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木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

1090 近江歴史散策 (7) 商家、町並み

2014-05-15 08:00:00 | 名所旧跡

 2014.04.24(木)、”後期弥次喜多ご一行”は雲一つない晴天の「近江八幡市」を”近江商人のふるさとめぐり”と称して 散策しています。

 今回は伝統的建造物群保存地区の指定を受けたところの建物などを見ています。

 

「西川庄六邸」 県指定文化財 (非公開)

蚊帳、綿、砂糖、扇子などを扱う商人の家(町家)。

 

「森五郎兵衛邸」  (非公開)

煙草や麻布、のちには呉服、太物などを扱った商人の町家。

 

1585年、豊臣秀次が八幡山に築城、本能寺の変で主なき城下町となった安土の町を移し、翌年八幡山下町掟書を公布、区画整然とした城下町が誕生。しかし、十年で廃城となるが、その後は商業都市として栄え、近江商人のふるさととなった。

現在は伝統的建造物群保存地区の指定を受け、未来に継承すべき文化遺産とされている。  (下の看板より部分抜粋一部編集)

 

「近江八幡市立資料館」  (旧西川邸)

 

「近江八幡市立資料館」 (旧:伴家住宅)

 

「近江兄弟社本社」  メンタムの会社

 

1880年24歳でアメリカより来たヴォ-リズは、キリスト伝道のみならず、メンタムで有名な会社を興し、企業家として成功し、外観よりも内容を重視した西洋建築を多く残した。また、福祉や文化を高めるなど多彩な社会貢献も展開したので、名誉市民として、ここに彼の足跡を永遠に顕彰する・・・とある。(一部編集)

 

 「旧八幡郵便局」

大正期のヴォリーズ建築のひとつで、見学できます。 (入場無料)

 

 

 この後は、「長命寺」という長生きにご利益のあるお寺に参ります。

 

 


1088 近江歴史散策 (5) 瑞龍寺、八幡山城跡

2014-05-12 08:00:00 | 名所旧跡

 ここは八幡神社から少し北の位置にあるロープウエーで4分ほどで到着する、「八幡山」山上駅です。山の標高は272m程です。

 ロ-プウエーを下りたすぐ前が、瑞龍寺の参道になっています。

 

「村雲御所瑞龍寺」

1585年、豊臣秀次の生母(秀吉の姉)日秀尼公により、秀次の菩提を弔うため、天皇から瑞龍寺の寺号と京都村雲の地に賜り創建され、1961年に京都よりこの地に主要建物が移築された。 日蓮宗唯一の門跡寺院だそうです。

 

 

 

山門が見えてきました。

 

 

「本堂」

 

 

 

 

「八幡山城跡」

1585年に豊臣秀次によって作られました。272mの山の頂上に本丸を設け、二の丸、西ノ丸、木谷丸、出丸が配置されました。現在はその石崖が残ります。

 西ノ丸跡からは琵琶湖が望めます。

 

この後は、コーヒーブレイクとして、「クラブ・ハリエ」に入りますが、そのレポートは次編に譲ります。

 

 


1087 近江歴史散策 (4) 八幡宮周辺

2014-05-11 08:00:00 | 名所旧跡

 2014.04.24(木)、雲一つない好天にも恵まれ、”後期弥次喜多ご一行”は近江商人の生き様を感じようと近江八幡市に来て、今は「日牟禮八幡宮」も回りを散策しています。

 八幡さんの表参道正面にあるのが明治10年に建てられた下の建物で、「白雲館」といい、かつては学校でしたが、今は観光案内所に使われています。平成6年に当時の姿に復元されたもの。

 「白雲館」の二階から見た「八幡山(標高272m)」で短いですが、ロープウエーがあります。(後述参照)

 

「八幡さん」の表参道にある、甘いものや、お菓子を売ってます。落ち着いた建物につい立ち寄りたくなります。

 

木で作られた「亀さん」です。

 

 

下の太鼓は八幡祭りなどに松明と共に使われるモニュメントだそうです。

  

「八幡山ロープウエー」

標高272mの山上駅までを約4分でで行けます。15分間隔で発車し、料金は往復で¥820でした。

 

八幡山頂上周辺には、豊臣秀次が築いた八幡城の城址や、村雲瑞龍寺がありますが、それは別途に掲載します。 

 

「八幡公園」

 

