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木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

977 東海道 石薬師宿 (1)石薬師

2013-08-03 08:00:00 | 名所旧跡

 旧東海道を下る、”後期野次喜多”は、三重県内の北の端「桑名宿」の「七里に渡し」を起点にして、 街道筋にある旧跡の数々を見る旅をしています。 「桑名宿」は3.8kmを通過し員弁川に架かる「町屋橋」で終点とし、ここから「四日市宿」になります。 「四日市宿」は、市の中心街を通過の19.2kmを経て、采女町の外れ、鈴鹿市との境を終点としました。

そして今回から、「石薬師宿」に入ります。 おなじみ歌川広重の絵を先ず載せたいと思います。  この絵は鈴鹿山脈にかかる夕暮れを書いたのではないかと推測しますが如何なものでしょう?。 また、手前の低い山は実際にはこの近辺には見当たらないがなあ?と・・・?。

 山川出版社の「三重県の歴史散歩」によると、石薬師宿は、四日市と亀山の宿間が長かったので、1616年に設けられた。 また、広重が描いた「石薬師」には、寺の裏手に「鷹飛山」が描かれているが、明治時代に切り崩されて旧東海道を埋め立てたため、現在ではこの姿を見る事は出来ないとの記述があった。・・・道理で!。

 

下の地図、赤い線が「旧東海道」であり、丸付き数字は尋ねた場所を示します。   

                                         写真撮影日 2013.07.20(土)

① 「地蔵堂」

 ② 「北町古墳」

六世紀頃の前方後円墳でもとは20m以上の物と思われる。 後円部は道路建設のため失われ、その他の部分も削り取られてしまったようだ。 現存長13m、後円部直径7m、高さ2.3mである。 後円部の石棺が開いており、花崗岩で作られている。 他の事はわからない。  (鈴鹿市の資料より)

 

③ 「法雲禅寺」 

 

④ 「大木神社」

 

⑤ 「佐々木信綱記念館」   入場無料、駐車場無料

信綱氏は明治5年に、歌人弘綱氏の長子として、この地この家に生まれた。 幼少期の恵まれた教導と、恵まれた資質と、加えて克苦勉励の努力により、明治大正昭和の歌壇学界の巨人と仰がれつつ92才の天寿を全うした。 (鈴鹿市の資料より)

ちなみに、私の高校の校歌も氏の作でありました。

記念館の内部は、当然の事ながら文書、書籍等が多数展示されていたが、撮影禁止であったので、写真はありません。

  信綱の生家

 

 ⑥ 「石薬師宿」を示す標識。

 

 「石薬師宿」はもう一遍ありますが、ここまで進めた東海道の距離は約1.8kmでした。


976 東海道 四日市宿 (10) 采女

2013-07-31 08:00:00 | 名所旧跡

旧東海道の街道筋にある旧跡を訪ねているが、今回は四日市宿の最後になる「采女(うねめ)」 です。 最初桑名宿3.8kmは歩いたが、四日市宿前半は11.5kmあったので、自転車に乗った。 四日市の中心から内部(終点)までは、マッチ箱電車が東海道に沿っていたので電車に乗って尋ね歩きました。  

しかし、ここから先は東海道に都合よく沿った公共の乗り物はないし、この辺りからは、鈴鹿峠に向って登り勾配であることから、自転車も私には無理、電動自転車も考えましたが、もし買ったとしても、万能ではないから、結局は車になってしまいました。   (撮影日 2013.07.20(土))

国道一号線が旧東海道沿いである事は、今更言うまでも無いことですが、この国道を走っていると気が付かないが、この「采女」の旧道は車でも慎重になる程の結構急な坂道(杖衝坂)があるのです。 

地図上では下の赤い線で示した所が旧東海道です。 内部川を渡る部分は今は無く、少し下流にある、国道一号線を渡る事に成ります。 丸付き数字は記事の番号と一致させています。  (取材日:2013.07.20(土))

 

 

上記地図で、①②③と示したあたりを「杖衝坂」と言います。

昔々、「ヤマトタケル」が東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体でこの坂に差しかかった際に、 「我が足は 三重の曲がりの如くして 甚だ疲れたり」・・・と言ったとの伝説がある。 これが「杖衝坂」と「三重」の由来といわれている。 なお、足が「三重」に折れたとの説は「三重村」今の四日市市県町付近との説もあり。

① その「杖衝坂」の登り口にあるのが、「金刀比羅宮」です。

 

② 「杖衝坂」を1/3程登った所にあるのが、 旧家を使った「まちかど博物館」があるが、今日は閉まっていました。

 

③ 「杖衝坂」

この坂を傷をかかえた日本武尊が剣を杖がわりにして登ったといわれています。 たしかにきつい坂です。 四日市の富田あたりで水揚げされた海産物を亀山方面まで売り歩いていたようですが、その際この急な坂を上がらねばならないので、坂の下に牛が待っていて、手押し車が5~6台集まるとそれをつないで、牛に引かせて登ったようです。

また別の資料によると、大正の終わり頃には、この坂を自動車が登りきれないというので、近隣の民家の牛の力を借りて登ったことがあるそうです。 その自動車は木炭車だったのかも?。

「永代常夜燈」は1811年建立だそうです。

芭蕉の句碑には「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」と書かれています。 江戸から伊賀に戻る際、 ここで落馬したと言われており、「笈の小文」に出ているそうです。 この碑は1756年の建立とあります。

「弘法の井戸」はコンクリートと鉄で出来て居り、昔の面影はありませんが、 この二つの井戸でここを通る多くの旅人が喉を潤した貴重な存在であった事が伺われます。 

 

 

4 「采女一里塚跡」

  江戸日本橋より、101番目、つまり101里。

ガソリンスタンドと何かの事業所の狭間に立つ一里塚跡。

 距離確認や里程の目標のために設けられた一里塚。 街道の両脇に一里ごとに土を盛り、榎や松などの木を植えるのが標準的スタイルでありました。 「一里」と言っても、その頃は藩によって尺の取り方が違っていました。 だいたい36町に統一されていたそうですが、街道筋に坂道や難所があると距離を長めにとっていたり、寺社の所領地などは距離に含めないなど独特の措置がとられていたそうです。 

登り坂にさしかかると、ここはかなり長めになってるなと感じた人もいたかも知れません。

 

 「豊富稲荷神社」

 豊富稲荷神社は万延2(1861)年に山城国伏見稲荷神社の祭神である宇迦之御魂神の分霊を勧請して創建されました。
 杖衝坂の上にあったので、もとは「杖突稲荷大明神」とも呼ばれていました。
 祭神としては、宇迦之御魂神のほかには、菅原道真と平景清が祀られています。
 この神社の側には昔、「土下座場」と称する石畳がありました。参勤交代で街道を通行する大名行列を、旅人たちがここで土下座をして迎えたそうです。国道1号線の拡幅工事によりなくなってしまいました。 (市の資料より)

 

⑥ 「延命地蔵尊」と「南無阿弥陀仏碑」

 

四日市宿が何処までなのかわ良く解らないが、ここ「采女」までが四日市市であり、ここの川を渡ると鈴鹿市の石薬師町、つまり「石薬師宿」と考えたので、「采女」は四日市宿に含めました。

前回の終了地点、内部駅前から、今回の上記「地蔵尊」までの旧東海道の道路距離は約2280mでしたから、四日市宿の始まり、「町屋橋」南詰めからは19.2kmとなります。 桑名宿が3.8kmだったので、合計は約23kmとなりました。 三重県内が45kmといいますから、約半分強を来たことになります。

 次回からは、「石薬師宿」シリーズになります。

                                           << 四日市宿 完 >>

 

 


967 東海道 四日市宿 (9) 泊 追分 内部

2013-07-28 08:00:00 | 名所旧跡

 三重県内の旧東海道の始まりは、「桑名宿(桑名市)」の「七里の渡し」であり、ここを起点にして、街道筋周辺の旧跡を辿っている。 桑名宿は、員弁川にかかる「町屋橋」までであり、橋を渡ると「四日市宿(四日市市)」となる、この四日市宿が何処までかははっきりしないので、ここでは現四日市市内を「四日市宿」として進めている。

今回の起点は近鉄内部線の泊駅のすぐ南にある「光明寺」の参道口のある旧東海道からであり下の地図右上ので示している。 なお丸付き数字は尋ねた旧跡の所在地を示し、記事の番号にしている。  なお、近鉄内部線は近い将来廃止になる可能性が高いので、ここでは名残を惜しむ意味もあって、旧跡並みの扱いとした。    取材日:2013.07.10(水)

