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土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

[ 雑感 ] 納涼? 高野山へ

2008年09月14日 | 
お盆休みの最中、
「あした高野山にいきたいワ!日帰りで。」と我が女房。
「えッ!なんで?」一瞬ナイスと思ったボク。
「高野山って山やろ、涼しいのとちがう。」と女房。
「?……。」ボク。
ちょうど前日にお墓参りは済ませていたのでアトの予定は全くなし。残りの休みはどう過ごすか、「暇はある。金はない。」例のCMの心境を地で行っているトコロなので「日帰りええなァ。」早速南海電車なんばへ特急こうやのチケット予約にTEL。「お客さん明日午前の特急こうやは満席です。」とつれないご返事。ということを女房に云うと「急行で行ったらええやん。」の一言で決まり。

ラッキーにも霊宝館で[八大童子]が公開中。ボクは[涼]ではなくて運慶作と云われるこの名作見たさに内心ワクワクしたのでした。然し然しここは海抜1000mといえども夏は夏、夏は暑いを実感、残暑真っ直中、カンカン照り、町を歩いている人は少ない。およそ深山霊域の深遠な大師思想に覆われた霊域のイメージ一切なし、真言密教のせめてもの香り一切なし。山上というイメージも一切なし、お寺の数は多いが単なる地方の夏の町。涼なんてほど遠い。ボクの四十数年ぶりの高野山の再イメージです。歩き出して約5分、女房曰く「先にお昼にしょ。」この一言で今日の1日がほぼ想像できました。まだ11時前ですよ。

霊宝館はエアコン快調、入館者は多い、やはり[八大童子]のウインドウ前は人だかり。像高1m前後のお像、童子特有の可愛らしさは感じることは出来ないが、こましゃくれた表情、顔つき、躯の肉付きや等身から童子らしきかなの見方はできそう。それぞれの性格が表現されているのでしょう。横一線に展示された八体のお像からは[不動明王]の眷属としての真摯な雰囲気はガラス越しにも伝わってくる。八百年の経時にも拘わらず体色、裳(も)に残る鮮明な彩色と文様なども見事に残されている。玉眼嵌入で表情はピリッと、欠損なども目につかず一体一体が持つ緊張感は見るものにビンビン響き、運慶さんの際だった力量が迫ってくる気がします。(八体中二体は運慶さんではなく後世仏師の作らしいです。)
残念なのは肝心の中尊不動明王は別の場所で展示され本来の一家を成しておりません。山中唯一の国宝のお堂、[不動堂]が明王一家の落ち着きどころと聞きます。いま不動堂はまさにガランドウ、一家が帰り祀られることを願うのはボクだけではないでしょう。しかし帰ることはないとのことです。この不動堂は檜皮葺きの質素な本当にいい感じのお堂です。秋の紅葉、冬の雪に埋もれた[不動堂]、写真でもよく見ますネ。

忘れてはならないのが運慶さんの刎頸、快慶さん刻と伝わる[孔雀明王坐像]、坐高80cm弱のお像だが黄金の孔雀の背に乗ると光背寸を含め2mを越す迫力。明王本体の秀麗さは当然ながら、すべて黄金に輝く漆箔の孔雀像の凄さ、なかなか言葉では表現出来ません。特に光背は尾羽を広げた独特のもので他では見ることは出来ないでしょう。繊細な細工物という印象を強く感じました。このお像も狭いガラスケースに収められ展示、只お一人で観衆の目を受けています。霊宝館には数多くの高野山の宝物が収蔵され展示されていますが今日見せてもらった[八大童子]、[不動明王]、[孔雀明王]だけでも十分に納得、密教仏教美術として満足いく霊宝館でした。女房は涼しげでしたがシラーッとしてました。

壇上伽藍、金剛峯寺を恙無く回りいよいよ奥の院へ。相変わらず炎天下。
「3キロほどや、いこか。」とボク。
「サンキーロ歩いて行くの(やや言葉がうわずっている)?バスかタクシーにしよ。」と女房。
「馬鹿云っちゃいけないよ、霊場は歩かなくてはならないのだ。」思わず江戸っ子になるボクでした。
もう一つ説得力がなかったが渋々納得したようで歩き出しました。一の橋まではまさに町の中、奥の院参道に入るや様相はガラッと変わり一転山中、鬱蒼の杉木立が太陽を遮り僅かに所々青空が覗いている。目線を水平に戻すとナ、ナンと人の群と石塔や墓石の群、休日の心斎橋もこれほどの人出はない。往の人、復の人が交わり、歩き難さ人いきれこの上なし、どうにか奥の院に着いたが弘法大師御廟もやはり人人人、空海さんも早く夜が来ればいいのにと思っているに違いない。暑さと人の群の中でボクたちの高野山巡りは終わりました。

