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木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

1003 東海道 土山宿 (2) 南土山

2013-10-15 08:00:00 | 名所旧跡

 ”後期野次喜多 東海道道中記” は滋賀県に入っても続けております。 歴史に極めて弱く前知識ゼロ状態での、歴史探訪記ですから、ご覧戴く方々には歯がゆい思いの方も多々あろうかと思いますが、 これもボケ防止にと、乾いたタオル如くに無い知恵を絞りながら書き綴っております。

 滋賀県に入っての第二弾は田村神社の前にある、道の駅で必ずしも美味しいとは言えない昼食を食べた後から始めました。 ここはご飯物が少なく、ウドンを食したのですが、 先日、名古屋の熱田さんで食べたキシメンが美味しかった事を思い出し、美味しく無いと感じないように努力しました。

 

 では、土山宿第二弾の始まりです・・・・・・・

例によって地図ですが、三重県内は県が出している旧東海道を表示した地図があり、それを活用させてもらっていたのですが、 県境を越えたので 自前で作るしか無く、少々見難いですが、 フリーハンドで書き込むしか今は術がないので、ご勘弁戴きたく思います。  撮影日 2013.09.11(水)

細いですが赤い線が旧東海道であり、丸付き数字は尋ねた旧跡の場所を示しています。

 ① 旧東海道町並みの起点

旧東海道は下の写真の位置で直角に曲がり右に行くと、土山の古い町並みを通って京方面に向います。 従って、江戸方面へは手前方向に来て、国道一号線を越えて、田村神社の正面まで行き、更に右方向に直角に折れて橋を渡って行きます。

前回書いたように、もう一つ昔は、下の写真の左方向への道があり、川を渡って江戸方面へ行くようになっていたのですが、 大雨の時に多くの犠牲者が出るので、川幅の小さい上流へ道を変え、橋を作ったと言う訳です。 昔の道の渡し場付近には別の川(支流)があり、 大雨になると大幅に水かさが増えた事が伺われます。

 

 

② 歌碑 

この周辺、昔はは「幾野」と言ったらしいが、1700年代初めの頃から、ある旅人がお世話になったお礼代わりにと、「木櫛」を売るようになり、 「お六櫛」と言って、土山の名産品となったとあります。

松尾芭蕉とも親交のあった上島鬼貫(うえじまおにつら)が詠んだ句が書かれてます。

  「吹かば吹け 櫛を買たに 秋の風」

 

 ③ 町並み

この街道沿いの全体に、古いが美しい町並みが続き、 かつては旅籠出逢った所には”石柱”が立てられ、商店などは当時の屋号などを木の看板が掲げられていました。

 

 

④ 扇屋伝承文化館

地元ボランティアにより、土、日、祝日に開き、旧家をギャラリーや販売コーナーなどもあり、野菜やそばなどが並べられるそうです。

 

 ⑤ 一里塚跡

 

⑥ 白川神社 

8月1日に近い土曜日は「白川まつり」と言い、 花傘神事、みこし宮出しがあり、その前日には子供相撲や夏越神楽で賑わうそうです。

 

 ⑦ 町並み

関宿の町並みもよかttが、ここと比べると、建てた年代が智愚のではないかと思う程に、ここは美しく整備されているように感じた。

 

 ⑧ 森鴎外

旅籠井筒屋跡を示す看板には「森鴎外の祖父で津和野藩亀井家の典医だった森白仙が、参勤交代に従って江戸より旅の途中、病のためここで息をひきとった・・・とありました。

森鴎外が祖父の倒れた時に訪れて宿泊したのは、何故か対面の平野屋だったそうです。

 

 ⑨ 東海道伝馬舘

土山宿や東海道についての展示や特産品販売、体験工房などのある、資料館です。 (入場無料、写真撮影OK)

「伝馬制度」とは、幕府の公用などで宿から宿へ人馬の継ぎたてを行う事を言うそうです。

土山には上図の如く、松林があったそうですが、未だお目にかかっていません。 

 

 ⑩ 土山本陣跡

本陣当時の宿帳など貴重な資料が保存され、それには勝海舟など幕末の志士の名前も見られる。また、熊本藩細川家との関係も深く、同家ゆかりの品も残されているそうです。

 

 ⑪ 高札場、問屋宅、大黒本陣などの跡、大黒橋など

 

 ⑫ 常明寺

奈良時代、和同5年(712)長屋王が文武天皇の崩御を悼んで納めたと言われる大般若経が伝わり、国宝に指定されている。

森鴎外の祖父はここに葬られている。

 

 ⑬ 国道との交点

右が旧東海道左は国道一号線。 手前が水口、京都の方向。

 

 ⑭ 御代参海道起点

「お伊勢参らばお多賀へおいやれ お伊勢お多賀の子でござる」 と謳われた多賀大社(彦根市)へお参りする「御代参街道」はここから始まる。 

 

土山の旧道に入ったのは今回が初めてでありましたが、 大変にきれいでよく整備されていると感じました。 土山のメインの所は以上ですが、 水口宿とは言えない所にちらほら旧跡があるので、 土山に加えたいと思うので、あと一遍お付き合いを賜りたいと思います。

 

 


1002 東海道 土山宿 (1) 山中 猪鼻

2013-10-12 08:00:00 | 名所旧跡

 先に三重県内の東海道五十三次の宿場町、お江戸日本橋から数えて、その42番目の桑名宿を皮切りに、四日市宿、石薬師宿、庄野宿、亀山宿、関宿、48番目の坂下宿ときて、鈴鹿峠にまでやってきました。 この間、街道筋にある旧跡を訪ねて写真を撮り、若干の歴史資料文を書き添えて、31編のブログとして残しました。

この東海道筋の歴史探訪の終りは想定もせずにスタートしたものでした。 只今は”伊勢神宮の遷宮ブーム”真っ最中故に、 「日永の追分」 から東海道を外れて、 伊勢に向うと言う考えもありましたが、 伊勢の今は人でごったがえし中であるし、調べて見ると、 途中の旧跡は東海道に較べれば、質量ともに見劣りするので、 鈴鹿峠を終点に置き替えしたものでした。

その時点では、鈴鹿峠以降は考えに無かったのですが、 別の新たな企画も生まれなかったので、 ひとまず続けることにした次第です。 この先、東海道の終点京都までは、土山、水口、石部、草津、大津、三条大橋があります。 都が近くなってきますので、旧跡の数も増えて来ますが、 目標として手ごろと考えて再スタートしました。

 

東海道の滋賀県の起点は”あいの土山”です。

土山宿は49番目の宿場で、最盛期には2軒の本陣、脇本陣の他に旅籠44軒を数える賑やかさでした。 今も土山氏本陣跡が昔の姿を伝えており、その周辺は宿場町の面影を残しています。 ”あいの土山”の名で呼ばれますが、”あい”の意味は「相対する」とか「向こう側」の意とする人など他にもいろいろの解釈があるとしているようです。

「坂(下)は照る照る 鈴鹿(峠)は曇る あいの土山 雨が降る」と、鈴鹿馬子唄のもあるように、鈴鹿峠を境に、天気ががらりと変わります。 また、川柳に 「土山で 濡れた雨具を 坂(下)で干し」があります。

下の地図、細いですが赤い線は旧東海道を示し、丸付き数字は尋ねた旧跡の在りかを示します。 

 

                            撮影日 2013.09.11(水)

 

① 万人講常夜燈

江戸時代に四国金刀比羅宮の常夜燈として、建てられたもので、重さ38トン、高さ5.44mもある、自然石で出来ている。 坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕により作られたものと言われているそうです。

ここは国道一号線の峠を通過するトンネルの上にあり、 今は地元の農家の人と登山者、ハイキングの人と、何処かの物好きしか通らない場所にありました。 こんな立派な灯籠がです!。

 

 

 ② 十楽寺

 

 

 ③ 蟹塚

昔、鈴鹿の山に”大蟹”が住み、旅人や村人を苦しめていました。ある時高僧が訪れ、お経を唱えたところ、大蟹の甲羅が八つに裂けたといい、塚はその甲羅を葬ったものと言われているそうです。

また、弘法さんが杖で叩いたら甲羅が割れたとか、蟹は盗賊であったり、高僧が武士である場合などいろいろありますが、街道の名物の「かにが坂飴」(後述cf)もこの伝承を由来としています。

  

 ④ 蟹ヶ坂

現在は国道一号線の坂下江戸方面行き(一方通行)道路と交差する部分に、旧東海道はあったようで、下左の写真は水口京方面であり、右の写真右の道が旧東海道です。 

写真で見る限りは特別厳しい坂とは思えませんが、昔はなかなかの難所であり、「夏の日に あな苦しやと旅人の 横這いにして登る 蟹ヶ坂」と烏丸光弘の狂歌に謡われているそうです。  

前出の「蟹塚」は、右の道を100mほど下った所、うっそうとした林の中、川沿いにありました。

 

⑤ 白川神社御旅所

蟹ヶ坂の水口側中ほどにありました。

 

 

⑥ 蟹坂古戦場

天文11年(1542)、伊勢の国司北畑具教率いる1万2千の兵と、当時山中城の主、山中丹後国守秀国の軍勢5千との間で、ここ蟹坂周辺で戦い、秀国勢が勝利を収めたと書いてあります。

  