 

① 「追分駅」

ここも無人化されているので、窓口は全て蓋をされている。

 

② 「追分の伊勢道との分岐点」  「日永の追分」

 下の写真左奥を行けば、鈴鹿、津、松阪を経て伊勢に通じる「伊勢街道」つまりは国道23線であり、右に行けば亀山、鈴鹿峠を経て大阪方面に行く東海道、国道一号線である。 その交点にあるのがこの「日永の追分」と呼ばれる県の史跡である。

中には、「道標(1849年)」や「神宮遥拝鳥居」、「常夜燈」が残されている。鳥居は最初は1773年に立てられ、その後は遷宮毎に神宮の古材を使って建て替えをおこなっている。 昔はこの鳥居をくぐって通行したそうだ。

 

この間に近鉄内部線には「小古曽駅」 があるのだが、省略させて戴いた。

 

③ 「大蓮寺」

       真宗高田派

 

④ 「観音禅寺」

      慈現山

 

⑤ 「小古曽(おごそ)神社」

 

⑥ 「願誓寺」

       米田山

 

⑦ 「内部駅」 近鉄内部線の終点

始発近鉄四日市駅から僅か5.7kmでの終点である。駅は近鉄四日市駅、赤堀駅、日永駅、南日永駅、泊駅、追分駅、小古曾駅とここ内部駅の計8駅である。

 

 「徒歩」、「自転車」での旧跡めぐりから、少し趣を変えて「電車」を主体とした今回の企画も、お世話になった近鉄内部線はここが終点、故にこれから先はブログ取材方法も変えなければならないので、第三弾は三編にして、一旦ここで締めることとした。

第一弾「桑名宿」では東海道を3.8km歩いた。 続く第二弾「四日市宿(前編)」は11.5km走った。そしてこの第三弾では、東海道を5.4km来た事になる。 この合計は20.7kmになり、県内の東海道が45kmと言うから半分近くになったと言える。

東海道五十三次の42が桑名、43が四日市、44は石薬師となっている。 どこで区切るのかわからないので、四日市宿は、現在の四日市市内とすると、四日市宿は、まだ「采女(うねめ)」地区が残っていることになる。また、采女には「杖衝坂」があるように、鈴鹿峠に向って上り勾配の道になるので、車を使わざるを得ないと思っている。                                     

この後も、行ける所まで行く、出来れば峠までと考えている。 (四日市宿(中編)はこれまで)

 

 


966 東海道 四日市宿 (8) 南日永

2013-07-25 08:00:00 | 名所旧跡

 東海道の昔を忍ぼうと、沿線の旧跡を訪ねている。その第三弾第二編は四日市市の中心部から、少し南に移動した辺りを巡っている。

第一弾は桑名宿を徒歩で3.8Kmを歩き、第二弾は四日市宿の11.5kmを自転車で走ったが、第三弾は丁度旧東海道と並行して近くを走る”マッチ箱電車”を活用させて戴いている。

東海道沿線旧跡探訪シリーズとしては、少し色合いが異なるが、何年後かには見ることも出来なくなるかも知れない”マッチ箱電車”を記録に残す事を兼ねるようにしたので、毛色が変わったのだ。

いつも同じ事ながら、下の地図の”赤い線”は旧東海道であり、丸付き数字は尋ねた場所を示し、下記する記事の番号になっている。

 

① 「南日永駅」

近鉄内部線、八王子線合わせて総延長は7km、駅の数は四日市駅を含めて計9駅あり、内四日市駅と内部駅には駅員がいるが、他の7駅は全て無人駅。

その多くはかつては人がいたので、駅舎はあるが、今は用が無く下の右の写真で見る如く、窓口などは全て張り紙などで蓋をされている。何とも哀れな姿と私の目に写った。

 

 

② 「両聖寺」

      浄土宗   林光山

 もとは、天台宗の林光山西教院というお寺でしたが、住職の専阿上人と比叡山で一緒に修行した浄土宗の良忠上人が、鎌倉へ下向する途中、この寺に17日間滞在したことが縁となって、浄土教に改宗したそうです。この寺の改宗開基を良忠として、2代を専阿としています。3代の道阿上人の時に、良忠・専阿両聖人の名にちなんで両聖寺と寺号を改めています。   (市の資料より)
 

 

③ 「日永神社」

  日永神社は、昔は南神明社と呼ばれていました。明治40(1907)年以降日永神社というようになりました。建仁年間(1201-1204)頃に創建されたといわれています。天正年間(1573-1592)に織田信長の伊勢侵攻の際、焼失しました。その後再建され、江戸時代には神戸藩主本多氏の崇敬厚く、神社はさかえました。明治40年11月岡山白髭社、日吉神社、追分神明社の3社を、明治41年1月に池鯉鮒、山神、天満、事比羅、土大神の5社を、明治44年9月に稲荷社を合祀しました。

 

④ 薬師堂

 ここには市指定文化財の「薬師如来坐像(彫刻)」が保管されているが、鎌倉時代中期の作と言われており、その後、1645、1713、1866年に補修されたとの記述があるそうだ。 本像は檜の寄木造りだそうだが見る事は出来なかった。

 

⑤ 「稲垣末吉翁碑」

明治時代に東京で鉄鋼業を営み財をなし、地元に戻り地域社会に貢献された。 現在、日永の追分で湧き出る水もこの方の尽力による戸の事だ。

 

 

⑥ 「実蓮寺」

     浄土宗鎮西派

もとは四日市南高校の南の登城山麓にありましたが、承久2(1220)年に現在地に移転したそうです。
 天正3(1575)年、滝川一益(1525-86)が北勢五郡の領主に任じられました。その時に一益は実蓮寺を菩提寺として、20石の寺領を与えました。一益の母の墓もあります。

 滝川一益は、織田信長の臣で、天正2(1574)年伊勢長島の一向一揆平定後、北勢五郡を与えられ、伊勢長島城主となりました。長篠合戦や武田勝頼滅亡に功あったが、信長死後、北条氏と戦い敗れ、長島に帰り、天正11(1583)年柴田勝家方として羽柴秀吉と戦い、さらに天正12(1584)年小牧長久手の戦いで敗れ、その後は出家して越前で不遇な晩年を送りました。

 

⑦ 「西唱寺」

     浄土真宗高田派   雲祥山

 もとは安立院という浄土宗のお寺でした。永禄2(1559)年、玄聖が開きました。
 江戸時代初期に、誓宅が住持の時に、專修寺第14世尭秀上人に帰依して浄土真宗となりました。寛文元(1661)年には西唱寺と改められました。
 その後、昭和20年6月18日の四日市空襲によって本堂や庫裏、太子堂などが焼失してしまいました

 

⑧ 「一里塚」

  

 ⑨ 「名残の松」

 僅かに残った一本の松、街道筋の”生き証人(松)”。 いつまでも通る人々を見守ってほしいものだ。

 

⑩ 「泊駅」

近鉄内部線四日市から4つ目の駅。当然無人駅。

 

 

⑪ 「光明寺」

 

 今回の第三弾から、写真の載せ方を変えている。 今までは原則として”500×332ピクセル”の同じサイズのものとしていたが、今回からは各写真は半分程度以下に小さくして、各記事毎に一枚にまとめている。 

こうした理由は、興味が無い記事、下手な写真などと思う人の気持ちを考え、早くスクロール出来るようにした事、及び、折角多くの写真を撮ったのだから、なるべく多く掲載して情報量を増やすべきと考えたのだ。

大事な写真、自己満足ながらマシと思える写真などは、従来通りか場合によっては、一回り大きいものにしても良いと考えているのだ。 写真をコピーするなど、大きいサイズがご入り用の場合は、別途メールなどにしたいと思っている。

 

                                                << 続く >>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


965 東海道 四日市宿 (7) 赤堀 日永

2013-07-22 08:00:00 | 名所旧跡

旧東海道筋にある旧跡を訪ねているが、その第一弾は「桑名宿」を徒歩で見て来た。そして第二弾は「四日市宿」の北の入口たる「町屋橋」から、中心部の「鵜の森神社」「浜田城址」までは距離があるので、自転車にて回った。 

 梅雨明けからは、強烈な太陽光が降り注ぎ始めたので、”後期野次喜多”にとっては自転車は危険だと躊躇していた所、地図を見るとこの辺りは、旧東海道と近鉄内部線は最も離れてる所でも300m程度であり、今度は電車で回るも一案との友の案に乗った。