女房曰く「夏は何処も暑いネ!」帰途バスに乗ったことは云うまでもありません。

●八大童子と不動明王を曼茶羅風にレイアウト、不動堂と冬の高野山景をアレンジしてポスター風にしました。写真は無断使用、お許しを。

[ 雑感 ] よく暴動が起こらないものだ

2007年11月16日 | 
京都有名寺院の特別開扉が今日(11月11日)までのところが多いので久振りの京訪問、特に東寺五重塔初層開扉はまだ拝観したことがなかったので、ワクワク気分で京阪電車に乗った。京に近づくにつれ雲の濃度が濃く、暗く、低く、怪しくなってきた。およそ小春日和とは云い難い「降るのか降らないのかハッキリしろ」といいたくなる空模様…。近鉄東寺で降りる。

南大門をくぐる、秋の恒例なのか人々の大洪水とスピーカーからの大音響、区民大会らしい。拝観料を払うやいなや静寂の世界、不思議とあの騒々しさは聞こえてこない。真っ先に五重塔へ向かう。最終日にもかかわらず拝観者は少なくスッと東口から入塔、心柱を大日如来に見立て、東西南北に五智如来四体が須弥壇上に、その脇侍としてそれぞれ二体の八大菩薩が安置、講堂の立体曼茶羅に較べ各お像は小粒ながらミニ立体曼茶羅の様子を感じさせ、四天柱、外陣周囲の壁には諸尊、諸天が描かれ長押には彩色文様が見事、剥落も多いがまさに密教曼茶羅の世界が粛々と其処にある。講堂の感覚とはおよそ別空間の感で金剛界を巡ること10分少々、空海哲学の僅かにでも触れることが出来たのかは甚だ疑問。五重塔は五代目といい江戸初期の再建、塔内お像全てが同時代の造像で木像、漆箔も見事に残されさすが時代の浅いものは現代仏とほとんど変わらない新鮮な息吹を仏に感じた。8世紀末から現代まで1200年間の時代凝縮がこの東寺で体感できる、嬉しいではありませんか。その後、東寺拝観の王道を行き大師堂にも初めて入堂、お厨子が閉ざされ大師坐像にはお目にかかれなかったのが残念。大師堂を出た途端大粒の雨が、人々の流れが大きく動いたがスピーカーの音量は変わらず続いていた。宝物館と観智院拝観、今日はパス。

ボクが「さて次は…」と同時に女房が「先にお昼でしょ!」の一言。反対する理由もないので雨の中地下鉄で四条烏丸へ。駅から地上に出たらスカッと青空、女房の顔を見ながら「○○○ごころと秋の空」と呟いてみたが反応無し。何か悩んでいる様子、「どうしたん」女房「京都に来るとなにを食べようか凄く迷うワ、どこかいいとこ知らないの」「高級老舗なら知ってるけど(これは嘘)昼食処なんか知るかい」さんざん迷って昼食を済ましイノダコーヒーへ、相変わらずこのお店は人気店らしくお客で一杯、幸い喫煙席で暫し休息。午後の予定を話したが全然気乗り無し「アッそう」でおしまい。

三条京阪から東福寺へ、駅から数分で東福寺北門に、途中臥雲橋から通天橋が望めるが天下の紅葉もまだ青々。今日の東福寺訪問の目的は三門楼上特別公開だ。禅宗寺院では最大にして最古の三門という、楼上内はさすがに広い。楼内北側に南面して中央に宝冠釈迦如来坐像が、左右ほぼ一直線に脇侍と十六羅漢像が安置、お像は小像ながら迫力あるワイド感はスゴイ。そして南北に渡る巨大な梁数本とそれを支える柱、天井と柱を繋ぐ組み物、何れも間近で見られる大きさに圧倒され、しかもそれぞれに極彩色で絵や文様が描かれ室町初期の画家の技の高さが今もハッキリと見ることが出来る。天井には巨大な飛天が舞っている、女房「あんなところへどうして描いたの?」ホントどうして描いたのだろう。「ベリーグー」これ以外の言葉は見当たらない三門楼上の浄土空間でした。ただ必死でガイドをしてくれていた学生さんに責任はないが、お寺の由緒は本来寺僧がすべきではないのだろうか、が地上に降りたときの感想。暫く境内を散策するも法堂や通天橋、塔頭庭園拝観、今日はパス。

