仁七年(816年)
●本尊 木造弥勒仏坐像(国宝)
●平成十六年(2004年)「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録。

慈尊院縁起
弘仁七年、空海さんが高野山開創時に参詣の要地に当たるこの地に高野山一山の用務寺務所を置き、伽藍を
草創、宿所と修行の場とされた。その後空海さんの高齢の母公が当寺に来住、本尊弥勒菩薩を尊崇、逝去後
空海さんは廟堂を建立し、自作の弥勒仏を安置されました。寺名慈尊院の由来は、弥勒菩薩の別名が慈尊で、
これにより慈尊院と呼ばれるようになったと伝わります。

▼表門。




▼訶梨帝母尊堂。




▼多宝塔。方三間、チタン葺。塔高16m、元は三重塔。寛永年間の再建の時に二重の塔に。
平成二十四年解体修理完成。




▼拝堂。本堂前に建ち拝殿の形をとるお堂。




▼拝堂扁額。




▼拝堂内の荘厳。
内部は豪華な荘厳がなされています。空海さんと母公の画像が祀られ、中央透過窓の向こうが本堂前面です。




▼本堂(重文)。弥勒堂、廟堂とも呼ばれています。方三間、檜皮葺、宝形造り。平安時代末。
本尊 木造弥勒仏(国宝)、像高91cm、(秘仏)。
平成27年4月2日~平成27年5月21日まで高野山開創1200年を記念して本堂の御開帳が行われるそうです。




▼本堂前の安産祈願の絵馬。
高野山への女人の入山を禁じていた弘法大師は自分の母も許さなかった。そのため母公はこの寺に住み弥勒
菩薩を信仰、逝去して弥勒菩薩に化身したという信仰になり、女人の高野山参りはここ慈尊院に限られ、女
人高野とよばれるようになるのです。女性のための安産祈願、子宝成就、育児、授乳等を願いを、乳房型絵
馬に託してを奉納するようになったと云われています。




▼鐘楼。




▼弘法大師修行像。




▼ゴンの碑。
山道20キロを歩きつづけたノラのゴンは1998年春、慈尊院に住みつき、高野山金剛峯寺までの町石道を、
お遍路さんについていくうち道を覚え。連日、大勢の参拝者を先導し、朝慈尊院を発って、夕方に高野山上
の大門まで道案内し、夜には慈尊院に戻る毎日を送り「お大師さんの使いの名犬」として有名に。1995年に
体力が衰えて引退、2002年6月5日、老衰のため慈尊院で永眠、同年7月23日に境内の弘法大師像の横に、
ゴンの石像「高野山案内犬ゴンの碑」が建てられました。




▼五輪塔。承安元年(1171年)の放火のためお寺全焼、その灰塚として建てられた石塔。



▼石段の上は丹生官省符神社。ここから高野山への表参道の町石道。石段を少し上ると高野山町石道第一番
の丁石が建っています。




●高野山町石道
高野七口といわれる高野山の登山道七本のうち、空海さんによって高野山開創直後に設けられた参詣道で、
慈尊院(海抜94m)から高野山壇上伽藍(海抜815m)、高野山奥の院弘法大師御廟に至る全長約23kmの高野山
への表参道のことです。

▼東門。




▼最後にもう一度多宝塔で慈尊院オシマイ。