「豊臣秀次公銅像」・・・八幡公園内

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名関白豊臣秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子となる。

28歳の若さで切腹を命じられ、一族が粛清されたが、秀吉がなぜそうしたかは諸説があるようです。

 

 訪ねた順序は少し違いますが、八幡さんの周りの一部をまとめました。  この後は、ロープウエーで上った八幡山の頂上周辺を散策します。

 

 


1086 近江歴史散策 (3) 瓦ミュージアム

2014-05-09 08:00:00 | 名所旧跡

 2014.04.24(木)、”後期弥次喜多ご一行”は近江八幡市内の水郷「八幡堀」を東方に歩き、遊覧船の船着場近くにある「瓦ミュージアム」のところで運河べりから岡にあがりました。 

 

 

  

そこにあるのが「瓦ミュージアム」です。

ここは地場産業の伝統的な屋根瓦、芸術性の高い鬼瓦、現代の陶芸作家が作った癒しの瓦人形などを展示し、瓦粘土を使って作品を作る体験もできるそうです。料金は¥1000から。(要予約)

 

 地面に埋められた瓦、小さい丸いものは、ガラス玉や”おはじき”です。

 

 

「瓦」を焼く窯。

 窯の内部。

 

 

 この後は、八幡さんの周りを見て歩きます。

 

 


1085 近江歴史散策 (2) 水郷巡り

2014-05-08 08:00:00 | 名所旧跡

 2014.04.24(木)、雲一つない晴天、暑くも寒くもない一番よい日に、近江の水郷めぐりをしましたので、そのあらましを紹介します。

 八幡さんの周りを約半周する「八幡堀」を、まずは、八幡さんの表参道に掛る橋「白雲橋」から東の方に歩いてみました。 

 八幡堀は天正13年(1585年)に豊臣秀次(秀吉の甥)が八幡山に城を築き開町したことに始まります。秀次は、八幡堀と琵琶湖とを繋ぎ、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけました

 八幡堀(全長4,750m)は交通路や生活の場として長らくその役目を果たしてきましたが、生活形態が変わりだした昭和30年代もなると、八幡堀は市民にとって忘れ去られた存在となり、汚れた水が増えて、やがて無用の長物から公害源となりだしました。

 

 市民と行政による協力や連携により今日の姿まで回復を遂げた八幡堀では、今現在も、八幡堀を守る会、地元自治会、観光物産協会、観光ボランティアガイド協会、等の各種団体が清掃活動を続けています。 (以上青字は観光協会の資料より)

 では、美しい景色の連続を・・・・

 

 「ヤマブキ」

 

 「瓦ミュージアム」がある辺りで散策道は行き止まりになってあいました。下の写真は、橋の上から南の方角を見ています。

 

 これよりは、八幡さん前の「白雲橋」から西方に運河縁を歩きます。

 

 この後は「瓦ミュージアム」を掲載します。

 

 

 


1067 彦根の桜と歴史探訪(5)地蔵尊と中堀

2014-04-23 08:00:00 | 名所旧跡

 2014.04.08(火)は絶好の”さくら日和”、友の案内で彦根城を巡っています。 これ以上は考えられない程の見事に咲いたさくらと友に、国宝、重文を鑑賞しています。

 

 「金亀山 地蔵尊」  (こんきさん・じぞうそん)

 堀の中にあった。 この地蔵尊の謂れなど調べたが、見つからない。

 

「中堀」

 

 

 

絶景ポイントとされている場所からの一枚。

 

 

 以上で城内は終了とし、これからは、市観光協会が言う「井伊家ゆかりの寺社めぐり」を中心に彦根市内の歴史遺産を巡ってみたいと思います。

 

 


1066 彦根の桜と歴史探訪(4)太鼓門櫓など

2014-04-22 08:00:00 | 名所旧跡

 彦根の桜と歴史を訪ねている「後期弥次喜多」は黒門(裏門)から、本丸に入り、天守閣を見たあと、正門たる大手門方向に歩きはじめた。 (2014.04.08(火)撮影)

 

 「太鼓門櫓」 重要文化財

本丸への最後の関門であり、登城の合図を知らせるための太鼓があったようであるが、一部に壁をなくして、合図の太鼓の音がよく聞こえるような構造になっているとか。

 

「時報鐘」

今も定時に鐘がつかれ「日本の音風景百選」に選ばれている。

 

「天秤櫓」   重要文化財

 

 