 ⑦ 高札場

上に示した地図にあるように、旧東海道が田村神社の前で不自然に直角に道が曲がっています。 例によって土地の権力者の仕業かと思いましたが、その理由が解りました。

昔は今の旧東海道の位置より、下流側に川の渡し場がありましたが、 大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人が多く出たために、 川止めも再三あり、 旅人や役人を困らせていました。 そこで幕府の許可を得て東海道の道筋を変えて新しい道を作り、 田村川木橋を架けました。

「但し、この橋を渡る場合旅人などは「有料」だぞ!」と、「定め書」(規則)を書いたものが高札として掲げられたようです。 ちなみに、幕府の用で渡る人や、武家とその家族は無料。 近村の百姓などが田畑に行くための場合は無料であるが、それ以外は有料と書かれていたらしい。

 

 ⑧ 海道橋

前出の「田村川木橋」のあった場所にある橋は今は「海道橋(街道?)」と呼ばれています。 勿論、橋の前後は旧東海道であり、橋の向こう側には田村神社があり、 その先は京に繋がっています。 本当はもっと後方に下がって撮りたかったのですがそれは許されず、これでもこっそり橋の袂にある木材事業所の材料置き場に入らせて戴き撮ったものです。

 そしてここで、広重さんの絵、「東海道五十三次の内 土山」のご登場です。

上左の写真とこの絵とを見比べて欲しいのです。 雨の中を進む大名行列が正に渡っている橋はその橋なんです。 勿論昔の橋の位置はもっと低く水面に近かったと思われます。 橋の向こうには田村神社の林がばっちり描かれています。

 

 

⑨ 田村神社

鈴鹿の鬼を退治した征夷大将軍坂上田村麻呂が祀られ、厄除けの神様として崇められています。 平安時代の創建と伝えられています。

旧東海道は上記の橋から真直ぐ30m程で、下の写真右上の銅の鳥居の前に来ます。 旧東海道はここで急に直角に曲がり南に60mほど来ると左上の写真の鳥居に出ます。 そのあと国道一号線を突き切り、道の駅「あいの土山」を横目で見て通るようになっています。

 

 ⑩ 「かにが坂飴」

前出「蟹塚」の所で蟹退治をしたあと、高僧が八つに割れた蟹の甲羅を埋めて蟹塚を建てると、不思議にも蟹の血が固まり八個の”飴”と化し、それを竹の皮に包んで村人に授け「この八っ割飴は諸々の厄除に効あり」と伝えました。 その後数百年に亘り「厄除けのかにが坂飴」として有名になったとか。

昔は2月17~19日の田村神社の「厄除大祭」に売られましたが、 今は神社前の売店「蟹が坂飴販売所」や、道の駅でで売られています。  小さめの袋に500円玉くらいの飴が20個ほど入って荒縄で縛ってあり、ひと袋¥400でした。 あまり甘くはないですが、癖の無い誰でもが親しめる飴と感じました。 

 

 ”後期野次喜多衆”の旅はまだまだ続きますが、あとは次回のお楽しみとします。

 

  


1001 東海道 坂下宿 (2) 鈴鹿峠

2013-09-26 08:00:00 | 名所旧跡

 東海道五十三次の宿場町、三重県内(江戸寄り)の北端は「桑名宿」の「七里の渡し」です。 ここを起点として、街道筋にある旧跡を訪ねていますが、いよいよ三重県内の終点、鈴鹿峠にやってきました。    取材日 2013.09.11(水)

鈴鹿峠は伊勢と近江の国境にまたがる鈴鹿山の脇を縫うように超えるのが鈴鹿峠越えです。 古くは「阿須波道」と呼ばれ、仁和2年(886)に開通したとされています。 なだらかな近江側と異なり、山深い「八丁二十七曲がり」の急な山道は、古くは山賊が出没したようで、江戸時代には箱根越えに次ぐ東海道の難所として知られていました。

旧東海道の関宿から鈴鹿峠までは、平成8年11月に文化庁の「歴史の道100選」に選定されています。

 

下の地図で、赤い線が旧東海道であり、丸付き数字は尋ねた旧跡の位置を示します。 ●H= 標高 を示しますが、計算値のため必ずしも正確とは言えません。参考値と考えて下さい。

 

 今回尋ねた旧東海道の距離(①~⑭間)は凡そ980mですが、その標高差は121m(平均勾配α=12.3%)でありましたが、片山神社(⑤)から国道との交点(⑥)の間は約80mの距離で、高低差は54m(α=67.5%)と極めて急峻であることと、この辺りは車の走れる道は国道一号線しかないし、しかも、上下線が離れている(一方通行)ので、道順に”取材”する事が出来ませんでした。

それで、”後期野次喜多衆”は、一号線の峠を昇る側で一旦峠を越えて、滋賀県側に入り、峠のトンネルを出た所で、わき道に入り戻る方向でトンネルの上に出て、旧東海道に入ったのです。 つまり、滋賀県側から鈴鹿峠近くまで車で入り、そこから先は国道との交点⑥までは徒歩で往復したのでありました。

車に戻ってからは、もう一度滋賀県側に入り、今度は峠を下る側の一号線に入り、少し下った位置でわき道に入り⑤の位置に着いたのでありました。 その後は当然旧東海道を下り、一号線との交点①の場所に到着したのです。 よって、今回に限り撮影順序の逆に編集して、あたかも峠を昇ったように書いています。

 

① 国道からの分岐点

左の写真で、右の道が旧東海道で、車の泊まってる真ん中の道が、旧国道であり、左端の道が国道一号線で亀山方面行きの一方通行道です。 旧東海道はこの辺りから片山神社の参道と化していたのでしょうか?。

 

 ② 旧東海道

最初のうちはなだらかですが、坂がきつくなってくると石畳になります。

 

 ③ 名号碑

「南無阿弥陀仏」 宝永7年(1710)と刻まれています。 間伐材が雨で流れて哀れな格好になってました。

 

 ④ 灯籠坂と常夜燈

昔はこの灯籠坂の両側に灯籠がならんでいたそうです。古いものは享保2年(1717)のものもあります。馬子唄の一節が書かれてますが、 馬も男は乗せたくないほどに、坂が厳しかったのでしょうなぁー!。

 

 ⑤ 片山神社と孝子万吉の碑

その由来が古代にさかのぼる神社で、鎌倉時代にはここにあったようです。江戸時代には鈴鹿権現と呼ばれ、多くの信仰を集めたそうですが、平成11年に本堂などを火災で消失しました。

孝子万吉は4才で父を失い、6才から茶屋の使い走りなどをして、病弱な母を助けていました。 旗本が通行のおり、万吉の事を知り、その話を広めました。 いつしか万吉の話は評判になり、幕府にも届き、万吉母子は江戸に召されました。成人した万吉は代官に召し抱えられ長寿を全うしたそうです。

 

 ⑥ 国道との立体交点

ここからが鈴鹿峠の最も厳しい所、クライマックスになります。 足腰の強く無い私には、ここの上下は無理と判断し、実際はここでUターンしたのです。(ブログの進行方向とは逆です)

上の写真の細い道が、旧東海道ですが、国道一号線の工事のために幾分位置が変わっている事も考えられます。 下の写真左上方向に柵がありますが、それが旧東海道です。

 

 ⑦ 松尾芭蕉句碑

「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」とありますが、元禄4年(1691)刊行の句集に詠まれているそうです。

  

 ⑧ 馬の水のみ場

平成4年にコンクリートで復原されたものでした。

立て看板には西行法師が 「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」 と詠んだと書かれています。

  

⑩ 旧東海道

平坦は所もあるが、雨が降れば道は川になり、倒木が道を塞ぐ、まさに難所だ!。 

 

 

⑪ 鏡岩

これは鏡肌と呼ばれ、珪岩が断層が生じる際の巨大な摩擦力によって研磨され、平らな顔面が鏡のようにつやが出たもの。 昔、山賊が往来する旅人の姿をこの岩に映して危害を加えたので「鬼の姿見」とよんだと伝えられる。 県指定天然記念物。・・・とあるが・・・

・・・・・・しかし・・・・・近寄って見ると、断崖絶壁の端にあり、全面を見る事は出来ないが、鏡らしき面は少しも見当たらず。 時代の流れで風化などしたにしても、当時の事が推測も出来ない状態に唖然!。

友の情報によると、 新城市の県道沿いに「額岩(別名鏡岩)」を初め、埼玉県の御嶽鏡岩、京都貴船山の鏡岩、尾道千光寺の岩、吉備の中山の鏡岩、岩手県住田町の鏡岩、岐阜県の大倉山の断崖などなど、巨石信仰もこれありで、沢山あるようです。

 

 ⑫ 田村神社跡と無名地蔵

田村神社(詳細説明は土山宿編にて後述)は現在は土山の町にありますが、昔は峠にあったようです。

 

 ⑬ 鈴鹿峠

ここが標高378mの峠です。 車は滋賀県からのみ、この辺りまでは入る事が出来ますが、これから先(三重県側へ)は道幅が狭く急斜面であり車ははいれません。 また、勿論舗装などなく、雨が降れば川になり、倒木などが流れて来るし、落石もあるという、正に難所です。

 

⑭ 滋賀県との県境付近

左の写真、正面が三重県側、直進方向が旧東海道。 右の写真右奥が、旧東海道の土山方向。

三重県側は山が険しいので、畑などはかなり下がらないと見られないが、 滋賀県側は入った途端に平らになり、今は茶畑が広がる。 この極端な違いにまた驚く!。

 