坂の上から望む御寺の仏殿、雪に煙る荘厳な美、写真で見る泉涌寺を次に目指す。東福寺から歩いて約20分、東山山麓の所在なのでダラダラ坂が少々きつい。ここは皇室縁のお寺といい歴代天皇の位牌が祀られていると云います。御門を入り坂上から著名な仏殿を見下ろす、こぢんまりと質素に建ち屋根の一部に午後の陽光が瓦を光らせ後ろの山の色づきかかりの緑によく映える。ただ影の部分は暗く鬱蒼の樹々がことさら坂道をグラデーションで墨流し。仏殿の須弥壇北面に狩野探幽の白衣観音水墨画が掛かる。大作を1m前後で見る辛さを寺僧方は知っているのだろうか。御殿と庭園拝観、今日はパス。

訪問した各古刹で特別開扉、特別公開以外パスした有名処が幾つもあった。一古刹で堂宇や建物毎に拝観料が必要と云うことは寺院経営上経営基盤の相当部分を占めるため判らないではないが、プラスをするとそれなりに、特別と云う言葉での高額(ボクの印象)な拝観料設定に疑問が湧く。「文句があるなら拝観するな」的匂いがプンプンするのはボクだけだろうか。!!が?に、錦秋にもまだ遠い京の一日でした。という最後の6行でいささか不穏なタイトルになりました。

[雑感] 伊藤若冲展

2007年06月06日 | 
地下鉄烏丸線今出川駅から地上に出たところで、時間待ちプラカードを持ったお兄さんが「相国寺は東へ真っ直ぐに行ってください、次の信号を左折です。待ち時間約45分です。」有り難い仰せに一瞬女房と顔を見合わせた。日頃女房の顔をジックリ見たことがない僕としては恐る恐る拝顔すると歳の割には濃いメイクで光線によっては直視出来ない顔を僕の方に向けて至極穏やかにニーとにっこり「45分ぐらいなによ、早く行って並びましょ。」この仰せに一安心。同時に今日は曇り空であることも幸いした。ひょっとして「出直しましょ、時間が勿体ない。」とか云われるのではと何事にも小心な僕はビクビクした。駅から出た人ほとんどと、バス停から降りた人のほとんどが今出川通りを東に向かっている。

相国寺境内承天閣美術館の門をくぐるやいなや既に行列が始まっている。ただ今午前10時50分。美術館周回は廊下の如くテントが張られその中を行列が停滞しながら進んで行く。いっこうに入り口まで到着しない。曲がりくねったテントの道が続く、美術館の裏口と思しきところが入り口らしい。そこで20~30人位ずつ小出しに入場して行く、詰まったところでギュッと押し出す、僕たちはところてんか。やっとの思いでチケットを切ってもらった。このとき既に1時間30分経過。ただ今午後12時20分。第一展示室までまたもや蝸牛の行進。並ぶこと20分。ついに、ついにですよ憧れの若冲さんにお目にかかることが出来たのでした。ただ今午後12時40分。

第一展示室は今回の主役ではなくて、若冲さんの鹿苑寺への奉納大書院障壁画、襖絵墨画をはじめ相国寺蔵の宝物や絵画等が中心に展示されている。それにしても無彩色の世界でも天才は遺憾なくその力を発揮する。僕たち素人眼にはスゴイとしか云いようがないけれど、作家の心の奥底に潜む精微な精神性が墨の濃淡、筆の落としどころや強弱を一瞬の閃きで白い紙に墨跡を残す。そんな想いが僕の隙間だらけの脳をよぎった。葡萄図、芭蕉図、松鶴図にはただただ開いた口がふさがらない。口を開けたまんま約30分観覧。ただ今午後1時10分、顎がだるい。第一展示室の出口からはや第二展示室への行列が始まっている。行列すること40分、館内でですよ!

第二展示室へはまたもや蝸牛の行進とところてん。ただ今午後1時50分。やっとの思いで今回の主役、釈迦三尊像3幅と動植綵絵30幅がお目見えだ。展示室正面に釈迦三尊像、両サイドに動植綵絵15幅ずつが架けられている。ステレオ的一覧性の迫力とはこのことかと思ったが、右サイドから正面、そして左サイドへと流れがあるはずが如何せん人の頭が4重5重、しかも一向に進まない。広い展示場の真ん中は真空地帯、周辺に人々がへばりついてゆっくり回転している、以前遠心力を利用したこんな遊技があったような気がする。