 橋を中心にして建てられ、天秤のような形をしているので、天秤櫓と呼ばれている。 この橋は”有事”には、敵が入らないようにするために、「落とし橋」になっている。 このような形式は日本の城郭ではここだけのものとか。

 

橋の下を正面方向(東)に行けば「表門」、手前方向(西)「大手門」に出る。

 

 

 

 大きな落差があり、守りが大変に強固であったことが伺われる。

 

 

 この後は、外堀方向に出て市内に入るが、それは後日に掲載したい。

 

 

 

 

 

 


1065 彦根の桜と歴史探訪(3)黒門から本丸へ

2014-04-20 08:00:00 | 名所旧跡

 2014.04.08(火)、友と二人、いよいよ「黒門」から「彦根城」の天守閣に向かいます。

 城の観光案内地図を見ると、ここは内堀から天守閣には最も近い門、大手門や表門からに比べれば、敵からの守りが手薄に感じられるほどに近いが・・・

 ここらは城壁が高く、通路も狭く、急な坂道が当時の戦法では、十分な守りになっていたものと思った。

 

 籠城に備えるために、ここに水が貯められていたとある。

 今はタンポポの楽園になっている。

 

 

 

天守閣の北側であるが、「西ノ丸」とよばれているあたり、今は広場になっている。

 

 

 「天守」   国宝

いくつもの屋根を組み合わせた美しい曲線でできている。牛蒡積と呼ばれる石垣の上に、三階三重の天守がそびえる。1607年に完成した。  

 

天守閣を上る。どこのお城もそうだが、階段が急だ!。 大勢の人たちと一緒だから、迷惑を少なくしようと、年寄にはこたえるが、元気を出して必至で上る。

 

 

 

 さすがにこの城は天守が広い!。

 

 彦根市のユルキャラの「ひこにやん」が来て、沢山の人が輪を作っていた。ここには、天気がよければ、」毎日10時30分から11時まで、おいでになるそうだ。 他の時間、雨天の時は彦根城博物館玄関にお出ましとか。

 

ウイキペディアによれば・・・

 江戸時代に同地にあった彦根藩の2代目藩主・井伊直孝に縁(ゆかり)ある1匹の白猫をモデルとしている。造形的には戦国武士をかぶり、おおよそ3等身で直立二足歩行をする、猫をデフォルメしたキャラクターである。なお、兜は井伊の赤備えとして有名な井伊家の伝来品をモデルとしている。その兜の様式(天衝脇立)は城主のものと同じである。

2007年(平成19年)に築城400年を迎えた彦根城の記念イベント国宝・彦根城築城400年祭」のイメージキャラクターとして登場し、全国規模で人気を博した。彦根城のマスコットとしての存続を願う多くの声を受け、イベント終了後も引き続き役割を担うこととなった。

 

 このあとは、「太鼓門櫓」などを見ながら、大手門方向に向かうが、それは次回紹介したい。


1063 彦根の桜と歴史探訪(1)彦根城内堀

2014-04-18 08:00:00 | 名所旧跡

 久しぶりに友から彦根城の桜と歴史探訪に行かないかとの誘いをうけました。 これを断る所以は全くなく、二つ返事で行く事になりました。 いつものことですが、友の計画は大変に緻密であり、経済的、効率的なのでありがたい上に、今回も車の運転までやってくれるので、こんないいことは他にはありません。

 2014.04.08(火)、天気も朝からきっちり晴れて、風も雲一つもなし!。 絶好の”さくら日和”、朝7時30分我が家に迎えに来てくれた車に乗せてもらい、国道306、421を通り彦根へと向かったのでありました。

 

 彦根には9時過ぎに到着し、まずは「彦根城・大手門」から・・・ 

 

 桜は”どんぴしゃり”状態の時期にきました。 さすがは彦根城、堀の水もたっぷりあり美しい内堀から息つく暇を惜しんでの撮影となりました。

 

丁度、屋形船が通り、絵に花を添えてくれました。(参考までに、乗船料金はさくら祭り期間中は¥1500(通常¥1200)とかなり高い、内堀内を運航)

