木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

1009 東海道 土山宿 (3)徳原 大野

2013-10-18 08:00:00 | 名所旧跡

 旧東海道の宿場町を訪ねる旅は、滋賀県甲賀市に入り、 今回は土山宿の第三篇をお届します。   (写真撮影日  2013.10.03(木))

 

地図の文字が小さくて恐縮ですが、赤い細い線が旧東海道です。 丸付き数字は訪ねた旧跡を示します。 なお、地図の右方向が鈴鹿峠、江戸方面で、左は大津、京都方面になります。

 

 ① 垂水斎王頓宮跡 (たるみとんぐうあと)

 平安時代の初期から鎌倉時代の中頃まで、約三百八十年間、三十一人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建立された所である。
 斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名代として、皇祖(こうそ)である天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神霊の御杖代(みつえしろ)をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行(ぐんぎょう)の形でご通行されることとなった。京都から伊勢の斎宮まで、当時は五泊六日もかかり、その間、近江の国では勢多(せた)・甲賀(かふか)・垂水の三ヶ所、伊勢の国では鈴鹿・一志の二ヶ所で、それぞれ一泊されて斎宮まで行かれたのである。その宿泊された仮の宮を頓宮といい、現在明確に検証されている頓宮跡地は、五ヶ所のうち、ただこの垂水頓宮だけである

右上の写真、右の道は国道一号線で、正面が鈴鹿峠方向であり、頓宮への道は左上に上がり、茶畑の間を30mほど行くとこんもりとした昼なお暗き森にぶつかる。

 

② 瀧樹神社  (たぎじんじゃ)

ここに祭る神は、水門神であり、田村川、松の尾川の落合に近く水害多きために勧請されたと伝えられる。正応二年(1289)本殿再建。 毎年5月3日に行われる、祭礼での、ケンケト踊りが国の無形民俗文化財に指定されている。

なお、ここは早春の花「ユキワリイチゲ」の群生地としても知られている。

 

③ 地安寺  (じあんじ)  黄檗宗

御水尾法皇の御影御位牌が安置されている。
御水尾法皇は慶長元年(1596年)後陽天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年、16才の若さで即位された。徳川幕府が成立していく中で、天皇になられたが、寛永6年(1629年)明正天皇に皇位を譲られ、34才で上皇になられた。
元禄11年(1698年)、善明院(法皇の第一皇女)の意向により、法皇の像、位牌を下附され、その安置所として宝永5年(1708年)地安寺境内に建立された。

林丘寺宮御植栽の茶 (右下の写真)

御水尾法皇(1596~1680)の御影位牌安置所建立の際に林丘寺光子が植えたという。この近辺は宮ゆかりの茶畑で収穫された茶は毎年京都御所と林丘寺宮に献納され、いまも続いているとか。

 

 ④ 諏訪神社 (すわじんじゃ)

天文十一年甲賀三郎兼家が関東より故郷に帰る途中信濃国諏訪大社に立寄り分霊を受け市杵島姫を祀っていた社に奉斎したと伝える。

 

 ⑤ 長泉寺 

 

 ⑥ 大野市場 一里塚跡

 

 ⑦ 松並木

 

 ⑧ 三好赤甫旧跡 (みよしせきほきゅうせき)

「三好赤甫」(1789~1873)とは幕末の当地の俳人「花園月波」と名乗った。 京都東福寺で研鑽を深めた。 郷里に帰って、後進を指導し俳諧の基礎を築いた。 碑銘「ほとときす 早苗に影を のこしゆく」

 

 ⑨ 若王寺

 

 以上にて東海道五十三次の第49番目の「土山宿場町」にお別れをして、次の「水口宿」に入ってゆきます。

 なお、鈴鹿峠を超えて、滋賀県に入ってから、本ブログ上での土山宿の終点とする、土山町大野の国道との交差点「大野西」までの旧東海道の経過距離を地図上で計算したところ、約16.2Kmでありました。 三重県内が50.8Kmでありましたから、 桑名宿の「七里の渡し」から約67Km来たことになります。

また、標高は鈴鹿峠が378mであり、そこから16kmあまり来た今回の終点が194mですから、その差は184mしかありません。 三重県側の坂下宿の河原谷橋のあたりが、峠から2.4Kmで標高が197mでしたから、 三重県側が如何に険しかったかがわかります。