経営が楽でない近鉄にとっては、廃止したいと考えているようであり、もし廃止となれば、記録を残すチャンスでもあるので、東海道に沿ってる「内部線」は全駅(7駅)を撮ることにした。 なお、存廃問題については、後述したいと思っている。

下の地図で、赤い線は旧東海道を示し、丸付き数字は尋ねた所であり、記事の番号である。 なお、尋ねる旧跡は三重県環境生活部が出している、「みえ歴史街道・東海道」に記載されたものとした。  取材日:2013.07.08(月)

  

 

① 近鉄四日市駅

左の写真は駅への入口であり、右の写真はそのプラットホームである。なお、同じ近鉄ながら、名古屋線、湯の山線への乗り継ぎのためには、別の場所になるために、改札を一旦出無ければならい。ここ四日市駅と終点の内部駅以外は全駅無人化されてるが、大きな不正乗車は出来ない構造になっている・・・とか。

 

② 「赤堀駅」

ここは最初の駅であるが、走行距離は約1km、僅か3分程の乗車である。運賃は全線7km乗ると¥220であるが、ここまでは¥170であった。 また、時刻表を見ると、内部線も八王子線も毎時2本の電車が出てるから、ここと次の日永駅、四日市駅は15分間隔での運行となっている。

駅舎の撮影をしていたら、丁度近所のおばちゃんが通りかかって、「この電車私も好きなんです」と言い、無くなる事には反対の意向であった。 小さくて可愛い電車として、愛着もあるのかも?。 金儲けがしたいばかりに、一時は電車のボデー全面にケバケバしく、地元企業の広告を塗装をした車両があったが、無くなってほっとしたのも束の間、今度は廃止論が本格化してきたもんだ!。

 

③ 地蔵さん

駅から少し戻った所にあった。しかし、見ると地蔵さんが家の軒下を借りてるように見えるが、実際は逆ではなかろうか?。

 

④ 「日永駅」

四日市駅から二つ目の駅である。ここはもうひとつの路線「八王子線」との分岐駅である。 

なお、八王子線はこの後「西日野駅」がひとつあるのみである。 昔はもう一つ先に「八王子駅」があったが、水害で大きく壊れた時に「西日野」で打ち切りとなってしまった。八王子の駅は無くなったが、線の名前は残したようだ。 よって、八王子線の駅は四日市、赤堀、日永、西日野の4駅となってしまったんだ。

 

⑤ 大宮明社

鎌倉時代は少し離れた所にあったが、永禄五年この地に還る。祭神は伊勢神宮と同じ。古来諸国より、病気平療祈願に訪れる人が多いと言う。

 

「道標」

 

 

⑥ 「大聖院」

 

 この寺も県の資料に載せられているが、写真はおろか入場さえも拒否された。

 

⑦ 「圓楽寺」

 

⑧ 「興正寺」

     浄土宗高田派

室町時代に高田専修寺の真慧の布教によって浄土真宗高田派に改宗しました。その後、堯慧上人の時代、天正3(1575)年に滝川一益が寺領を寄進し、諸役を免除するという文書を出しています。
 現在の山門は寛文9(1669)年に建立されたもので、市内に残る山門の中では最古のものだそうです。本堂は宝永5(1708)年に建立されました。   (市資料より)

 

 寺に咲いてた花

 

 

「マッチ箱電車」  近鉄内部・八王子線物語

この鉄道は大正元年(1912)に開通し、当時は蒸気機関車で走っていたようです。昭和初期にガソリンカーになり、昭和18年に電化されたようです。 レールの間隔が762mmで、今や我が国では、三岐鉄道と黒部峡谷くらいにしか存在しない、特殊軌間軌道であり、カーブが半径100mであるために、最高時速が20Km/hしか出せない、まさにマッチ箱電車なのだ。

以前は湯の山線も同じく狭軌であったが、伊勢湾台風の復旧工事にあわせて、名古屋線と同じ軌間となったし、寂れたとは言え温泉や御在所岳があるから、廃線の声は高くはないが、ここ内部線は、観光施設は皆無、早く走れない、総延長7kmと大変に短く、大きな工場も沿線には無いなどなど、廃止したくなる近鉄の気持ちも解らなくは無い。 資料によると毎年3億円弱の赤字で、際限のない補助金投入が要としている。

近鉄は鉄道を撤去して、「バス高速運送(Bus Rapid Transit)」としたいとして、初期費用の公的補助を求めると共に、地区住民の理解を得ようとしており、近鉄が決めたその方向性決定の期限は今夏としている。

 

私自身は今回この”取材”のために載ったのを含めても、この路線には2~3回しか乗ったことも無いし、乗る用は今後も思い浮かばない。 私は湯の山線沿線の住民であり、この電車に乗るのは年に1~2度しかないが、やはり無くなるのは困ると思う。電車が専用バスになり利便性があがるのなら、止むを得ないと思うが、利益最優先の企業論理が見え隠れするが、さてどうなることだろうか・・・・?。

            

                                          << 続く >>

 

 


961 東海道 四日市宿 (6) 諏訪 浜田

2013-07-14 08:00:00 | 名所旧跡

2013.06. 23(日)、”第二弾・後期野次喜多・東海道旧跡を巡るツアー”は四日市宿の半分位を通過し、第六編は四日市市の繁華街周辺を紹介します。

 下の地図の赤い線が旧東海道であり、この道を忠実に自転車にて見て回りました。 なお、見難いが青い丸付き数字は尋ねた場所であり、下の記事の番号になっています。  国道一号線を過るあたりは、旧東海道が消えてなくなっている事を示しています。

 

  

① 「諏訪神社」

昭和11(1936)年2月9日、この諏訪神社で若い軍人が結婚式を挙げました。
 軍人の名前は坂井直。27歳の陸軍歩兵中尉。花嫁は陸軍航空兵中佐平田辰男(明野陸軍飛行学校材料廠長)の長女孝子、20歳。結婚式終すぐに坂井中尉夫妻は上京し東京の麻布に新居を構えました。普通ならこれから幸せな新婚生活が始まるのでしょうが、坂井夫妻の場合は異なっていました。
 坂井中尉は明治43(1910)年8月13日、三重郡桜村(現四日市市桜地区)で陸軍少将坂井兵吉の次男として生まれ、幼少の頃より厳しく育てられ忠君愛国の精神を叩き込まれました。昭和7(1932)年陸軍士官学校を卒業し、陸軍歩兵少尉として東京麻布の歩兵第三連隊に所属します。同連隊所属の安藤輝三大尉の指導を受け彼の国家改造思想に傾倒し、青年将校運動に参加するようになりました。
 2月26日夜、坂井中尉は、二・二六事件で安藤大尉ら青年将校と共に決起し、斎藤実内大臣襲撃を決行しました。7月12日他の同志とともに死刑に処せられました。
 坂井中尉は事件前の2月22日から週番勤務につき連隊に駐在していました。坂井中尉が最後に妻に会ったのは27日早朝。何も知らなかった妻に事件を報道した新聞号外を見せ、再会を約して去って行きました。夫婦として実際に顔をつきあわせていたのはわずか15日間でした。

私の近くにもこんな立派な人がいたとは、誇りに思います。しかし、軍人の厳しさ、残酷さを改めて知る思いです。

この「諏訪神社」の裏は諏訪公園となっており、古い洋館の建物などもあるが、それらは以前紹介しているので、そちらを参照してください。

      http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20091229

 

② 「ライオン通り」

近鉄電車がこの少し手前で急カーブをして、国鉄四日市駅の側を通過してた時代は、この辺りは「四日市連鎖街」と読んでたはずですが?。

ここも旧東海道です。

この後、アーケードを出て、近鉄とJRを結ぶ四日市のメインストリート(中央通り)を横切り、浜田へと向います。 

 

③ 「二羽文雄生誕地」

今は寺ではなく、幼稚園になっていて、この右側に建物がありました。

梵鐘もご覧の通りで、洗濯物干場と併用してます。

 

④ 「鵜の森神社」

ここは東海道からの参道です。 上を走るのは、近鉄名古屋線で左は津、伊勢方面になります。

 

⑤ 「浜田城址」

 

この前のブログの終点「菰野道の起点」から、今回の終点「浜田城跡」までの距離は、約1.1Km、第二弾の起点「町屋橋」南詰めからは、約11.5Km、旧東海道三重県の起点となる桑名宿「七里の渡し」からは、約15.3kmであり、また、三重県内の旧東海道は全長45Kmあると言うから、その約1/3を来たことになります。