 彦根観光協会によれば・・・

彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工されました。
当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城されました。
天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築。天守は2年足らずで完成しましたが、表御殿の造営、城郭改造など、城郭の完成は1622年とされています。 この間、井伊直孝は大坂冬の陣で兄直継に代わって出陣し、その功績によって家督を継ぎ、夏の陣では豊臣方の木村長門守重成と戦い大功をあげ、井伊直政(常に先鋒を務め、徳川四天王のひとり)に劣らぬ武将と賞賛されました。
直孝は、秀忠、家光、家綱の三代にわたって、将軍の執政となり、幕府政治確立にも貢献。これらの功により3回加増され、譜代大名としては例のない30万石となる。彦根35万石といわれるのは、このほかに幕府領5万石の預かりがあり、合わせて35万石となります。天守は18万石の頃の完成でした。

 

 

 

 

 下の橋は急な黒門山道を経て、天守閣に直行する「黒門橋」。 

そして「黒門」。

 

ここはいわば”裏門”、藩主が客をもてなす「鳳翔台(茶室)」に天守閣から直行できるようになっています。

 

このあと天守閣に向かうが、それは後述としたい。

 


1062 小学校の同年会(相差、二見)

2014-04-16 08:00:00 | 名所旧跡

 昭和25年春に四日市北部の小学校を卒業した95名ほどの中、22名は今年も伊勢市相差にある海岸べりのホテルに集結し、同年会を実施したのでありました。この会は「丑寅会」と言い、珍しく、以前から旅行など再々行っていますが、今回を含め3回続けてこの同じホテルに泊まったのです。

 まずは、ホテルの窓からの朝日です。 波は静かですが、海は太平洋です。

 

 

「みち潮」という昨夜泊まったホテルです。

 

「ムラサキハナナ」   「花写真館」はこちらから

 

 

ホテルを9時に出発し、途中海産物を売る店に立ち寄り、そのあと「二見が浦」近くにある「賓日館」を見て、浜辺にやってきました。夫婦岩までは歩いて10分くらいで行けます。

 

ここは夫婦岩の南側に位置します。

 

神社の前を歩くと、夫婦岩に行けます。

 

遠目ですが、夫婦岩です。

 

 

 このあと、少し北に走った所で昼食をとり、伊勢自動車道、東名阪を経て四日市へ帰ってきました。

 

 

 

 


1061 小学校の同年会(賓日館)

2014-04-15 08:00:00 | 名所旧跡

 「倭姫命(やまとひめのみこと)」がその美しさに二度も振り返って見たと言われるほど景色のきれいとの謂れる二見ヶ浦にある、明治に建てられた貴賓の宿「賓日館」にやってきた。

   入館料 ¥300  駐車場無料

 

「賓日館」のホームページによれば・・・

明治天皇の母であられる英照皇太后のご宿泊に間に合うようにと、明治19年12月に着工、翌年2月19日に竣工。これほどの短期間で格調高い建物が完成したのは驚異といえましょう。
明治末期から大正初期にかけてと昭和初期の2回の大増改築を重ね、現在の状態となったのです。

明治24年7月29日から3週間余り、ご幼少時の大正天皇(明宮嘉仁親王)が避暑や療養、水泳訓練などを兼ねて滞在されたのをはじめ、歴代諸皇族、各界要人が数多く宿泊されました。
そして明治44年2月には隣接する二見館(三重県初の政府登録国際観光ホテル)に払い下げられ、二見館の別館として平成11年まで貴人の宿泊所とされてきました。
二見館の休業後、平成15年に二見町に寄贈。 賓日館では、建物だけでなく庭園も含めて、当時一流の建築家による品格のある洗練されたデザイン、選び抜かれた材料やそれに応える職人たちの技など、日本の伝統建築の粋を目の当たりにすることができます。

建築学的見地からだけでなく、明治から大正、昭和、平成へと二見町の近代史を語り伝える国指定重要文化財です。

 

「大広間」  舞台付の120畳敷。

説明を受ける我らがご一行さんです。

 見事なシャンデリア。

 

歴代の皇族方がお泊りになったとの記録がありました。

 

 

 

 

 

 このあと二見の夫婦岩などを見ました。

 

 

 


1051 大和郡山城址 (奈良県)

2014-04-08 08:00:00 | 名所旧跡

ようやく温かくなり、急に思いついたように、桜が咲き始めた。今日は2014.03.31(月)風はあるが好天に恵まれ、「癌封じ」のお礼参りのついでに、奈良の桜を楽しんでいます。大安寺、氷室神社と来て、三番目は・・・ 

「大和郡山城址」  大和郡山市

 郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあった豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和紀伊和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。 