 これにて、坂下宿が、またそれは東海道の三重県内が終了しました。 よって、当ブログの東海道三重県編はここで完結とします。 

 42 桑名宿   ブログ編数 7        街道の距離 3.8 km

  43 四日市宿               10             19.2 

 44 石薬師宿                 2               2.7

 45 庄野宿           2               5.5

 46 亀山宿           5               8.9

 47 関宿            3               4.7

 48 坂下宿           2               6.0

        合計            31              50.8

長期に渡りお付き合いを賜り、ありがとうございました。 この歴史探訪はこれで終わりではないと思っていますので、今後もよろしくお願い致します。

このブログに限りませんが、 主要なブログは別途 ホームページ の 「ブログ索引」 から入り、 「8.旅行の記録」 をクリックし、さらにスクロールして、「(8.6)後期野次喜多歴史散歩」の中に、上記31編のブログを見る事が出来ます。  

 

 


998 東海道 坂下宿(1)沓掛坂下

2013-09-19 08:00:00 | 名所旧跡

 ”後期野次喜多”による、東海道五十三次の街道筋旧跡探訪の旅は、そのクライマックスの鈴鹿峠の一歩手前までやってきました。 取材日 2013.08.26(月)

 

 先ずは先例にならい、安藤広重さんの絵から・・・

この絵に相当する場所が何処か考えてみましたが、 ちょっと思い当たりません。 私達が通る道は相当に削られ、埋め立てられているし、雑木が生い茂っていたりして、見つける事はできませんですた。

 坂下宿はいつごろからかは明確ではないようですが、大永4年(1524)に「坂の下の旅宿」との記録があることから、室町時代には宿として機能していたものと思われています。

現在の地に昔からあった訳ではなく、昔は今より1kmほど上流にありましたが、慶安3年(1650)の大洪水により壊滅してしまい、現在の地に移転、復興されたそうです。

江戸時代には日本橋から数えて48番目の宿場町として多くの人で賑わいました。 鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家などの宿泊も多く、江戸時代後半には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒を数え東海道有数の宿にあげられています。 当時旅籠の数の記録をみると、亀山宿21軒、関宿42軒、土山宿44軒とあるから、坂下宿は険しい峠越えの重要な宿場であった事が伺えます。

「東海道名所図会」にも、「この宿の本陣の家広くして、世に名高し」 「大竹、小竹とて大きなる旅舎あり。これを俗に本陣、脇本陣などという」と図入りで紹介され、その繁栄ぶりが広くしられていた事が伺われます。

明治23年鉄道の開通によって通行者の激減により宿場としての役割を終えました。 道路の拡幅などにより、景観までも失われたのは淋しい事ですが、石造物などには、昔の面影を見る事ができます。

下の地図の赤い線は旧東海道を示します。丸付き数字は尋ねた旧跡を示し、下記の記事番号になってます。 参考値ですが国土地理院の標高計算方法により、道路面の標高をグリーンの及び H=で示していますが、凹凸の激しい地点では誤差があるやもしれません。

 

 

① 弁天一里塚跡 

 

② 超泉寺

  

③ 鈴鹿馬子唄会館

 ホールや研修室、展示コーナーのある地域文化創造施設。H7建築。 鈴鹿馬子唄と鈴鹿峠の歴史文化について常設展示されています。入館無料。

 鈴鹿馬子唄

   坂は照る照る鈴鹿は曇る、    あいの土山雨が降る  

   坂下では大竹小竹    宿がとりたや小竹屋に

   関の小萬が亀山通い    月に雪駄が二十五足

注)1.戦国時代の絵師狩野元信が山の景観に惹かれて筆を取ったものの、激変する天候に筆が追いつかず、ついに筆を投げ捨てたという伝承をもつほどに、この辺りの気候変動の激しい事を歌っている。

注)2.代表的な旅籠として、大竹屋、小竹屋があったが、大竹屋は大名、役人や金持ちの宿、庶民は”せめては小竹屋に”と、少し皮肉を込めたのかも?。

注)3.父の仇打ちを志し、亀山の道場に雪道を通い続ける、女剣士を憐れみと励ましを込めたものと私は解釈した。(「関の小萬」に付いては当ブログ東海道関宿(1)を参照されたい)

 

 ④ 鈴鹿峠自然の家 

昭和13年に坂下尋常小学校として建てられた。昭和54年に廃校となり、現在は青少年の育成のための研修施設となっている。現在は国指定有形文化財。

 

⑤ 河原谷橋

沓掛と伊勢国最後の宿、坂下宿との境界になっていたそうです。 下の端とも言うらしい。 道路は川面よりも7~8m程も盛り土されているが、当時はこんなに平ではなく、橋の位置はもっと低く、上り下りがきつかったものと思われます。

 

⑥ 大竹本陣跡、梅屋本陣跡

 

⑦ 小竹屋脇本陣跡、松屋本陣跡

 

⑧ 法安寺

大変に立派な山門ですが、元は坂下宿本陣のひとつであった松屋のものであったが、一時は学校の門などに使われましたが、昭和35年にこの寺に移築されたもののようです。

 

⑨ 地蔵堂、金蔵院の高い石垣

後方の石垣は、慶安3年(1650)に作られたものらしいが、金蔵院は鈴鹿山護国寺とも呼ばれ、仁寿年間(851~853)の開基と伝えられる古刹です。 江戸時代初期には将軍家の御殿が設けられており、徳川家康や家光が休息したと伝えられているそうです。

 

⑩ 岩屋観音

万治年間(1658~61)、法安寺の実参和尚が旅人の道中安全を祈って造立したもの。亀山市指定名勝。 高さ18mの巨岩の岩窟に弥陀・観音・勢至の三体の石仏を安置する。 また、堂の左奥にある「清滝」と合わせて、「清滝観音」として知られているそうです。 葛飾北斎の「諸国滝めぐり」にも取り上げられており、霊験あらたか観音霊場として現在も信仰をあつめているそうです。

下の写真上が言わば山門に当たる部分、今は金属のフェンスになっており、外見では寺があるようには見えない。

 

 この後はいよいよ県下東海道の最後となる、また、クライマックスとも言える、鈴鹿峠になりますが、ここは車が入らない部分がありますし、また、旧道は地図にも載らない道、そして極めて勾配が険しくなるので、街道の道順通りとはゆかないのですが、そこは工夫して何とかクリアしたいと考えています。

 


997 東海道 関宿 (3)関町新所市瀬

2013-09-13 08:00:00 | 名所旧跡

 旧東海道筋の旧跡を尋ねる旅は、五十三次の内、桑名宿、四日市宿、石薬師宿、庄野宿、亀山宿、そして関宿に来ましたが、今回はその3編目をお届したいと思います。 ここまでに28編公開してきましたので、第29編となりました。  撮影日 2013.08.26(月)

 例により、下の地図は赤い線が旧東海道を示し、丸付き数字は尋ねた旧跡の在りかを示し、尋ねた順になっています。赤い線が薄くなってる部分は本来の道ですが、今は消失している事を示しています。

 

① 道標、常夜燈、町並み 

 地蔵院前の町並みは関宿を代表する旅籠のひとつ、「会津屋」などがありました。 この旅籠は元は「山田屋」と言い、前出の「小萬」が育った旅籠であることも知られています。

二階に洋風の窓が付いた「洋館屋」、米をつく水車の音から付いた「川音」、伝統のある鍛冶屋、など、特色のある町屋がならんでいます。

 

② 地蔵院

「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い関地蔵院。 天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられています。 近郷の人々ならず、東海道を旅する人々の信仰を集め、現在でも多くの人の参拝で賑わっています。 境内の本堂、鐘楼、愛染堂が国の重要文化財に指定されています。

 

③ 知行付の鐘

寛文11年(1671)建立。 国の重文。

 

④ 誓正寺   真宗高田派

下右の写真の右端の灯籠は「正定院筆子中」と刻まれています。 「筆子中」と言うのは寺子屋で教育を受けた門下生の事です。 この筆子塚はこの寺の住職であった先生に教え子達が学恩に感謝し、慶応4年(1868)に建立したものだそうです。

 

⑤ 長徳寺

 

⑥ 観音院

関の守り仏であった。裏手の観音山h名勝として訪れる人が多いとか。

 

⑦ 道標

大正15年に建てられたもので、観音院の裏手(西側)にあり、「観音山公園道」と刻まれている。

 

⑧ 法悦供養塔、道標

元禄14年(1691)谷口長上衛門の建立。「南無妙法蓮華経」と刻まれている。

 

⑨ 西の追分

東の追分が「伊勢別街道」(伊勢神宮方面への道)との分岐点であったが、それに対し西の追分は「大和街道」(加太越奈良道=伊賀奈良方面への道)との分岐点。 県指定史跡。

左に行くのが大和街道」、左の道は国道一号線で正面方向が鈴鹿峠、右の道が旧東海道。

ここまでが関宿とされる地域かも知れないが、明確でないために、 編集の都合もあって、少し離れてはいますが、もう少し坂道を上がり、関町市瀬まで、このブログでは関宿としました。 

 

⑩ 一の瀬社常夜燈

 

⑪ 常夜燈

西願寺の門前に位置する。 手前が旧東海道で、その前方が国道一号線です。

 

⑫ 西願寺    浄土真宗本願寺派

 

 