なお、今日の自転車走行、つまり、第二弾の全走行距離は、上記の往復となるために、合わせて約23Kmを走ったが何十年振りかの自転車長距離走行のため、疲労は著しく、家に帰ってからでよかったが、足の筋肉がケイレンを起こすなど、激痛を味わった。 

この後、東海道野次喜多道中記を続けたいが、少し足を休める事と、電動サイクルの活用など、今後の対策を練るために、四日市宿は途中ながら、一旦筆(マウス)を置くこととします。

                                        << 第二弾 完 >>  


960 東海道 四日市宿 (5) 三ツ谷 北町

2013-07-10 08:00:00 | 名所旧跡

旧東海道筋の旧跡を訪ねて、桑名宿の「七里の渡し」(東海道三重県内の起点)から、初めは徒歩、桑名を出て、四日市に入ってからは、自転車に変えて巡っています。

四日市に入っての第5編は、四日市市三ツ谷から北町までを紹介したいと思います。 下の地図で、 赤線は旧東海道であり、丸付き数字は尋ねて写真を撮った場所を示し、下記の記事の番号にしています。 

 

 

① 「多度神社」

 明治18(1885)年2月、桑名郡多度大神を勧請し、東阿倉川村一里塚跡に作られました。東阿倉川の一里塚は、海蔵川の堤防の敷地にあったそうですが、現存しません。明治40(1907)年、海蔵神社に合祀されましたが、その後、三ツ谷町の発展に伴って、昭和10(1935)年、分祀して再び多度神社が建立されました。

 

② 「海蔵川左岸」

 海蔵川沿いの小公園には、昔、加納藩の郷倉がありました。この郷倉の北西隣には加納藩の陣屋があったそうです。
 加納藩は、三重郡内では東阿倉川・西阿倉川・芝田・貝家・北小松各村を支配していました。藩祖は川吉宗の側用取次だった加納遠江守久通です。享保元(1716)年、吉宗が征夷大将軍になると、紀州藩士だった加納久通は、三重郡内に千石の所領を得て、その後どんどんと加増されて享保11(1726)年には一万石の大名になりました。最終的には一万三千石です。

この道が旧東海道ですが、堤防にぶち当たりますが、昔はここに橋があったのです。なお、現在はこの右(北側)に国道一号線があり橋は「海蔵橋」と言います。

 

 「海蔵川右岸(南詰め)」

この正面に橋があったようです。左の端は国道一号線。

 

③ 「三滝川」

「海蔵川」から700m位の所に「三滝川」があります。正面の先はは海ですが、今は埋め立てられて、かつては悪名高き公害の元「四日市コンビナート」です。

下の有名な絵は、上の写真のやや手前から書いたのでないかと言われているようです。

昔はこの橋から1200m位が海岸線だったので、船の穂先が見えていますが、その代わりに今はコンビナートの煙突が立っている・・・とは友の言葉でした。

④ 「なが餅」

四日市名物の「なが餅」ですが、先に紹介した「安永餅」とどこが違うのか、どっちが美味しいのかは永遠の謎かも?。

 

今はこの店の物がよく売れているようです。

⑤ 「建福寺」

     宗洞宗

 応永年間、諸国行脚中の竺堂了源が三滝川畔のこの地に草庵を構えたのが始まりだそうです。その後、浜田城主赤堀氏の菩提所となり、その庇護により発展しました。赤堀氏滅亡後も3万坪の敷地を有する大寺院として栄えました。
 竺堂在世当時より建福寺には禅僧が多く修行に来ており、境内には修行僧のために学寮が設けられていました。第二次世界大戦前までは雲水の修行道場として有名だったそうです。
 安政の大地震で本堂・庫裏が倒壊し、明治10(1877)年再建されましたが、その後明治38(1905)年火災に遭い、昭和20(1945)年の四日市空襲で建物や什物、古文書などを失いました。境内には泗水の井戸が残されています。この井戸は四日市の雅号を「泗水の里」と呼んでおりますがその由来となりました。その他、芭蕉句碑安政元年震災惨死者之碑、仏涅槃図(室町末期)があります。

その井戸は非公開なので、見ることはできなかった。

 

⑥ 「本陣跡」 四日市宿陣屋(四日市代官所)

四日市町は江戸時代1724~1801年を除き天領(幕府領)であった。江戸時代を通じ幕府の支配拠点としてこの地を移動することはなかった。建物の詳細は不明であるが、明治9年の伊勢暴動の際全てを焼失した。

 

⑦ 道標

 このあたりは、戦国時代には、南市場と称して市場町として栄え、江戸時代に入ると東海道の宿場町として栄え、寛文3(1663)年に南町と改称したところです。
 この道標には、文化7(1810)年の年号が刻まれていますが、これは戦後再建されたものだそうです。

写真の左右が旧東海道であり、今の国道一号線は写真右奥に見える道であり、右の道は一号線を縦断して「菰野道」に続きます。 道標は菰野道の起点を示すものとして、古くからあったものを、造り変えたようです。

 

今回紹介した場所がかつては四日市の中心であったようですが、「後期野次喜多」はこれから今の四日市の中心地(諏訪~浜田、鵜の森)に向います。 その記録は次回にします。

 今回の記録は羽津の「光明寺」から「菰野道」起点まででですが、その凡その距離は2.3Km、第二弾のスタート地点「町屋橋」南詰めからは、約10.4Km、よって、三重県の旧東海道の起点桑名宿の「七里の渡し」からは、約14.2Kmとなります。

 

                                            << 続く>>

 


959 東海道 四日市宿 (4) 茂福 羽津

2013-07-06 08:00:00 | 名所旧跡

 旧東海道筋の旧跡を訪ねた記録を掲載しているが、その第一弾は「桑名宿」であったが、第二弾は「四日市宿」と称して、四日市市の北の端「朝日町」の「町屋橋」南詰めをスタート地点として、今度は自転車で巡っている。その4は、茂福地区から羽津町内を紹介を紹介します。

 下の地図で、赤線は旧東海道を示し、丸付き数字は下記する記事の番号を尋ねた順に示しています。

 

① 「常照寺」 

      浄土真宗本願寺派

 

 

② 「力石」

明治の中ごろ、寺を再建するに当たり、各所から石の奉納があり、近郷から多くの人が集まった。 その時休憩寺にこの石を持ち上げて競い合ったと伝えられる。 その後、地区の若衆がこの石で力比べをし、大正の終りまで続いたという。 重さは120Kgほどで、担ぎ揚げた人は幾人もいなかったようだ。 左下の小さいのは19Kgほどで、子供用だろうか?。

「新設用水道碑」についてはよくわからない。

 

③ 「證圓寺」

     浄土真宗本願寺派 林光山

 

 

④ 「茂福神社」

1421年には存在したらしい神社である。

 

⑤ 「常夜燈」

伊勢参宮の旅人のために、明治35年建立された。

今から64年前、私は12才になっていたが、恥ずかしながら自転車に乗れなかった。 田舎では乗らなくても不自然では無かったが、この地に来て見ると多くの子供達が乗っているのを見て、乗れないのは恥ずかしく感じ一念発起して練習をしたのが、この場所であった。 この頃ここらは両側に太い松並木とこの常夜灯しかなく、辺り一面田んぼであり淋しい所であったが、今思えば懐かしい場所である。

 

⑥ なつかしき「羽津町八田(やあた)」

私の子供の頃は、三重県北部を主に山間部を転々と住所を変えていた。短い時は3ヶ月しかいなかった場所もあるが、当地(羽津)では小学5年の2学期から、中学卒業まで住んでいたので、最も長く住んだことになり、友達も多く、私のふるさととも言える地なのだ。

下の写真は同級生が住んでいた家で、昔の姿で建っていたので撮らせてもらったが、この辺りで”カン蹴り”や”カクレンボ”をして遊んだ事を思い出す。 夕方近くになると、拍子木や笛が鳴って”紙芝居”のやってくるのが楽しみであった。 出し物の一番人気は「片目の虎」であったが、飴玉や塩昆布を貰うのがとても嬉しかった。

夏場は”チリンチリン”と鉦をならして「アイスキャンデー」売りが自転車でやって来たし、「トコロテン」売りも来た、小麦やトウモロコシを圧力容器で加熱、耳を塞いでこわごわ見てると、「パッカーン」と音がして、古新聞紙を丸めた入れ物で売ってくれたものだ。