 

   天正13年(1585年)大納言豊臣秀長が姫路から郡山へ入部、多武峰の談山神社を城北に遷座、その堂宇と共に、多武峰にあった桜樹も城内に移したのがその始まりと伝えられています(御殿桜と呼ばれていました)。

 

 ここも沢山の花見客で賑わっていました。

 

 

 

 

 

 

 ”桜ざんまい”はまだまだ続きます。

 

 


1011 東海道 水口宿 (2) 水口 本丸 泉

2014-03-02 08:00:00 | 名所旧跡

 

 

 

 

 ① 大徳寺

ここと徳川家康との縁は深く、開山の住職が家康の家臣の伯父だった関係から、家康は上洛に際し水口に宿泊したと伝える。 山号の「家松山」の”家”は家康から授かったものらしい。 また、家紋は「葵」を入れた立葵であり、山門には「三つ葉葵」が刻まれている。

 

② からくり時計

下の写真、左の道が旧東海道です。

  

③ 水口中部コミュニティーセンター

下の写真、右上が「甲賀市水口地域市民センター」、その下が「甲賀市ひとまち街道交流館」などとの看板がありましたが、お役人がつけた名前は長くてよくわからない、何とでも解釈出来る名前という得意技が出ています。

 

 

 ここにも「山倉」があり、 「曳山」を見ることができます。 右下の材木はの木で、山を曳くことにより、心棒などがすり減るためにその補修用の材料だそうです。 用材はここで5年間自然乾燥させていると書いてあります。

 

④ 藤栄神社  (ふじさかえじんじゃ) 

ここは水口城内に位置し、水口藩主により、文政12年(1829)に創建されました。 当社には豊臣秀吉から拝領とされる刀剣や高麗鞍などの遺宝が伝えられているそうです。

 

 ⑤ 水口城址

水口は伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並みが築かれていましたが、天正13年(1585)には羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展しました。

寛永11年(1634)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせました。これが水口城なのだそうです。 その建物は京都二条城に共通し、数奇をこらしたものであるそうです。

 

⑥ 綾野天満宮

菅原道真の子、秀才敦茂卿が道真公の像を彫り祭るとある。

 

 ⑦ 五十鈴神社

 

 ⑧ 林口 一里塚

元はここよりも南方にあったが、水口城の整備にともない、ここに移されました。 もとはこんな貧相な物ではなかったでしょうが、今は五十鈴神社の片隅にこじんまりとしてました。

 

 

 ⑨ 北脇縄手と松並木

江戸時代に東海道の整備にともない曲がりくねっていた道を廃し、見通しのよい道としたものらしい。 当時は道の両側の松並木が美しかったそうです。 近隣の村々に掃除する割り当てもされていたようです。

 

 ⑩ 泉福寺

弘仁4年(813)最澄の開創によるもので、かつては数坊を擁したと伝えられる。 天正年間の兵火により、堂宇はことごとく焼失したが、地蔵菩薩坐像は採火をまぬがれ、1605年本堂再建に当たり、本尊として安置された。 像は鎌倉時代の作とされるが、現在国の重文に指定されている。

 

 ⑪ 日吉神社

 

 ⑫ 泉 一里塚

当時のものは現在地よりもやや南の野洲川よりにあったが、 これはそのモニュメントとして整備されたもの。

 

 ⑬ 横田渡常夜灯

鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、この辺りで「横田川」と呼ばれてました。 室町時代の史料にも「横田河橋」の名があるそうです。 江戸時代に入り東海道が整備され、ここは東海道十三渡しのひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府管轄下に置かれました。

そのため、他の「渡し」と同じく架橋は許されず、地元泉村に「渡し」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持にあたらせたといいます。 3月から9月までは、船渡しとし、冬場は土橋を架けていたようです。 支流とも合流する当地は水流も激しく、川には巨石もあって、道中の難所に数えられていたようです。

また、この巨大な石灯篭は、文政5年(1822)地元や京、大阪の人々の寄進によって建てられたそうです。 その高さは10.5mもあり、道中でも最大級のものとされています。

この先に、明治24年長大な板橋が架けられました。この石垣は当時の橋台の一部だそうです。 その後、昭和4年にはここより下流に橋が移され、同27年に現在の位置に移されたようです。

 