 関宿は以上3遍にて完結とします。

 関宿のスタート地点から旧東海道を通過した距離は合計4.7kmとなりましたので、三重県内の東海道を合計では44.8kmになります。

関宿のスタート地点の標高は66.1mであり、今回の終了地点が116.7mだったので、標高差は50.6mとなります。 結構上ったように思っていましたが、下がる場面もあったので、結果として左程上っていない事が解りました。 逆に言えばこれから先、坂下宿の勾配の厳しさが窺い知れるというものです。

 

 

 

 

 


996 東海道 関宿 (2)関町中町

2013-09-09 08:00:00 | 名所旧跡

 旧東海道筋にある、旧跡を訪ねる、”後期野次喜多”は関宿の中ほどをうろうろしております。この辺りは、古い町並みを中心に見るべきものが多く集中してるので、車を止めて歩いて回るのが良い所でした。

 

下の地図で赤い線は旧東海道を示し、丸付き数字は尋ねた旧跡の所在地を示します。 ● は今回のブログ対象の区域を示しますが、東海道の距離は約520mあります。

① 延命寺

立派な山門は、旧川北本陣の門を移築したものだそうです。 赤い実は「ザクロ」です。

 

② 瑞光寺 

中世にこの地を治めていた関氏ゆかりの寺です。

 亀山市指定史跡、 瑞光寺の庭にある、「権現柿」。 徳川家康が関宿に立ち寄った時、賞味したと伝えられる柿の木だそうです。

 

③ 山車倉(だしぐら)と川北本陣跡

”関の山”という言葉の語源にもなった、関宿の山車(やま)は、最盛期には16基ありました。 互いに華美を競い、また狭い関宿を練ったことから生まれた言葉だそうです。 現在は4台の山車があり、四か所に山車倉があるそうです。

 

④  町屋

関宿の町屋は、最も古いものは18世紀中ごろの建築で、明治時代中頃までのものが半数以上を占めます。 平入の二階が一般的ですが、二階面を土壁で覆ったものが多く見られます。

また、窓が漆喰で塗り固めた竪格子窓の事を「虫籠窓」といい、関宿にはさまざまな形の窓があります。

 

⑤ 百六里庭 眺関亭

関宿の町並みの中に生まれた小公園。 関宿が江戸から百六里余りにある事から名付けられました。 通りに面した建物「眺関亭」には珍しく屋上のようになっていて、関宿の家並みが一望できました。(下の写真下右です)

 

⑥ 伊藤本陣跡

 

⑦ 旅人宿 石垣屋

今も泊まることが出来ると書いてありました。

 

⑧ 深川屋

寛永年間から、関の名物「関の戸」を売っていた。 二階に掲げられた「関の戸」の看板は、左側(江戸方面)は”せきの戸”であり、右側(京方面)は”関能戸”と変えてあり、旅人が向う方向を間違えないよにとの工夫がされていました。

 名物「関の戸」は、直径が30mmもない¥500玉程度、厚みが8~10mm位の小さいお菓子で、1個毎に紙に包まれたもの15個入りで¥850でした。 原料は砂糖、小豆、水飴、米粉、トレハローズと書いてあり、かなり甘いが美味しい菓子でした。

 

⑨ 関町郵便局

高札場にあることから、昔はお役所だ」ったかも?。

 

⑩ 高札場

結構いろんな通達があって、高い所にも立てないと収まらないから、高札になったものと勝手に推測してます。 ”知らしむべからず”と言いますから、あまり知らせたくない事は高い位置に張ったのかも?。

 

⑪ 白玉屋

関の戸と並んで、ここの名物の「白玉」、直径45mm暑さ15mm位の、餅状の饅頭。 6個入り¥650。 甘い物には目が無い私は、これも買って、仏様へのお土産に・・・・。

 

⑫  福蔵寺

下の写真、右上は前出の「小萬」の墓。

 

 関宿の賑わいはこの後の「地蔵院」あたりまでだったようですが、 長くなるので、ここらで一区切りとさせていただきます。


995 東海道 関宿 (1) 関町小野木崎

2013-09-05 08:00:00 | 名所旧跡

 ”後期野次喜多”による、旧東海道筋の旧跡めぐりは、お江戸日本橋から始まる、五十三次の内の42番目の桑名宿を皮切りに、四日市宿、石薬師宿、庄野宿、亀山宿と来て、その47番目の関宿に入って来ました。

関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのが始まりで、これが地名の由来となりました。

慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。 古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42あったとされ、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。

先ずは歌川広重さんの絵から・・・・

 

 下の地図は今回紹介する、私達が尋ねた旧跡の場所を丸付き数字で示し、尋ねた順番になってます。 なお、赤い線は旧東海道で右が四日市桑名方面であり、左は鈴鹿峠、京都方面になります。 関西本線の駅は「関駅」です。   撮影日 2013.08.26(月)

 ① 関宿の入口

下の写真左の道は国道一号線で前方が鈴鹿峠方面になります。 また、右の道が旧東海道です。

 

② 関の小萬の碑と小萬のもたれ松(跡)

九州久留米の藩主の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿の旅籠山田屋に止宿した。そこで一女「小萬」を産んだ後病没した。 小萬は旅籠の山田屋の養女として育ち、母の遺言により、亀山の道場へ剣の修行に通い、天明三年(1783)ついに仇敵と巡り合って志を遂げたと言う。 その碑がここにある。

小萬のもたれ松とは、当時小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠してもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになった・・・とか。

    関の小萬の亀山通い、月に雪駄が二十五足・・・・・・と鈴鹿馬子唄に。

 

③ 東の追分、伊勢神宮一の鳥居、常夜燈、一里塚跡 

ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、宇治橋南詰めの古い鳥居を移築するのがならわしになっています。 道標には、伊勢神宮・下宮までは15里(約60km)と刻まれています。

 

④ 町並み 

現在、旧東海道の宿場町の殆どが旧態を留めない中にあって、唯一歴史的な町並みが残ることから、昭和59年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

関宿の範囲は、東西追分の間約1.8km、25ヘクタールに及び、江戸時代から明治にかけて建てられた古い町屋200軒余りが残っています。

 

 

 

⑥ 宝林寺 

 

⑦ 弘善寺入口道標と古民家

 ⑧  雲林院家

昔は「開雲楼」と称し、松鶴楼とならんで芸妓置屋でありました。 街道筋の宿場では大抵の旅籠は飯盛女と呼ばれる遊女を置き、また、遊郭も多かった。 「開雲楼」はその代表的なもので、表の立繁格子やべにがら塗りの鴨居や柱にその面影を遺している(関町教育委員会)

 

⑨ 御馳走場跡(再現)

宿役人が大名行列を出迎えた場所。享保19年(1734)に作られた。

  

⑩ 大井家

 

⑪ 関神社

もとは熊野権現といい、伊勢平氏の流れをくむ地侍の関氏が勧請したものと伝える。

 関神社奥の神殿前の「クロガネモチ」・・・関町指定の天然記念物。

 

 関神社をまっすぐ南に行くと、関西本線の関駅になりますから、この辺りが、関町の中心になります。このあと更に鈴鹿峠に向ってゆきますが、それは次回になります。

 


987 東海道 亀山宿 (5) 布気町

2013-09-01 08:00:00 | 名所旧跡

真夏の”後期野次喜多東海道道中記”の亀山宿も今回で5回目、最後になります。 ここら辺りに来ると、暑さに疲労が重なって来て、ペースが落ちては来ましたがどうにか、今日の最終目的地まで達する事が出来ました。 これも友の協力があって初めてできたものと感謝しつつ進めました。  桑名宿の最初から数えて本編は第26編となりました。

いつも同じですが、地図の赤い線は旧東海道で、右が四日市、江戸方面、左が鈴鹿峠、京都方面です。また、丸付き数字は尋ねた旧跡の所在地を示すと共に、各記事の番号になってます。 なお、⑩は記事がありません。      取材日:2013.08.05(月)

 

① 「常夜燈」

付近に川も無く、大きな道でもありませんので、何処からか持って来たものと思われるますが、年代を感じさせる常夜燈でした。 亀山市指定史跡。 珍しい事に「さざれ石}が使われています。

 

 

② 「善性寺」   真宗高田派

山門は「マキ」の木で作った、H型の門です。 「マキ」の木がここまで大きく成るだけでも、かなりの年数が必要だと思いますが、それをこんな形に剪定し仕上げるには、2~3代に渡らねばならないと思います。 立派な門でした。 

 

③ 「毘沙門天」

ここも植え木による門でした。

 

④ 「布気皇舘太神社」  延喜式に載る古社。

鈴鹿川北岸の河岸段丘の上に鎮座する。
古く野村布気林(野村の西北部・野尻村との境)にあつたが、文明年間の兵乱によつて衰退し、のち、現社地の皇館の森に移つたと伝えている。
中世には、神戸郷の神領を管した在地の豪族板淵氏(同村の西北に居住)が当社の祭祀を経営していた。
文永元年(1264)に関実忠が地頭職として亀山に移住し、亀山城の氏神とした。
享保8年(1723)に吉田家より皇館大神宮の神号を受けた。

 神社の向い側には東海道随一と称された「立場茶屋能古」があったそうです。 

 

⑤ 「昼寝観音」  落針観音堂

途中に昼寝していて、三十三観音霊場に入れて貰えなかった観音さんらしい。 なんとのんきな観音さんですが、どんな御利益があるのでしょうか?。

 