下の写真は、その当時の臭いや音が私には聞こえる家である。

この道は、おばあさんが編んでくれた、「わら草履」や、雨の日は「アメゴムの靴」を履いて小学校に通った道であるが、当時を思い起こすものは見当たらなかった。 アスファルトを掘り起こせば私の足跡が残っているかも知れない。

 

⑦ 「残った松」   「かわらずの松」

この松は、樹齢二百年と推定され、江戸時代からここにあり、多くの旅人が見て来た木である。 私がここを通る頃は、この辺りに10本近くはあったと思われるが、今残っているのは、これと日永地区の2本のみだと言う。 是非長く生きて欲しいものである。

 

⑧ 「志氏神社」 (しでじんじゃ)

羽津大宮町にある神社です。もともと4世紀末に築造されたといわれている前方後円墳があったが、現在は前方部がなくなっており、後円部(高さ6m、直径30m)が残っているだけです。神殿のうしろにあるのがそれです。
 神社には古墳の出土品や志野焼の狛犬一対が保管されています。

この神社のすぐ左奥に私の通った小学校がある。ここから東方(手前方向)に延びる参道に沿って小さな川があり、今も水は流れている。 ある日の下校時この川で黒い大金の入った”がまぐち”を拾った事が私のカメラ歴の最初を飾ると以前のブログに書いたので紹介したい。

  (1) http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080327 

  (2) http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080329

  (3) http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080330

 

⑨ 「光明寺」

    浄土真宗本願寺派

 ここに幕末、村民のために桑名藩と闘った羽津村組頭森多三郎が葬られています。
 文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命令しました。これを阻止しようと、羽津村組頭であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗した結果、藩は年貢の増徴を断念することになりました。
 その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされました。多三郎は帰途につきこの光明寺までたどり着いたところで死亡しました。

この寺の住職は、秀才の小学同級生である。

 

この辺りで、第二弾第四編はお終いとしたい。この後は三ツ谷から北町周辺を紹介する予定。

 第三編の終点「薬師寺」から、当編の終点「光明寺」までの旧東海道の距離は2.1Km、故に、今回(第二弾)のスタート地点の「町屋橋」南詰めからは8.1Km、三重県内の東海道の起点桑名宿「七里の渡し」からは11.9Kmになる。

                                 << 続く >>

 


958 東海道 四日市宿 (3)富田

2013-07-03 08:00:00 | 名所旧跡

 自転車で旧東海道筋の旧跡を尋ねる第二弾の第三編はJR関西本線富田駅周辺と近鉄富田駅周辺に挟まれた地域、「富田」の辺りを紹介する。

 下の地図赤い線は旧東海道であり、丸付き数字は尋ねた場所を示し、この後に示す各記事の番号になっている。

 

① 一里塚と道標

 史跡「富田の一里塚跡」の案内板によると・・・(要約)

昔、街道の両側にー里(約4Km)毎に土を盛り上げ、「えのき」などを植えて目印にしたもが、一里塚である。すでに戦国末期に存在していたが、江戸時代の初め頃から、日本橋を中心に設けられていた。

明治以降は殆ど取り除かれてしまい、その面影を見る事が出来なくなった。写真のものは日永の一里塚と共に県の史跡に指定されている。

 

② 「八幡神社」

1279年創建されたと言うから、かなり歴史のある神社。当時は東西が16間、南北8間、面積145坪あったと伝えられている。

「八幡神社の力石」  写真左下の石

鎌倉時代に始まり、豊作の願いと村一番の力持ちの競い合いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力、そこに集まる人々の笑いを意味していて「生きる喜びの証」であったのかも知れない。重量は100Kgくらいあるそうだ。

 

③ 「明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)跡」

 明治元年9月20日、車駕(しゃが)にて京都を出発し東京に向われる途中、25日富田にて御少憩になり、「焼き蛤」をご賞味になられ、10月13日東京に入られた。また、その帰りにも御少憩になられた・・・とある。その後も二回ここを訪れられているらしいが、やはり「焼き蛤」の美味さは格別だかと納得!。

 

④ 「善教寺」

1460年代には存在していたので、創建はさらに先になる。本堂は昭和10年に再建されている。

下の倉には、国の重要文化財の「木造阿弥陀如来立像」と「同像内納入文書」が収められている。その像は高さ79cmの桧寄木作りで玉眼、漆箔が施されいる。制作は1241年頃と推定されている。文書は般若経などで、1238年から1872年に納入されたようである。

 

⑤ 「常夜燈」

表には「常夜燈」と、裏には「天保十巳亥年(1839)」と書かれている。

「この常夜灯の小さな灯りが、明るく感じとられて、淋しい夜の街道の旅人をどんなに勇気づけたことか、雨の夜、風の夜、絶え間なくっこの明かりを守りした人々の心意気を感じて、この灯籠を見つめてほしい(原文のまま)」

・・・・・足元さえも照らさない小さな灯りが旅人には明るい心の灯火になっていたようで、心に深く入り込む文章である。

 

⑥ 「薬師寺」  尼寺

大同年間(806~810)の頃、疫病が流行し人々は苦しんだ。この事を旅の途中の弘法大師が知り、足を止めて薬師如来を彫り祀ると、たちまち難病は平癒した。それに感謝するために堂を建て薬師如来を祀った・・・とか。

 

「東海道四日市宿」の前回終了地点「三光寺」から、この「薬師寺」までの距離は1.6Kmであったから、町屋橋南詰めのスタート地点からの自転車が走った距離は合計6.0Kmとなった。 また、三重県への東海道の入口の七里の渡しからは、累計は約9.8Kmとなる。

 

                                  << 続く >>


957 東海道 四日市宿 (2)松寺 西富田

2013-06-30 08:00:00 | 名所旧跡

チャリンコによる野次喜多東海道 旧跡めぐり 第二弾第二編を紹介します。先回のブログでは員弁川南詰めからスタートし朝日町内を見て歩いた所を紹介したが、今回はその続きで、四日市市に入り、松寺、蒔田、西富田地域をめぐる事になります。

下の地図で赤線は旧東海道を示し、この道を忠実に自転車を漕いだ。その途上での丸付き数字の付いた所が、下記の記事としてあります。

 

 ① 常夜灯

この常夜灯は弘化3年(1846年)に作られたもので、昭和6年に街道西側の道路沿いに移された。「多賀神社常夜燈」「五穀成就」と刻まれている。 (正しくはここはまだ朝日町、川を越えれば四日市市) 写真常夜燈の側の道が旧東海道。

 

② 「御厨新明社(みくりしんめいしゃ)」

 

③ 「宝性寺」   本堂:市指定文化財

      宗派単立  龍王山

本尊に十一面観音菩薩像を安置している本堂が指定文化財になっています。
 本堂は重層(外観が2階建て)で、主屋の規模は三間四方の周囲に縁が付けられ、正面に向拝(こうはい)があり、ここの柱や頭貫(かしらぬき)に獅子や獏の彫り物が据えられています。主屋の中は、手前が六畳敷の外陣でその奥に内陣があります。内陣は、中央が板間で奥に須弥壇があり、厨子に十一面観音菩薩像が安置されています。板間と須弥壇(しゅみだん)の両脇は、それぞれ四畳敷きになっています。須弥壇奥にさらに板間があり、両脇に脇仏壇が設けられています。内外陣の境の欄干に雲龍の彫り物が施されています。派手な彫刻が施されるのは時代の好みを反映したもので、建物を重層とするなど比較的均整のとれた建築として、大工や彫物師の技量のよさを感じさせます。享保4年(1719)の棟札が残りますが、現在の本堂は、鬼瓦の銘から文化11年(1814)の建立と推定されます。

 

④ 「長明寺」

     浄土真宗本願寺派 朝明山

蒔田城の築城年代など詳細は分かっていないが、文治年間(1185~1190)の伊勢平氏残党の反乱のとき、 蒔田相模守宗勝が居住していた。
城址は、現在では朝明山長明寺という浄土真宗本願寺派のお寺になっている。当寺は、現三重郡川越町にあったものを、慶安4年(1651)に領主松平隠岐守より当地を賜り、翌年に移したものである。

 