相国寺蔵の釈迦三尊像3幅は中国の古画を若冲さんが模写したという大幅だ。僕たちが日頃見慣れている仏画とはハッキリと一線を画している。三尊のお顔は凡そ仏の顔とは思えない、どこか身近な人を連想する。これが中国の仏画かと思ったが、ひょっとして若冲さんのオリジナルが混ざっているのではという思いもした。宮内庁蔵の動植綵絵30幅は有名な鶏図をはじめ構図の大胆さ、色彩の妙なる鮮やかさ、精緻なデッサン力と聞きしに勝る表現力、これら総合的なクリエイティヴ力が1幅の絵の中に込められている。それがなんと30幅も。今まで断片的に印刷物でしか見たことのない本物の動植綵絵30幅が今、目の前にある。なんという幸運だろう。

この絵が宮内庁に渡った経緯は色々諸説があるようですがすべては明治初期の悪法廃仏毀釈が原因になっているのでは。この33幅は明治までは相国寺重要儀式[観音懺法]で方丈の周りにかけられたと伝えられています。仏像や仏画はそれ相応の寺院の堂宇でそれ相応の由緒に基づいて在るべきが本来の姿ではと思う。寄進した若冲さんもそう思っているのではないでしょうか。1幅1幅ジックリ見ることは出来なかったが40分ほどで周回すること数度、世紀の邂遁を観覧できたことに [満足] 以外に言葉なし。です。

[追記]
第一展示室観覧30分、第二展示室観覧40分、計1時間10分。行列と待ち時間計2時間30分、都合計3時間40分にわたって、承天閣美術館にいました。何のために僕はこんな計算をしたのでしょう。結論は云わないでおきます。女房の感想も云わないでおきます。それにしてもおっさんとおばさんに3時間40分の立ちっぱなしと蝸牛の行進は拷問ですよ。されど拷問が満足に変わるベリーグッドな3時間40分でした。

[ 雑感 ] 深々雪の大原と思いきや

2007年04月12日 | 
ちと古い話で恐縮ですが…。
立春が過ぎたとはいえ2月の半ば、大原の里はまだまだ比叡颪と京都盆地特有の底冷え残る里という印象を持ちつつ、殊に寺々の甍の軒先に残る雪や庭園の美を演出する名残雪、里の家々や山裾の墨絵ボカシの遠景などを期待し、ゆっくりと名跡名園を訪ね、声明の声、朗々と響き鐘の余韻の如く里の彼処に流れ渡るを聞く、そして叡山別院の各古刹に伝わる数々の物語に浸ってみようと期待ワクワクで大原の里を訪ねた。ましてこのシーズン、連休の最終日とはいえまだまだシーズン的には冬ですよ。人出も少なく十分堪能できるであろうとの淡い期待を抱きつつ訪ねた。期待は見事にはずれた。

五木ひろしが大原を絶唱する「京都恋歌」なんぞ口ずさみながら京都バスに乗った。「ちょっと、バスの中で鼻歌はやめなさいよ」と女房がいったので「文句があるならマイク持ってこい」といいたかったが止めておいた。そうこうして大原に着くとすでに人と車がいっぱい、そして非常に暖かいし冬の空ではない。「隠里」「祈りの里」という風韻を感じることは出来ない。三千院を目指しているのだろう人々は一定方向に行進、そぞろ登りの坂道ではすでに汗ばむほどだ。目指す三千院では名庭園有清園、聚碧園の桜木、楓木、杉木立よりもはるかに多い拝観者の姿。木立を通して見え隠れする往生極楽院の簡素な佇まいは深々と降りそぼる雪のなかでこそ寂びた風情が一層増すのではとそんな思いがした。ご多分にもれず狭い堂内は混雑気味、しかし念願のご本尊阿弥陀三尊にはお会いできたし殊に脇侍の観音菩薩、勢至菩薩両菩薩像は立像ではなく坐像、その坐りかたが非常にユニーク、上半身が屈み気味で正坐に近い大和坐りという珍しい坐り方、ほかでお目にかかった記憶はない。

幸いなことに不動堂前の広場で初午大根焚きの無料接待に与った。境内のどこよりも人で一杯。世に口に入るもので嫌いなものは無いという我が女房は径10cm厚さ5cmはあろうかと思える大根二切れの入ったお椀を事も無げに平らげた。お代わりをしょうとしたが「それだけは止しなさい」と僕はいった(これは嘘)。さては参拝者の目的はこれだったのか、人の多さはこれだったのかと納得せざるを得なかった三千院でした。それにしてもその後訪ねた勝林院や実光院、来迎院のひとけの少なさはなんだろう。冬景色皆無を嘆きつつ大原をあとにした。夜、今日の最高気温は15度、3月下旬の暖かさでしたとTVがいっていた。なにか気候が変ですねぇ、四季の持つらしさが崩れていくようです。