⑥ 「常夜燈」、「道標」

常夜燈はかろうじて見るとおもいますが、道標は電柱の陰に隠れています。 道標は大正四年建立で「大正記念道」とあり。

 

⑦ 「清福寺」    真宗高田派

 

⑧ 「常夜燈」

安政六年(1859)の建立とあり。

 

⑨ 「太岡寺畷」  (たいこうじなわて)

鈴鹿川の北堤、約18丁(約2km)に及ぶ東海道一の長縄手です。江戸時代は、松並木でしたが、明冶になって枯松の跡へ桜を植えましたが、その桜もほとんど枯れ、近年再び桜の木を植樹し、桜の名所となっています。

芭蕉七部集「ひさご」の中に風の厳しい畷の様子を「からっ風の太岡寺畷手ふき通し連れもちからもみな座頭なり」と詠まれています。

また、「源氏物語」賢木巻に、この辺リの鈴鹿川の情景と歴史的背景を題材とした和歌が詠まれています。「振り捨てて今日は行くとも鈴鹿川 八十瀬の波に袖はぬれじや」「鈴鹿川八十瀬の波にぬれぬれず 伊勢までたれか思ひおこせむ」  この2首は、光源氏と六条御息所の悲恋の歌です。 二人の永訣の契機となった六条御息所の娘が斎王として伊勢に向かわれる際に詠まれたものです。

 また、別の資料によると、里謡に「わしが思いは太岡寺 他にき(木・気)はない まつ(松・待つ)ばかり」と謡われたとありました。 松が一本も残ってないのは、大変残念な思いでした。

 

2kmに及ぶと言う「太岡寺畷」の途中、亀山ICから分岐した伊勢湾岸道と東名阪道が横切るが、そのガード下には、県下の6宿についての、歌川広重の東海道五十三次の絵が描かれている。 写真右が四日市名古屋方面、左は伊勢、大阪方面です。

 

 

これにて亀山宿はおしまいとし、次は「関宿」、その次は「坂下宿」で三重県内は終了になります。

ここまでの旧東海道の通過距離は、亀山宿の始点(関西本線井田川駅の手前)から約8.9kmありましたので、桑名宿の始点(七里の渡し)からは約40km来たことになります。 鈴鹿峠までの三重県内の東海道は45kmと言いますから、残り少なくなりましたが、まだ「関宿」、「坂下宿」と二つあり、距離は5km程と言うことになります。

また、この「太岡寺畷」あたりの標高は66m前後でした。 亀山は台地の上にありますので、少し登り降りはありましたが、とどのつまりは殆ど上ってないことが解りました。 旧東海道の県境は377mくらいあるそうですから、ここから5kmとすると、平均ではありますが、勾配は6.2%となりますから、 これより先は坂が次第に急になってきそうです。 

 

 


986 東海道 亀山宿 (4) 南野町 北野町

2013-08-28 08:00:00 | 名所旧跡

”後期野次喜多衆”は亀山宿の中心部を抜けて、鈴鹿峠に向けて進めています。

今は真夏、この翌日からは35℃前後となり、”後期御一行”には厳しすぎるので、唯一最高気温が31℃と比較的低い日、カンカン照りでない日を選んだのが本日(2013.08.05(月))でありました。 

本当は歩くことで、細やかな”取材”が出来る事は承知しながらも、まだ、熱中症になりたくない野次喜多は車を使わざるを得ず、その上で、歩く距離を最小限にする事と乗り降りを最小にすると言う相反する要求を満たすべく、午前8時30分菰野町を出発したのです。

下の地図、赤い線は旧東海道で右が四日市、江戸方面であり、左は鈴鹿峠、京都方面となります。丸付き数字は尋ねた旧跡の凡その場所を示し、その番号順に尋ねています。 なお、  は今回の区間距離等測定点を示します。

 

① 連子格子の家  

飲食店やコンビニさえも並行して走る国道一号線にはあるが、ここ旧東海道には殆ど店は見当たらない。 空腹を覚えた今、渡りに船と期待したが、古民家風休憩所はまだ開店していなかった。 

 

② 「永信寺」

 

③ 「光心寺」

門は閉じられており、入る事は許されなかった。

 

④ 「光明寺」   浄土真宗本願寺派

 

⑤ 「羽柴秀吉本陣跡」、「常夜燈」

 

⑥ 「豊川 杔枳尼天(とよかわだきにてん)」

両サイドの道路拡張の犠牲になり、狭い土地に押し潰されたようにみえます。

 

 

⑦ 「慈恩寺」    浄土宗

 慈恩寺の創建は神亀5年(728)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたのが始まりと伝えられています。古くから神仏習合で忍山神社の別当寺院を司り、最盛期には広大の境内に七堂伽藍が建ち並び支院7ヶ寺を擁していました。本尊の木造阿弥陀如来像は平安時代前期に制作されたもので像高161.9cm、檜材、一木造、昭和12年に国指定重要文化財に指定されています。

 

 

⑧ 「古い家屋」、「石碑(「天照皇大神御鎮座 忍山神社山道」と書かれている)」

 

 

⑨ 「忍山神社(おしやまじんじゃ)」   

野村町の東北隅に愛宕山と呼ばれる海抜90mの丘陵があり、この南麓地点が旧社地と推定されている。
この旧地に神宮寺として神福寺と共にあったが、文明4年(1472)に、兵火のたことごとく灰燼となった。いま野村にある慈恩寺は神福寺の遺蹟とされている。
その後仮殿に祀られた。永禄の戦乱には、一時兵火を避けて白木山に御神体を奉遷したといわれ、中世におけるその荒廃は著しかつた。
この地は伊勢大神の御遷幸の地であるとされ、倭姫命が天照大神を奉じ、桑名野代宮から鈴鹿に來られた際、この忍山にて神宮を奉斎した忍山神宮の旧跡という。
日本武尊の妃弟橘媛(おとたちばなひめ)は忍山神社祀官忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘と伝えられている。
布気皇館太神社を論社とする説もある。
式内社調査報告も「式内布気神社は現忍山神社である公算が強いように思う」としている。

 「鈴鹿小山の宮(忍山)倭姫命御巡幸地跡」

垂仁天皇(第十一代)御代に皇女倭姫命が御杖代となって、天照皇大神の鎮座の地をもとめて、大和の国から忍山に御遷幸になった。 その祭神宮を造営し御鎮座になられること半年、なおも南え遷り坐したという。 その跡をかしこんで大神を奉杞した。  

⑩ 「野村一里塚」 

三重県内にあった12箇所(24)の一里塚の中で唯一完全な形で現存している一里塚です。 慶長9年(1604)、徳川家康の命で東海道が整備され、その一環として亀山城主であった関一政が築造しました。

江戸日本橋からは約424キロ、京都三条大橋からは約68キロの位置にあり往時は街道の両側に塚があり南側にはエノキ、北側にはムクの木が植えられていました。 現在残されているのは北側の一里塚だけで推定樹齢400年のムクの木が聳え立っています。 野村一里塚は昭和9年に国指定史跡に指定されています。

 

今回は見るべきものが集中していたために、 東海道通過距離は過去最低の783mとなりましたが、 この後は次回にしたいと思います。 なお、この辺りは平坦な所でして、標高差は約6m、従って勾配は0.8%でした。

 

 

 


985 東海道 亀山宿 (3) 西丸町

2013-08-23 08:00:00 | 名所旧跡

桑名の「七里の渡し」を起点とした、旧東海道の街道筋にある旧跡を訪ねる”後期野次喜多道中記”は、亀山市の中心部の西半分を尋ねています。

なお、下の地図で、赤い線は旧東海道を示し、右は四日市、江戸方面であり、左は京、大阪方面です。また、丸付き数字は尋ねた場所を示し、下記の記事の番号になっています。 旧東海道上のブルーの丸() は距離の測定点を示し、また、ブルーの四角()は追って説明しますが、 「京口門」」のあった所(推定)です。    取材日:2013.08.05(月)

 

① 「西問屋場跡」

この辺りは、問屋が並ぶ街道であったようです。 まだ何軒も古い家屋が残されています。

 

② 「旧舘家住宅(枡屋)」、「道標」、「飯沼慾斎生家跡」 

 

「飯沼慾斎」について

 名を長順、幼名本平。慾斎は、引退後の号。小野蘭山について本草学を学んだ。後、宇田川榛斎に入門し蘭学を修め、大垣に帰り蘭方医を開業し名声を博した、文政11年(1828年)には人体解剖もおこなっており、本業の医家としても先駆者であった。60歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、自ら慾斎と号したことでもその意欲が覗い知ることが出来る。『草木図説』執筆の傍ら68歳で自ら種痘を試み、70歳を越してから門人とともに写真術の研究をはじめ、80歳では、博物学・医学・本草学の知識を広めようとシーボルトと会見せんとした(シーボルトの帰国で実現しなかった)。最晩年には、足を傷めたが、山駕籠に乗っては深山まで植物採集に出かけたという。

 

③ 「善導寺」

亀山藩縁の寺院で境内には亀山城主三宅康信の夫人である清光院や亀山城主石川家の家臣で藩校明倫舎の学頭を務めた柴田右仲(江戸時代後期の朱子学者)の墓碑があり亀山市指定史跡に指定されています。

 