⑤ 「鏡ヶ池跡」  別名「笠取りの池」

聖武天皇の行幸にかかわる伝説が蒔田町に伝わっております。
 聖武天皇が朝明頓宮に入る途中に池がありました。北風が吹きすさび、突風で天皇の笠が池に吹き落とされました。そのとき、村の少女が進み出て笠を拾い上げ天皇に渡しました。馬上豊かな天皇の姿と、天皇を伏し拝む少女の姿が共に池に映って絵に描いたような美しい光景だったそうです。
 聖武天皇がこの地を去るとき、少女が出て見送りました。
 文明年間に東海道のコースが代わり、この池の真ん中を通るようになり、池は分断されました。明治末期まで東海道の両脇にしばらくは池が残っていたそうです。現在では昭和8(1933)年建立の碑だけになってしまいました。

 

⑥ 「田村寺」

     真言宗醍醐派 弘法山

明治中期の修行僧、大滋偏照二世の大導師が弘法大師を奉祀して、信徒と共に厄除大師の恩恵に浴して、大師堂を建立した。その後真養大和尚により寺格を整え、真言宗醍醐派に属することになった。地区に残る伝承の一つとして、聖武天皇が朝明行宮を営まれたおり、村長(むらおさ)の手厚いもてなしを喜ばれ、長の由緒ある「田村」姓を賜ったといわれ、この地区に多い「田村」姓の起こりといわれている。また、別の伝承では、坂上田村麻呂が東征の折にこの地で休憩したことから「田村」という寺号になったとされている

 

⑦ 「三光寺」

     浄土真宗 本願寺派  木下山

 

 

平安時代の末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑。

 

前回のブログの終端は朝日町の「西光寺」であったので、そこからここ「西光寺」までは約2.4Kmとなり、今回のスタート地点の町屋橋南詰めからは4.4Kmとなrった。この後は富田、茂福、羽津へと向うが、それは次回にしたい。

                                           << 続く >>

 

 


956 東海道 四日市宿 (1)朝日町

2013-06-26 08:00:00 | 名所旧跡

 先回、「東海道 桑名宿 旧跡探訪シリーズ」として、東海道の三重県の入口となる、(1)七里の渡(2013.05.29掲載)を皮切りに、(7)安永、町屋橋跡(2013.06.22掲載)までの約3.8Kmを尋ね歩き、幾つかの街道沿いにある旧跡を紹介してきた。

今回はその続きであり、第二弾としは「東海道 四日市宿 旧跡探訪シリーズ」を、2013.06.23(日)に決行した。なお、元に成る資料は三重県環境生活部が出している、「みえ歴史街道ウオーキングマップ・東海道」であり、具体的計画並びに実行先導は例により友が行ってくれた。

 

「四日市宿」と言えば、何と言っても「安藤広重」のこの絵であろう!。この絵が書かれた”らしき”場所については、その場所を通過する際に紹介する予定。

 

また、前回は歩いたが、”後期野次喜多”のこと、足腰のへたりはどうにもならず、今度は自転車を使う事にし、また前回は桑名市の最南端「安永」でピリオドとしたが、そこは「員弁川」の北詰めの堤防までであったから、今回はその川の南詰めがスタート地点となる。

下の地図で、赤線は旧東海道で、丸付き数字はこれから紹介する記事の番号であり、今回尋ねた所。  なお、この街道筋には我々が尋ねた以外にも多くの旧跡があるが、街道から離れた所は、足腰の強く無い私の都合で省略させてもらった。

 

① 員弁川(町屋川)にかかる「町屋橋」南詰 今回のスタート地点(上の地図 

旧東海道の橋(町屋橋)は下の写真中央のひと際高い木(楠の大木)の辺りに架かっていたが、国道一号線(写真右)の完成により廃止され名前だけは「町屋橋」として残った。

初めての自転車ツアーであり、ほんの一瞬ではあったが、小さな感動と緊張が過るのを感じつつスタートしたのであった。

 

② 「金光寺」

      真言宗  雨宝山

1673年に別の場所に小堂が建てられ、本尊十一面観世音を祀ったが、1789~1800年に現在地に移った。1870年からは無柱となっている。  

 

③ 「真光寺」

     浄土真宗本願寺派

 

「梅鉢紋(家紋)の大手水鉢」

1660年に17代桑名藩主「松平定重」から拝領したものであるとか。

 

④ 「安達微笑仏館」  (まちかど博物館)

下は道路沿いに展示されていたもの。

 

⑤ 「朝日町資料館」

朝日町資料館は大正5年(1916)に朝日村役場として建てられました。木造2階建の寄棟造瓦葺きで、1階には事務関係の諸室が配置され、2階には議場が設けられていました。内部の改造も少なく、地方建築の特徴を良く留めている建造物として平成12年に国の登録有形文化財となりました。現在は農耕・養蚕関係の資料など民俗資料を展示しています。

 ここは毎週水、土曜日のみ開館、よって見る事は出来なかった。

 

 

 

⑥ 「橘守部誕生地の碑」

 橘 守部(たちばな もりべ)は江戸時代後期の国学者伊勢国朝明郡小向村(現朝日町)の庄屋の家に生まれた。通称は飯田元輔・源助。父の飯田元親は国学者谷川士清の門人であったが、守部自身はほとんど独学で国学を研究し、本居宣長を痛烈に批判し、『古事記』よりも『日本書紀』を重んじた。神話の伝説的な部分と史実の部分の区分の必要性を説いた。晩年は江戸に住んで肥前国平戸藩松浦氏の知遇を得た。また晩年、死後安心論にも関心を寄せた。守部独自の国学の説は、武蔵国北部から上野国にかけての機業家などに門人を広げた。

 

⑦ 「小向神社」参道口の道標など

「小向神社」とは、地元出身の国学の大家、橘守部を合祀した神社。
毎年8月13日には、火をつけたたいまつでたたきあう八王子祭りが行われる。場所はここより少し北西部になるが、体力温存のため、見学を省略し先を急いだ。

 

⑧ 「浄泉坊」

    浄土真宗本願寺派

創建は1199年で禅宗の「正治寺」であった。天正の頃兵火により焼失。1603年再興され浄泉坊と改称、1638年に西本願寺から木仏や寺号の公称を受けた、桑名藩由縁の寺で、藩主の奥方の菩提寺となっており、徳川の家紋「三つ葉葵」が見られる。参勤交代でここを通る大名達は乗り物から一礼したと言われている。・・・と書かれている(要約)

 

⑨ 「西光寺」

      浄土真宗大谷派 

安永6年(1777)の銘のある梵鐘がある・・・とか。

 

自転車に乗り慣れない私には、ほんの少しだが何処まで行けるか、後がどうなるか不安(足のケイレンなど) が無い訳ではないが、スタート地点から「西光寺」までの約2.0Kmを走る事が出来た。ここから少しの間は何も無い区間なので、ここまでを第一遍とした。 なお、東海道の三重県の入口「七里の渡し」からの累計は5.8Kmとなる。

                                     << 続く >>

 

 


948 東海道 桑名宿 ⑦ 安永 町屋橋跡

2013-06-22 08:00:00 | 名所旧跡

東海道桑名宿の旧跡めぐりも最終編を向えた。今日のブログは桑名市の南東部矢田立場という所から、市の南端までを記載する。  2013.05.26(日)実行

 

今の道は直線的に作られる事が多いが、地図上で旧東海道を見ると結構曲がりくねっている。敢えてそうしたとする地域もあるようだが、ここはどうなのだろう?。  道はここから一旦西方に向う。

 

 「矢田立場」

「立場」とは、江戸時代の五街道等で、次の宿場が遠い場合、その途中に休憩施設として設けられたもの。峠の茶屋や売店などがそうらしい。  旧東海道はここから南方に折れ曲がる。

 

東海道を示すものは何もないが、ここは旧東海道である。

この辺りは「安永」という地で、下の写真で、道の突き当たりは「員弁川」の堤防であり、ここに「町屋橋」があった所である。(今の町屋橋は国道一号線に架かる)

この橋のたもとには、「料亭玉喜」などがあり、昔の姿を思い起こさせる、古い灯籠や樹齢200年と言われる「藤」の古木が残されている。

 

この旅館などで、街道の名物「安永餅」(下の写真は現在売られている餅)を売っていた。現在も料亭、旅館として営業しているが、旧館には「安永餅」の看板や「御馬口御洗水」の木札や、餅を作っていた頃のかまどなどが残されている。

 

「伊勢両宮常夜灯」、文政元年(1818年)建立。桑名市指定文化財。

石造里程漂には「従町屋川中央北桑名郡」「三重県庁舎一里口町余」と刻まれる。(明治26年建立)

 