 以上、東海道「水口宿」は二編にて終了ですが、 土山宿を出てからの距離は約9.1Kmでありました。 土山宿が約16.2Kmだったので、 滋賀県に入ってからは25.3Km来たことになります。 

この後は「石部宿」になりますが、それは次回にお届けしたいと思います。

 

 


1010 東海道 水口宿 (1) 新城 元町

2014-03-01 08:00:00 | 名所旧跡

旧東海道筋の旧跡を訪ねていますが、 滋賀県に入り「土山宿」が先日終了しましたので、今日からは「水口宿(みなくちじゅく)」 になります。  訪問日 2013.10.03(木)

「水口宿」は東海道五十三次のうち、50番目の宿場で、旅籠の数41軒(1843年当時)を数える大きな宿場でした。 宿場の形態としては、三筋に分かれた道路が他では見られないものとなっており、今も宿場町らしい町並みが残っています。

18世紀には現在も続く水口神社の祭礼に、曳山が巡行されるほどに発展しました。 一方、水口は加藤家2万5千石の城下町でもあり、石橋より南は武家町となっており、武家の長屋門などが残っているそうです。

さて、安藤広重画伯(?)の浮世絵ですが、この絵は水口の名物「干瓢」を干してるところを描いたそうです。 干瓢はウリ科の植物「ユウガオ」(?)の実の果肉を細長く切って干したもの。 幕末最盛期の生産量は1400貫(5トン余り)でした、今でも少量の生産が行なわれている・・・と書いてありましたが・・・?。

 

 抵当な縮尺の地図がなく、 リサイズしてますので、文字などが見難いですが、お許しください。 例により、細いですが赤い線でぐねぐね曲がっているのが旧東海道です。 丸付き数字は訪ねた旧跡などのありかを示しています。

 

 

 ① 「これより土山宿」の碑

我々の進行方向とは逆向きになりますが、水口宿から見て「ここからが土山宿」というわけです。 写真の左が旧東海道で、右の道が国道一号線です。

 

 ② 「これより水口宿」の碑

上の反対方向になりますが、「これよりが水口宿」と表すモニュメントです。 上の地図でご確認ください。

 

③ 今在家 一里塚

写真の手前が旧東海道です。 昔はこんな貧弱なものではなく、高さ数メートルになる大きなもので、塚上には榎などが植えられて旅人の目印になるようになっていました。

 

④ 宝善寺

 

⑤ 岩神社

 このあたりは、野洲川もあり、巨岩、奇岩が多く出土し、江戸時代から景勝の地でありました。 この神社は社はなく、岩を祀ってあったとされています。 

 

 ⑥ 永福寺

 

 ⑦ 東見附跡

宿の東端に設けられたもので、枡形土居と柵で区画し、木戸や番所を置き旅人を監視しました。 これに対し西の端に「西見附」がおかれ、それぞれ「江戸口」「京口」と呼ばれました。

 

⑧ 高札場跡

幕府の法度、掟書きなどを記した板書きを、通行の多い場所に建てました。 この場所を「札の辻」と呼んでいました。 左の道が旧東海道です。

  

 ⑨ 古い町並み

 

 

 ⑩ 善福寺

 

 ⑪ からくり時計

9、12、15、18時が来ると、下の水口曳山祭のミニチュアが動き出すそうです。 下の写真右側の道が旧東海道で東方を見てます。

 

 ⑫ 大岡寺 (たいこうじ)

684年僧行基が開いた寺で、本尊は十一面千手観音菩薩です。 別名の「岡観音」でも親しまれています。 十六の坊舎を擁していましたが、度重なる兵火に会いました。 現在の建物は1715年に再建されたものだそうですが、メンテナンスが行き届かないのか、本堂も山門も老朽化が激しく、いつ崩れてもおかしくない状態に見えました。 また、鴨長明が得度した地でもあります。 写真右下は、松尾芭蕉の句碑で「命ふたつ中に 活たるさくらかな」とあります。この句は1685年春、当地で「土芳」に再会しての句とありました。

 亀山宿の西の端に、昔は松並木が美しかった「大岡寺畷(たいこうじなわて)」があったことを覚えて頂いてるでしょうか?。 そこで目にした唄に 「わしが思いは大岡寺 ほかにき(木=気)はない まつ(松=待つ)ばかり」とありましたが、ここがその「大岡寺」になるわけです。

水口宿は旧跡など見るものが町内中心部に集中しているために、 ここで一区切りとさせていただきました。 後編もよろしくお願いいたします。

 