④ 「加藤家長屋門、土蔵」

石川氏六万石の家老職にあった加藤家の屋敷跡。建物は江戸時代中期以降の建築とされるが、1990年の修復工事で幕末当時の姿に復元された。土蔵のなまこ壁や長屋門の白壁に城下町の面影が残っている。  亀山市文化財。

 

⑤ 「亀山市歴史博物館」    70才以上入場無料 駐車無料

この博物館は、東西を走る東海道よりは少し北にあり街道筋とは言い難いですが、亀山の歴史に触れる上では欠かせない場所と思い訪れて、有意義な資料も戴きました。 (上記地図では、その外になるので、記載してません)

 

⑥ 「梅巖寺」

亀山藩主だった石川家縁の寺院です。境内は亀山宿の西端にあたり往時は亀山城の総構の城門である京口門に隣接していました。伊勢国鈴鹿郡八十八箇所霊場第三十二番札所(しづかなる わがみなもとのぜんじふじ うかぶ心は  のりのはやふね)。境内には西国三十三霊場を模した石祠が建立されています。

 

  ■ 「京口門跡」

 「京口門」は、当時は上記「梅巖寺」の隣にあったようですが、今は何もありません。 亀山城の総構の城門である京口門は石垣で囲われ棟門、冠木門、番所が備えられ石高の低い亀山藩にとっては規模が大きく壮麗だった為、「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われた、堂々たる門があったと言います。 1672年に築かれた。

⑦ 「京口坂」  道路の南側から見る。(下の写真)

下の川岸が当時は東海道であったと思われるので、今見える道路は盛り土をしたものと考えられるので、盛り土が無ければ、かなり急な坂道であったと考えられます。 そしてその上部に”亀山の過ぎたるもののひとつ”「京口門」があったと想像して欲しいのです。

そこに、下の絵を重ね合わせて見ますと・・・・・・・。 

⑧ 「広重が描いた亀山宿・雪晴」

松の木はありませんが、ぴったり嵌ると思うのが、私一人ではないと思いますが、如何でしょうか?。

 

⑨ 「京口坂」  旧東海道の道路の北側より見る。

下の写真は、左側が次に示す「照光寺」の山門ですから、当時の道路面はこの高さ以下であった事をきっちり物語っています。

ここに広重の絵が掲げられていますが、絵は坂が右上がりに描かれてますが、この写真では左上がりですから、この絵を描いた場所はここでは無く、先ほど示した道路の南側が正しいように私は思います。

亀山は台地の上にあると前に書きましたが、「京口坂」を降りることで台地から平地に移ります。参考までにここらの標高を調べると64.7mでした。 亀山城のあった辺りが91.5mですから、その差は27m前後となります。  これから推測すると、「京口坂」は距離は短いがかなりきつい坂であった可能性があります。

 

⑨ 「照光寺」

創建年は不詳ですが、古くは玉泉院と呼称されていた。元禄2年(1689年)、伊勢亀山藩主であった、板倉重冬の義母照光院によって、伽藍が再建されたとのこと。

「赤堀水之助(源五衛門)」についての興味ある文章をみつけましたので、借用しました。

石井源蔵・半蔵兄弟の亀山仇討について
 石井源蔵・半蔵の父は信濃国小諸城主・青山因幡守宗俊の家臣で、石井宇右衛門といい、宗俊が大坂城代となった時、共に従って大坂へ行きました。その折り、美濃大垣以来の友人赤堀遊閑が訪ねて来て、養子の源五右衛門の将来を頼みました。宇右衛門は引き受けましたが、しばらくして、源五右衛門が家中の者に槍を教えていると聞き、宇右衛門は、もう少し稽古をしてからにしたほうがよいと説くと、源五右衛は立腹し、それならば勝負をしたいと言うので、宇右衛門も仕方なく応じて源五右衛門を討ち負かしました。
 このことを恨みに思った赤堀源五右衛門は、延宝元年(1673)11月18日、外出中の石井宅に入り込み、帰宅した宇右衛門を槍で殺して逃げてしまいました。そこで、小諸藩の近習役で18歳になる宇右衛門の長男三之丞は、次男彦七と共に仇討の旅に出るのです。そして、同年12月8日の夜、源五右衛の養父・赤堀遊閑を大津で討ちとることができました。しかし、八年後の天和元年(1681)正月、美濃で源五右衛門の返り討ちに遇い、さらに次男彦七は、一人で伊予へ渡る時、嵐のため溺死してしまいます。
 三男源蔵・四男半蔵は、父が討たれた時、まだ5歳と2歳で、縁者の安芸国浅野藩士に預けられていましたが、二人の兄が死んだので、源蔵が14歳になった年、仇討に旅立ちます。
 その頃、赤堀源五右衛門は、名を赤堀水之助と改め、亀山藩に仕えていましたが、亀山藩は源五右衛門をかくまい、他国者には一夜の宿をも禁止し、見知らぬ者は一切城内に入らせないといった厳重さで、容易に近づくことができませんでした。源蔵兄弟は行商人となったり、近江の茶売りとなったりして仇の身辺を探りましたが、機会を得ることができなく、むなしく歳月が流れました。が、ようやくにして、源蔵兄弟は亀山藩士の家に奉公することができ、ついにその機会が訪れました。元禄14年(1701)5月9日の朝、宿直であった源五右衛門が出てくるのを亀山城内で待ちうけて、兄弟はめざす仇を討ち果たしたのでした。父の死から29年目、兄達の死から20年目のことで、長谷川伸の小説『29年目の仇討』の題材にもなっています。
 また、この仇討は、赤穂浪士の討ち入りにも影響を与えたと言われています。浅野内匠頭長矩の切腹がこの3月、討ち入りは翌年12月でした。  (この文は海津裕子氏が書かれたものです)

親の仇とはいいながらも、人生の大半を仇討ちに費やしたとは凄い精神力と感嘆するばかりですが、それで本当に気が晴れるものでしょうか?。 途中、これでよいのかと言う反芻はなかったのでしょうか?。 現代ではあり得ない事ですが、当時はそれを正当化し、それでよかったんだと信じ込んでいたのではないかと思います。 

東海道・”後期野次喜多”道中記 第24遍はこれにておしまいです。

 


984 東海道 亀山宿 (2) 本町 東町 西町

2013-08-19 08:00:00 | 名所旧跡

桑名の「七里の渡し」を起点とした、”後期野次喜多”東海道道中記は今回で第23遍目となり、亀山宿の中心部に来てます。 お城や本陣のあった所、関西本線亀山駅周辺になります。

下の地図はその辺りを示してますが、赤い線は旧東海道であり、この道を忠実に尋ねています。 丸付き数字はその尋ねた所であり、下に示す記事の番号になってます。   取材日:2013.08.05(月) 

① 「浄源寺」  

このお寺は、堂の正面が北を向いており、南側は完全に蓋がされている。 県の「みえ歴史街道」にも、「地蔵尊」として紹介されており、寺として機能しているか否かは私には解りません。 

 

 

② 「福泉寺」

創建は不詳ですが15世紀半ばに天台宗から真宗高田派に改宗した古刹です。山門は寛政7年(1795)に建てられたもので、入母屋、本瓦葺、一間一戸、楼門形式、格式が高く屋根正面には唐破風、軒の両側には鯱が設えられています。亀山市内に残る数少ない寺院楼門建築の遺構として貴重なことから平成8年に亀山市指定文化財に指定されています。

立派な山門です。 ここも保育園が併設されていました。

 

③ 「法因寺」

江戸時代末期亀山藩の群代奉行であった黒田孝富の墓があり、亀山市指定史跡に指定されている。なお、黒田孝富とは、亀山藩の藩政改革を断行し、明治元年に暗殺された人のようです。

また、裏の墓地にある推定樹齢300年の「左巻き「カヤ(榧)」の木」が亀山市指定天然記念物に指定されています。 写真下左。 なぜ「左巻き」というかですが、カヤの実の中、種になる部分は固い殻でつつまれていますが、この殻には縦に筋がありますが、普通はまっすぐなのに、ここのは左に巻いてるからこの名前が付いたようです。 なお、実は食べられるそうです。

 

④ 「本陣跡」

今は当時を忍ばせるものは何もなく、木の札があるばかりでした。

 

⑤ 「東海道」、「亀山城大手門跡」、「高札場跡」

この交差点の右ほうこうがお城で、ここら辺りに亀山城の正門となる「大手門櫓」があったとの立て札がありました。 明治初期に石垣に至るまで破却されてしまったそうです。

写真正面の道路左側に「高札場跡」の立て札があり、その辺りにあったものと思われます。

 

⑥ 「遍照寺」

創建は不詳ですが、17世紀初頭には既に存在していたとされ、所有する寺宝から亀山城下では有数の古刹として知られています。 鎌倉時代中期に作られた阿弥陀如来立像(高さ99cm)と慶長4年(1252)に作られた木造観音菩薩坐像(高さ31cm)、木造勢至菩薩立像(高さ46cm)が、三重県指定文化財になっています。 本堂の玄関は亀山城の二の丸御殿の式台を移築したもので、数少ない亀山城の遺構として貴重なものとされています。鎌倉時代中期の作と見られる。

また、本堂は亀山城二の丸御殿の玄関を移築したものと伝わる。

 

⑦ 「誓昌寺」   真宗高田派 梅照山

 

亀山の城があった場所は「台地」になっているので、城には絶好の場所といえますが、我々は少し坂を登らねばなりません。 標高差は20~25mと見られます。

 