写真を撮り損なったが、ここには樹齢200年以上の「楠」の大木があり、しめ縄が掛けられているとの事である。下の看板に描かれているのがその大木かも?。

 

「町屋橋跡」屋根付き表示板

橋は寛永12年(1635年)に初めて作られ、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本の板橋であったり、しばしば変わっている。江戸時代のものは、橋の中央で馬が退避出来るように幅を広げた事もあった・・・と書かれている

 ここに「町屋橋」が掛けられていたが、この少し左(東方)に昭和8年に国道一号線の橋がかけられた。 よってここの橋は廃止された。川の向こうは朝日町である。

 

東海道桑名宿の起点「七里の渡」から、旧東海道三重県内は鈴鹿峠までの間が約45Kmあるが、今回はその最初として現桑名市の南の端、町屋川(員弁川)の袂までの約3.8Kmを歩いたのである。これを地図に書くと下記のようになる。

 

 

 以上をもって、「東海道・桑名宿・旧跡めぐりを完結としたい。

私としては、初めての身近の歴史を取材することが出来たのも、全ては友のお陰と感謝すると共に、従来とは一味違ったブログになったと自画自賛しきりである。

今後も、例えばこの続編とか、古い町並みなどを残す地域にて、歴史の片鱗に触れたいと思っている。

                                    << 完 >>

 参考までに

上に記した”地図へのお絵かき”は、以前からやりたかった事のひとつであるが、つい最近ブログで親しくしている方から紹介された、akatomboさんに教えて戴き出来たものです。この手法のキーポイントは、パソコンの右上端にある「PrtSc」なるキーの使い方であり、これは他にも使い道は多々あると考えられるので、私には嬉しい”発見”であった。(パソコン歴うん十年の私が今頃知ったのかと笑われながらも) 

作り方の解り易い「地図へのお絵かき手順」のページ は

   https://tomboaka.wordpress.com/

また、akatomboさんのホームページは

   http://akatombo.e-whs.tk/

をご覧戴きたい。

 

 


947 東海道 桑名宿 ⑥ 長圓寺 一目連神社 他

2013-06-18 08:00:00 | 名所旧跡

 2013.05.26(日)友と二人、東海道桑名宿の旧跡を尋ねる”後期野次喜多道中記”の続編である。今日紹介するのは、七里に渡で船を降りて、旧東海道を約1.7km歩いた所、伝馬町の辺りである。

前にも紹介したように、今回の東海道の旅は企画から実行まで全てを友にやってもらってるのであるが、足も体力も劣る私の能力に合わせて歩く距離を少なくし、且つ駐車料などの最少を求めての方程式を解くと言うのかパズルをやる感覚で計画された道を歩いた。

それは、あたかも映画の撮影の如く、バラバラに撮っておいたものを、道順に従って並べ替えてブログを編集するという誠に合理的な方法になっているのである。であるから、何も見るべきものが無い部分は車を使い、無料駐車場に止めて歩くと言う方法である。

 

 「長円寺(ちょうえんじ)」

    浄土真宗本願寺派

    桑名市伝馬町98

古くは江場村にあったが、慶長町割の際に現在地へ移りました。市指定文化財として、桑府名勝志、久波奈名所図会、桑名の千羽鶴があります。これは当寺11代住職魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)(1834没)の作品です。桑名の千羽鶴は1枚の紙で連続した鶴を多く折る珍しい方法です。境内の墓地には、大坂相撲力士千田川善太郎(1804没)の墓があります

「桑名の千羽鶴」 (ネット上で借用)

「天武天皇社」

    桑名市東鍋屋町89番

桑名市東鍋屋町に鎮座の当社は、天武天皇を主神として御祀りしている全国で唯一の神社であります。
天武天皇、壬申の乱に皇后と共に吉野より潜奉、桑名郡家に御宿泊あり、桑名を根拠地として近江軍に対せられ、高市皇子の進言により天皇は美濃へ向かわれたが皇后はそのまま当地に御逗留あり、天皇凱旋の後再び当地に還宿され皇后と共に大和に帰られました。

天武天皇の御宿りは僅かでしたが、皇后は約二ヶ月も御逗留され、当地が二帝との関係浅からぬものがあり、後に至り天恩を追慕し讃仰の念より一社を創めて御祀りされました。

 

「石取祭車庫」

 

「一目連神社(いちもくれんじんじゃ)」

    桑名市東鍋屋町89番

多度大社の別宮として鎮まりまして、昔も今も絶大な崇敬を集める一目連神社。「一目連神 出でたまふとき多度山鳴動し御光を放ちて頭上を飛び越え 困りし人々を助けたまう・・・」一目連神社の神力によって災難から逃れられた人々は数知れず、お礼参り・願掛けの参拝者は後を絶ちません。
御祭神の「天目一箇命」は、御本宮・天津彦根命の御子神であり、伊勢の天照大御神の御孫神にあたります。古書(古語拾遺)では、天照大御神が天の岩屋戸にお隠れになった際、刀や斧などを作って活躍された神として伝えられており、このことから、鉄工・鋳物等をはじめとする日本金属工業の祖神・守護神として崇められています。毎年11月8日には、「ふいご祭り」というお祭りが斎行され、桑名近辺の会社はもとより全国の関連業者の方々が参拝に訪れます。
 また、多度大社周辺は揖斐・長良・木曽の三大河川が集中しており、昔は一度大雨が降るとたちまち増水し、川から水が溢れ、大洪水となって岸辺の集落を呑み込んでしまうような事が度々起こりました。その為、地域の人々は、自分たちの生活を左右し、場合のよっては生命までも脅かされる恐れから、天候を司どると信じられてきた一目連神社に真剣な祈りを捧げて来たのです。これとは逆に、雨が降らず、日照りが続くと米の収穫ができず、食糧難に陥ることから、雨乞い祈祷も盛んに行なわれてきました。
また、海上で仕事をされる人々にとっても天候に対する思いは同じで、天気予報の無かった時代はなおさらでした。漁に出ていたところ、急に海が荒れだして、大時化(おおしけ)の中、一目連神のお導きによって、命からがら岸辺にたどりついた逸話は数多く残されています。
また、一目連神社の御社殿は正面の御扉が無いという、大変珍しい構造をしている事は見逃せない一例です。このことは古文書にも見られるように、非常時に神様が御神意を発する際、龍に姿を変えて天高く駆け上り、いち早く出向かれるためであると云われています。

 

「明圓寺(みょうえんじ)」

    真宗大谷派  瑞瑋山

    桑名市西鍋屋町16

開基不詳。桑名市多度町香取の法泉寺安田空明の家臣伊藤孫右衛門が出家して当寺を中興したと伝えられる。古くは現在地より南にあったという。昭和23(1948)頃に再建。
門前の道路わきに水準点があったが、現在は確認できない。 

 

 

「教覚寺(きょうかくじ)」

    浄土真宗本願寺派   松下山

    桑名市東矢田町

戦災で焼失、昭和24年(1949)仮本堂再建。
益田庄地頭職二階堂氏の一族が文明3年(1471)に桑名郡町屋に道場を開き、のち東方村にうつり、さらに現在地に移る。

 

「善西寺(ぜんさいじ)」

    浄土真宗本願寺派  走井山

    桑名市西矢田町27-2

走井山にあった矢田城主の矢田俊元は織田信長の軍勢に敗れたが、孫の俊勝が出家してこの寺を建て、祖父の法号をとって寺号にした。 
戦災で本堂を焼失したが、東海道に面した門、塀、鐘楼堂は戦災を免れた。本堂は昭和43年(1968)に再建。

 

桑名の名物の「焼きはまぐり」については前に紹介したが、ここでは「時雨蛤」である。

名物の「時雨蛤」はボイルした蛤のむき身を醤油を沸騰させた大鍋に入れて「浮かし煮」と言う独特な方法で煮るのである。味付けに生姜を刻んで入れる。

元は「煮蛤」と呼んでいたが、松尾芭蕉の高弟が、10月の時雨が降り始める頃から作られるために、「時雨蛤」と名付けたとある。

その発祥の地は、先に紹介の昼ごはんを食べた「赤須賀漁港」周辺で、元禄時代から作られ初めたとある。「時雨蛤」にすることで、風味と保存性が高まった事は言うまでも無い。

 暖かいご飯に載せて食べると、他に”おかず”なしで、いくらでも食べられる、私の大好物であるが、「桑名の殿さん、時雨で茶々漬け」と歌われるように、お茶漬けにするのも美味しい食べ方である。