 


1009 東海道 土山宿 (3)徳原 大野

2013-10-18 08:00:00 | 名所旧跡

 旧東海道の宿場町を訪ねる旅は、滋賀県甲賀市に入り、 今回は土山宿の第三篇をお届します。   (写真撮影日  2013.10.03(木))

 

地図の文字が小さくて恐縮ですが、赤い細い線が旧東海道です。 丸付き数字は訪ねた旧跡を示します。 なお、地図の右方向が鈴鹿峠、江戸方面で、左は大津、京都方面になります。

 

 ① 垂水斎王頓宮跡 (たるみとんぐうあと)

 平安時代の初期から鎌倉時代の中頃まで、約三百八十年間、三十一人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建立された所である。
 斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名代として、皇祖(こうそ)である天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神霊の御杖代(みつえしろ)をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行(ぐんぎょう)の形でご通行されることとなった。京都から伊勢の斎宮まで、当時は五泊六日もかかり、その間、近江の国では勢多(せた)・甲賀(かふか)・垂水の三ヶ所、伊勢の国では鈴鹿・一志の二ヶ所で、それぞれ一泊されて斎宮まで行かれたのである。その宿泊された仮の宮を頓宮といい、現在明確に検証されている頓宮跡地は、五ヶ所のうち、ただこの垂水頓宮だけである

右上の写真、右の道は国道一号線で、正面が鈴鹿峠方向であり、頓宮への道は左上に上がり、茶畑の間を30mほど行くとこんもりとした昼なお暗き森にぶつかる。

 

② 瀧樹神社  (たぎじんじゃ)

ここに祭る神は、水門神であり、田村川、松の尾川の落合に近く水害多きために勧請されたと伝えられる。正応二年(1289)本殿再建。 毎年5月3日に行われる、祭礼での、ケンケト踊りが国の無形民俗文化財に指定されている。

なお、ここは早春の花「ユキワリイチゲ」の群生地としても知られている。

 

③ 地安寺  (じあんじ)  黄檗宗

御水尾法皇の御影御位牌が安置されている。
御水尾法皇は慶長元年(1596年)後陽天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年、16才の若さで即位された。徳川幕府が成立していく中で、天皇になられたが、寛永6年(1629年)明正天皇に皇位を譲られ、34才で上皇になられた。
元禄11年(1698年)、善明院(法皇の第一皇女)の意向により、法皇の像、位牌を下附され、その安置所として宝永5年(1708年)地安寺境内に建立された。

林丘寺宮御植栽の茶 (右下の写真)

御水尾法皇(1596~1680)の御影位牌安置所建立の際に林丘寺光子が植えたという。この近辺は宮ゆかりの茶畑で収穫された茶は毎年京都御所と林丘寺宮に献納され、いまも続いているとか。

 

 ④ 諏訪神社 (すわじんじゃ)

天文十一年甲賀三郎兼家が関東より故郷に帰る途中信濃国諏訪大社に立寄り分霊を受け市杵島姫を祀っていた社に奉斎したと伝える。

 

 ⑤ 長泉寺 

 

 ⑥ 大野市場 一里塚跡

 

 ⑦ 松並木

 

 ⑧ 三好赤甫旧跡 (みよしせきほきゅうせき)

「三好赤甫」(1789~1873)とは幕末の当地の俳人「花園月波」と名乗った。 京都東福寺で研鑽を深めた。 郷里に帰って、後進を指導し俳諧の基礎を築いた。 碑銘「ほとときす 早苗に影を のこしゆく」

 

 ⑨ 若王寺

 

 以上にて東海道五十三次の第49番目の「土山宿場町」にお別れをして、次の「水口宿」に入ってゆきます。

 なお、鈴鹿峠を超えて、滋賀県に入ってから、本ブログ上での土山宿の終点とする、土山町大野の国道との交差点「大野西」までの旧東海道の経過距離を地図上で計算したところ、約16.2Kmでありました。 三重県内が50.8Kmでありましたから、 桑名宿の「七里の渡し」から約67Km来たことになります。

また、標高は鈴鹿峠が378mであり、そこから16kmあまり来た今回の終点が194mですから、その差は184mしかありません。 三重県側の坂下宿の河原谷橋のあたりが、峠から2.4Kmで標高が197mでしたから、 三重県側が如何に険しかったかがわかります。