⑧ 「亀山城多門櫓」 

天正18年(1590)、岡本宗憲が築いたもの。 三層の天守閣があったが、寛永9年(1632)に手違いで解体され、以降再建されなかった。 現存する多門櫓は県下唯一の城郭建造物として県指定文化財です。

多門櫓とは、解り易く言えば”長屋方式のやぐら(櫓)”と言えそう。 幾つもの覗き穴のあいたやぐらの事をいうようですが、亀山のはあまり穴が多いとは言えないですねー!。

下の写真植えられている木は桜です。これが咲くとこの櫓も一段と映えます。

参考写真はここに  http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20090407

 

⑨ 「明治天皇行在所」  (あんざいしょ)

古ぼけた単なる田舎の家屋に見えますが、 明治13年(1880)、県下ご巡行の折使用された「玉座」などの一部を移築保存されたものだそうです。 県指定史跡、市指定文化財。

行在所とは、天皇が外出した時の仮の御所。 

 

⑩ 「大久保神官邸宅門」  市指定文化財

亀山城の鎮守、南崎権現社の神官邸宅の門。 亀山西小学校裏門に使用されていたが、昭和30年にここに移築されたものらしい。

 この門の奥には、「亀山演武場」が復原されており、「亀山藩御流儀心形刀流武芸形(県文化財)」が伝承されています。 心形刀流は亀山藩武芸指南役山崎雪柳軒が免許皆伝を得て、1864年亀山に演武場を開設し、柳生新陰流に関わって御流儀となりました。

 

⑪ 「亀山神社」

お城も含め、旧東海道よりは、少し北に外れた場所になります。

 

この後は、再び東海道に戻って、亀山市中心部の後編となります。

この終了地点は関西本線亀山駅辺りですから、略真ん中に位置しますが、ここまで旧東海道の通過距離は、亀山宿に入って5.1km、桑名宿七里の渡しからは36.3kmとなりました。 ですから、県境の鈴鹿峠までは残り約10kmになります。

 


982 東海道 亀山宿 (1) 井田川 和田

2013-08-15 08:00:00 | 名所旧跡

 ”後期野次喜多衆”はついに「亀山宿」(亀山市)に入って来ました。

 歌川広重の描いた亀山はご覧の通りですが、国道一号線を走っていると、こんなに急な坂道には出会いません。 それに真夏に書いたブログには余りにも季節感を無視しているとお咎めを戴きそうではありますが、恒例(?)により掲載します。  この絵を書いたと思われる場所については、そこを通った時に書こうと思ってます。

 

   取材日:2013.07.25(木)

  

 

 ① 「若一大神社」

ここは県の「みえ歴史街道」には掲載されていませんが、 寺を探している時あったので、入ってみたもの。

 

 

② 「海善寺」 

 

 

③ 地蔵堂

辺りに在り合わせの石を並べたような地蔵さんですが、県の「みえ歴史街道ウオーキングマップ」に載っていたので尋ねましたが・・・・・・?。 しかし、花が添えてありましたから、それなりの何かがあるものと思われます。

 

 

④ 関西本線・井田川駅

旧跡ではありませんが・・・・。

 

 

⑤ 「西信寺」   真宗高田派

 

 

⑥ 「正福寺」

 

 

⑦ 「谷口法悦題目塔」

 元禄年間(1695~98)に谷口法悦が建立。正面に「南無妙法蓮華経」と、右に「後五百歳中廣宣流布」、左に「天長地久國土安穏」と刻まれている。 亀山市指定文化財。

法悦とは、江戸時代に京都にいた、熱心な法華経信者の一族であること以外はわからない。

 

「題目塔」とは、南無妙法蓮華経と刻まれた鎮魂を目的とする供養塔の事らしい。 法悦は百基を越える題目塔を建立したほどに熱心であったとされる。

 

⑧ 「和田道標」 

元禄3年(1690)に建てられた県内東海道中最古の道標。 「従是神戸白子若松道」と書かれている。 市指定文化財。

 

 

⑨ 「幸福寺」    真宗高田派

 

 

⑩ 「井尻道の道標」

 

 

⑪ 「福善寺」   天台真盛宗

 

 

⑫ 「和田神社」

 

 

⑬ 「石上寺」    真言宗

796年に大和国(現奈良県)石上神宮の神託お受けた紀真龍(きのまたつ)が、那智(現和歌山県)の熊野那智大社をこの地に勧請したと伝える。 後に鎌倉幕府の祈祷所となり、広大な土地が寄進されたが、織田信長の兵火に遭って衰微し、江戸時代初期に小堂を建て再興したという。 寺に伝わる「紙本墨書石上寺文書」(県文化財)は南北朝時代のものが多い。

かつては壮大な伽藍を有していたと伝えられるそうだ。

 

 

⑭ 「和田一里塚」

日本橋から104番目、つまり104里(約406km)の一里塚です。

野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長9年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。かつてはエノキが植えられており、昭和59年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。 亀山市教育委員会

 

 

この後は、亀山市の中心部に入ってゆきます。 それは次回に・・・。

 

 


981 東海道 庄野宿 (2) 汲河原 富田

2013-08-12 08:00:00 | 名所旧跡

三重県内の旧東海道、街道筋にある旧跡を尋ねていますが、その第21編目は「庄野宿」の西部になります。

ご承知の通り東海道は桑名宿から四日市宿の中ほどまでは、伊勢湾岸を略南方に下ります。その間は海岸から遠く無いので道の高低差は川の堤防より高くなることはありませんでした。 しかし、四日市市采女(うねめ)を通る辺りから、海岸線から遠ざかり初め、方向も西方に舵を取り、鈴鹿山脈、鈴鹿峠が近づくに従い勾配がきつくなってきます。

旧東海道と略並行している国道一号線を走っていると、 勾配は平均化されているために、 殆ど気になりませんが、実際には少しずつ登り勾配になっています。 その為に、足に自信の無い”後期野次喜多衆”にとっては、歩きも自転車も使えず、もっぱら車にたよって東海道を下っています。

幸にしてこの辺りは、繁華街でも、観光地でもないために、見たい旧跡の近くに車を止められるのは、大変に有難いことと思っています。 このあとの亀山宿は街中に入りますし、関宿は観光客も多い所であり、また、坂下宿あたりは急坂になってくるなど、取材もだんだんと楽では無くなりそうな気配です。

 

いつも同じですが、下の地図”赤い線”は旧東海道を示し、丸付き数字は尋ねた旧跡を示しています。赤い線が一部細く薄くなってる部分は、昔の東海道があった場所で、今は消失している事が多いです。

  取材日:2013.07.25(木)

 

① 「道標」 

 

② 「真福寺」   浄土真宗本願寺派 

 

③ 女人堤防 

この辺りは鈴鹿川とその支流安楽川の合流点で、昔から水害が頻発していた。 江戸時代、領民は神戸幡(かんべはん)に何度も川の修築を申し出たが許されず、1829年に女性達が幡命に逆らい、死罪を覚悟で堤防を補強した。 女性達は、いったんは処刑場に送られたが、赦免の早馬が到着し救われたと言う。 

写真中央から右方向への低い堤防がそれらしい。 下左の石柱には「これより東・神戸領」とあり、下右は「女人堤防碑」。

 

④  「領界石」と「山の神」

右端下に見える石は手洗い石であるが、1813年のものだそうだ。  上の「女人堤防碑」と道を挟んで北側にあるが、江戸時代から位置は変わってないという。

 

⑤ 「 式内川俣神社」

樹齢600年と言われる、楠の大木がある。

 

⑥ 「常夜燈」、「史跡中富田一里塚跡碑」、「これより西亀山領の石柱」

上記「川俣神社」の鳥居の両側に並んで置かれてました。

 

⑦ 「浄念寺」   天台真盛宗

以前、この地には延命地蔵尊を祀った地蔵堂を持つ「平建寺」があったが、安政地震後、浄念寺が移転された。

 

⑧ 「福満寺」 

写真を撮らせて下さいと、住職らしき方に声をかけたら、 梵鐘の屋根瓦が新しく拭き替えた事などを親切に説明して戴きました。

 

⑨ 「川俣神社」

 ⑩ 元は別の場所にあった、「常夜燈」、「道標」も今は「川俣神社の境内に。

常夜燈は慶応2年(1866年)のもの。

 

 ⑪ 「地蔵堂」

 

⑫ 「道標」

江戸時代からここにいるそうです。

 

 

⑬ 「地蔵堂」

江戸時代からずっとここに鎮座されてます。

 

⑭ 「地福寺」

 

庄野宿は二編に渡って紹介したが、旧東海道のその区間距離は合わせて5.46kmになりました。  これをまとめると・・・

桑名宿  (七里の渡し~町屋橋)    3.8km   桑名市    ブログ: 7編 

四日市宿(町屋橋~浪瀬川橋)    19.2km   四日市市   〃   10編 

石薬師宿(浪瀬川橋~椎山川橋)    2.7km  鈴鹿市     〃    2編

庄野宿  (椎山川橋~伊田川駅手前) 5.5km  鈴鹿市    〃    2編 

    合計は                     31.2km               21編 となりました。 

この後は亀山宿(亀山市)に入ってゆきます。

                                        << 庄野宿 完 >>


980 東海道 庄野宿 (1) 加佐登 庄野

2013-08-09 08:00:00 | 名所旧跡

東海道を桑名宿の「七里に渡し」を皮切りに、街道の周辺にある旧跡を訪ねている。 四日市宿、石薬師宿と来て、東海道五十三次の45番目「庄野宿」に入ってきました。  ここは、東西に長く伊勢湾から滋賀県との県境まである鈴鹿市に位置しています。 