                                         << 続く >>


946 東海道 桑名宿 ⑤ 焼蛤 十念寺 など

2013-06-14 08:00:00 | 名所旧跡

2013.05.26(日)、天気はよし、”東海道五十三次の桑名宿を歩く、後期に入った野次さんと喜多さんも空腹には耐えかねて、ちょっと車に載り東海道を外れて 「はまぐり」を求めて漁港のある所にやってきた。

ここは「赤須賀漁港」、ずらりと並ぶ漁船は揖斐川長良川河口周辺での「ままぐり漁用」の船である。ここからこの船は朝一斉に漁に出るが、船には夫婦らしき二人コンビの船が多いとか。

 

漁港周辺の小売店。御多分にもれず、ここも外国産が幅を利かせているが、国産も店頭に並ぶ。

店頭の価格表示は、各500gr当たり(中ならば14~5個位と思われる) 

桑名産はまぐり 小:¥1500、中:¥2000、大:¥2500、特大:¥3000 とかなり高い。

これに対し、輸入品は大きさは中程度と見たが、同量で¥650と約1/3になっている。

ちなみに、桑名産のシジミ、アサリは同量にて¥750である。

 

我々は昼食に桑名産の「焼はまぐり」をお値打ち価格で提供すると言う、「はまぐりプラザ」に入った。日曜日であり時刻が12時を過ぎているから、超満員で受付後30分前後待たされた。

そして食べたのが下の写真で、中くらいのハマグリ5個、はまぐりい磯揚げ3個、シジミの味噌汁に、時雨佃煮がほんの少々の「赤須賀定食」¥1200であった。この上に「はまぐり定食」¥1500があるが、はまぐりは同じ、天婦羅などが付くが予約しなければならない。

よく歩いた後であるし、待たされた分空腹が増したとは言うものの、「焼はまぐり」がこんなに美味いものだとは知らなかった。甘味があり、とろけるように柔らかいが、噛みこたえがある不思議な食べ物のように思えた。

 食事は”もうちょっと食べたいつまり、”腹八分目が健康的”と慰め合って街中にもどり、寺町の無料で止められる駐車場に車を置いて、再び東海道を歩き始めた。 ここは五つの寺が隙間なく並ぶ場所、を次々と入ったのである。

 

「光明寺」

    西山浄土宗  瑠璃山

    桑名市新町50

 

 

「最勝寺(さいしょうじ)」

    浄土真宗本願寺派

    桑名市萱町88

 

この間に「仏願寺」があるが、今や寺の形態を成してないので、省略させて戴く。

 

「十念寺」

    浄土宗   仏光山

    桑名市伝馬町53     

 この寺は、757年天平宝字元年)行基によって創建されたと伝えられ、当初は現在の三重県三重郡菰野町にあったが、その後寺地を転々とし、慶長の町割によって、現在地に移転。道路を隔てた西側の墓地には、明治維新の際に桑名藩の責任を負って切腹した森陳明の墓があります。また、当寺境内に七福神を祀り、毎年11月23日には七福神まつりが開かれています

上記「桑名義士:森陳明」について、同行の友の所見をそのまま、載せたいと思う。

明治維新(戊辰戦争)に桑名藩が敗れたあと、朝廷より反逆の主謀者を出せと命ぜられた時、藩存続と藩主松平定敬(さだあき)の存命を願い、藩の全責任を 負って出頭し壮烈な十文字切腹した抗戦派責任者森陳明(もりつらあき)の墓がここにあります。

わき道にそれますが
今年の大河ドラマ「八重の桜」に取り上げられている会津藩でも同じ様に家老の萱野権兵衛(かやのごんべえ)が藩主松平容保(かたもり)の寛大な処分を求める嘆願書を提出し戦争責任を一身に引き受け、江戸に送られ切腹を命じられる。ドラマでは萱野権兵衛役を柳沢 慎吾が演じています。

東京裁判でのA級戦犯と同じでしょうか。

今回のてくてく歩き後、復習として調べた結果、朝敵とされた会津藩桑名藩であるが、一徹に戦った会津藩と恭順派と強硬派の議論の中で巧く立ち回った桑名藩との違いなど歴史の中には奥深いドラマが隠されていたのだとあらためて考えさせられました。 

 

「寿量寺」

     日蓮宗   妙延山     

     桑名市伝馬町49番地

元は今一色にあったが、慶長町割の際に現在地へ移る。
江戸城の障壁画を描いた狩野光信は江戸から京都へ帰る途中に、慶長13年(1608)6月4日桑名で没し、当寺に葬った。入口すぐ南側に「狩野光信墓」の小さな五輪塔がある。
境内には明治2年(1869)銘の仏足石があり、寺宝として「銅磬」、「日蓮聖人御本尊」がある。
建物は戦災で焼失。のち鉄骨木造建で本堂を再建。

 

 今回は寺社が主たる目的では無いので、紹介する写真は最少限にとどめた。”野次喜多御一行”はこの後も東海道を南下したので、続きを見て戴きたい。

                                << 続く >>

 


945 東海道 桑名宿 ④ 海蔵寺 本統寺 他

2013-06-10 08:00:00 | 名所旧跡

2013.05.26(日)、 ”後期野次喜多コンビ”は、東海道桑名宿の「七里の渡し」をスタート地点として、旧道の表示に従い、四日市宿の方向に歩いている。今回のブログはその4回目で、「七里の渡し」から数百メートル、少し街道からは外れるがお寺を紹介する。

 

「海蔵寺(かいぞうじ)」 

   宗洞宗   法性山   

   桑名市北寺町10    境内自由

宝暦3年(1753)に幕府より薩摩藩は揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられました。宝暦5年工事は完成されたましたが、多くの犠牲者と巨額の経費がかさんだことの責任感から、工事総奉行平田靭負は自刃しました。これら義士の墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺に埋葬され、ここには平田靭負他21基の墓石が現存し、市指定史跡となっています

薩摩藩士950名が参加した難工事で85人が命をおとしたらしく、5月25日総奉行だった平田氏の命日に合わせ、義士の子孫や市民約120名が参加して法要が行われた。(新聞記事切り抜きを友が持参してくれた)

藩士の内30名余りは病死であったが、あとの50名余りは”自刃”者であったおある。この工事が如何に過酷なものであったかが伺い知る事が出来る。これを遠い国、薩摩に命じた幕府が、後に追い落とされる要因のひとつになった事が想像できる。

下は、自刃した平田氏をコの字形に囲み23の墓がある。

なお、薩摩藩士の墓は、この寺の他、近くに3寺あり、また、岐阜県内にもあるようだ。

 

「本統寺(ほんとうじ)」     桑名別院本統寺  通称:桑名御坊、ごぼんさん

   真宗大谷派   

   桑名市北寺町47番地

本統寺は、徳川家茂や明治天皇が宿泊した由緒あるお寺で、桑名御坊とも称され、俗に「ご坊さん」の名前で市民には親しまれています。境内には、俳聖松尾芭蕉が貞享元年(1684)野ざらし紀行の初旅の折り、この地で詠んだ句「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす はせを」の句碑(冬牡丹句碑)が建てられています

松尾芭蕉の句碑(写真を撮り損なったので、ネット上で借用)

 

「常信寺(じょうしんじ)」

    浄土真宗 高田派    如法山

    桑名市南寺町12

 

「ユスラウメ」

家の庭にあって、子供の頃今は亡き弟と”とりがち”をしながら、よく食べたことを思い出す。友に名前を聞かれて「ユスラ」と言ったが、よく調べて見ると正しくは「ウメ」が付く事を今頃知った。

寺に咲いてた花であるが、名前が解らない。

 以上3寺は近接して並んでいるが、ここから500m位歩いた所にも、5つの寺がぴったりと隙間なく並んでいる。これは慶長年間の町割の際、城下の外郭を固めるために計画的に寺院が集められたものだそうな。そのひとつが次の訪問先である。

 

「教宗寺(きょうそうじ)」

    浄土真宗 本願寺派  四宝山

    桑名市新町35

明応2年(1493)開基。元は法盛寺の(寺中で)境内にあり戦災を受ける。一時は和泉に移り、昭和39年(1964)現在地へ移る。現本堂は愛知県八開村より移築したもの。

「スイレン」

 

 佳境(?)に入って来た”東海道・野次喜多道中記”は、次回は御当地名物のはまぐりを食するあたりを書いて見たいと思っている。

                                  << 続く >>