歌川広重の「庄野宿」には”にわか雨”に急ぐ姿が描かれていますが、 ここらが雨の多い所との印象はありませんが、天候が変わり易いことはあるかも知れません。 それてにしても、当時、雨具を持たない人は、着物が濡れないように裸になって歩いたのでしょうか?。 夏なら涼しくてそれでもいいですが・・・・?。

 

庄野宿についての記述を拝借・・・・
東海道に伝馬継立制は四十数宿だつた。翌慶長七年(1602)に岡部、九年に戸塚、元和二年に袋井と石薬師、四年に箱根、九年に川崎と順次追加され、庄野に設けられて五十三次となつたのは寛永元年(1624)のことだつた。五十三次の由縁は、徳川家康が華厳経を信奉していたので、その中に出てくる53人の聖者を意識していたともいわれている。天保14年の宿村大概帳によれば、亀山に二里の距離、人口855人、家数211軒、旅籠15軒、本陣1軒の規模であった。広重のこの「庄野ノ白雨」は五十三次の中の最高傑作といわれ、国際的にも評価が高い。「白雨」とは夕立のこと。

今回の見て回った場所を示す地図ですが、赤い線は旧東海道を示し、右方向が四日市、桑名方面で、左は亀山、鈴鹿峠に至ります。 なお、丸付き数字は尋ねた旧跡の場所を示し、これから書く記事の番号になってます。   取材日:2013.07.25(木)

 

① 「浄安寺」

木造釈迦如来坐像は鈴鹿市指定文化財。

 

② 「青蓮寺」  (しょうれんじ)

ここは県の資料には記載されてないお寺ですが、 道を間違えて入ってしまったし、また、「ソテツ」の花が見事であったので見学させて戴き、更には、折角撮ったので旧跡に加えさせてもらったものです。

 上記2寺は東海道より少し離れ、北西の位置にありますので、南の方、関西本線を越えて、旧東海道に戻ることになります。

 

③ 古い造りの家並み

この辺りには懐かしい家並みが数軒あります。

 

 

④ 「善照寺」   真宗高田派

 

⑤ 庄野宿資料館

鈴鹿市が管理しているこの資料館は旧小林家の主屋の一部を創建当時の姿に復元したもの。 小林家は庄野の豪商で油屋を営んでいた。 この家は「1854年(建立)」銘の棟札を持ち、 館内には、庄野宿の本陣、脇本陣文書、宿駅関係の資料が展示されていすます。
 
 
 

入って見たかったが、閉鎖されていた。 開ける日についての記述も見当たらなかった。

 

⑥ 「妙法禅寺」   臨済宗東福寺派

 

 

⑦ 「常楽寺」   真宗仏光寺派

 

⑧ 「川俣神社」

下の写真の巨大な木は、「スダジイ」であり、県指定天然記念物です。 樹高15m、幹周り5m以上、枝は東西に19m、南北に16mの広がりを持つ大変豪快な木に見えました。

「スダジイ」とはブナ科の常緑樹。  小学生の頃、お宮さんなどの「シイ」の木の下で、実を拾って食べた事を思い出します。 大粒の大豆程度の大きさでしたが、黒い皮を剥くと、実は真っ白で、味は殆ど無かったですが、おやつ代わり、空腹を満たすひとつの方法でした。 栗でも生はあまり美味しく無いが、「シイ」も同じでした。

 

⑨ 「庄野宿本陣跡」と「高札場跡」

高札場跡は、本陣跡の左の道路の向こう側に立てられていた。 そこが高札場であったように思えました。

 

⑩ 国道一号線と県道の立体交差点により、消えてしまった「旧東海道」と今の歩道の説明書きがありました。

 

 今尋ねた辺りは、加佐登町と庄野町でありましたが、この後は汲河原町に入ってゆきますが、その記録は次回にしたいと思います。


978 東海道 石薬師宿 (2) 上野

2013-08-06 08:00:00 | 名所旧跡

東海道を「桑名宿(42)」、「四日市宿(43)」と巡り、今は東海道五十三次の44番目「石薬師宿」に来て、街道の周辺にある旧跡を訪ねています。  今の区画では、ここは鈴鹿市石薬師町となっています。

下の地図で、赤い線は旧東海道を示しますが、 地図 下の方に示すように、一部は消えてしまって、今やその痕跡も無い部分もあるようです。 丸付き数字は尋ねた場所です。       取材日:2013.07.20(土)

 

下の写真左は石薬師宿の入口にありました。 また、中央と右は次に書いた「浄福寺」に近くの道にあり、 旧東海道(写真の左が四日市方面、右が亀山方面)の近くから撮っています。

 

① 「浄福寺」

      真宗高田派 

上の写真下右の碑、佐々木弘綱翁とは、佐々木信綱の父親で歌人であったとのことである。 生家はこの寺から歩いても数分の所にあり。 佐々木家の菩提寺であり、碑は寺の入口に。 いまは、保育園もやっているようです。

② 「道標」

建物を建てるにあたって、誰も文句を言わないのを幸いに、邪魔になり押し出されたような哀れな姿をしている。 こういう貴重なものは、もう少し暖かい目で見てほしいものだ。

 

③ 「石薬師寺」

 寺名は本尊石薬師如来を祀ることにちなんでいる。戦国の戦火のあと神戸城主により、1629年に再建された。 石仏は花崗岩で高さ190cm、寺伝によれば、弘法大師が地面生えぬきの石に刻んだと言われている。 浅い線彫り、ほおは豊かで薬師仏として親しまれてきた。 平安後期の作と言われている。 現在の本堂は1692年再建の総檜作りであるらしい。

 

石薬師寺庭園

 

④ 「御曹子社」

 源頼朝の弟、源範頼を祀る神社です。 源範頼は武道、学問に優れていたので、その願望成就の神様として祭られているようです。 平家追討の際、石薬師寺で戦勝を祈ったと言われています。

 

⑤ 「石薬師の蒲桜」  県指定 天然記念物、文化財

「ヤマザクラ」は赤みを帯びた葉が花と同時に出るのが特徴ですが、この「蒲桜」も似て居り変種と思われ、植物学的にも貴重な品種らしい。 花はひとえで「ソメイヨシノ」よりも大きく真っ白だそうです。 二株あって、主幹は枯れているが、ひこ生えが何本も大きく育っています。

名前の由来は蒲の冠者と呼ばれる、源頼朝の弟「範頼」が、鞭として使ってた桜を突き差したら根付いたと言う伝説もあるようです。 東海道名所図会に 「名馬生食の出し所はここならむとめぐりたまひ馬の鞭を倒にさしたまふ、後に枝葉栄へり」・・・と書かれているとか。 

これが事実なら樹齢800年になりますが、そこまで桜の寿命はもたないのでは?、ひこ生えならどうなのかは私にはわからない。

 

⑥ 「石薬師の一里塚」

信長記(しんちょうき)には、1540年冬、足利将軍が諸国に命じて40町(一町は約109m)を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎とを植えさせたと書かれていると言います。

家忠日記には1640年に秀忠が東海道、東山道、北陸道に一里塚を36町に改めたと書かれている。・・・とか。

  「くたびれたやつが見つける一里塚」   江戸時代の作だそうです。

 

 この一里塚を過ぎると旧東海道は鈴鹿市加佐登町、つまり、「庄野宿」に入るので、これにて「石薬師宿」は終了とします。 県の資料によると、「庄野宿」は上田町近辺からとの記述があるので、この辺りは上田町に隣接するので、ここで区分けすることにしました。 見るべき旧跡もこの一里塚のあとは暫く途切れるので”取材”都合(疲労と熱中症からの退避)も丁度よかったのです。

「石薬師宿」は前編では東海道を1.8km来ましたが、今回は約900mであったので、「石薬師宿」全体としては、2.7kmになります。 従って桑名宿の起点からは 約25.7km来たことになります。 ですから、県境まではまだ庄野宿、亀山宿、関宿、坂下宿など四宿ありますが、距離としては残り20km前後と見られますが、登り勾配が更に激しくなって来ると考えられます。

上記距離は、私が独断と偏見で決めた、各宿場の始点~終点の距離を地図上にプロットして距離を計測したものです。 一方、東海道の始点とする「日本橋」から終点とする「京都三条大橋」までを124里8丁(約484km)とした場合の、宿場間の距離を調べると、

桑名宿から四日市宿までが 3里8丁 (約12.6km)

       石薬師宿までが 2里27丁 ( 10.7km)

       庄野宿までが    27丁  (  2.9km)

・・・となっており、「庄野」までの距離に注目すると、「御油宿」から「赤坂宿」までの16丁(約1.7km)に次ぎ、「平塚」から「大磯」の間の距離と同じであり、五十三宿場間では短い方である事が解りました。 なお、この計算方法によると、桑名宿から三重県の最後となる坂下宿(峠の近く)までは11里32丁(約46.4km)となってます。 

ここに使った距離は、「本陣」など宿の中心間の距離であり、地域区割りの境界間の距離でない事に注意が必要です。

                                                 << 石薬師宿 完 >>