しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「太平記」桜井の別れ   (大阪府桜井宿跡)

2024年06月20日 | 旅と文学

昭和20年、終戦と共に、日本は平和日本となり
「軍神」は日本から消滅した。

その日から80年、令和の日本で軍神の名さえ忘れ去られようとしている。
日露戦争・旅順港の広瀬中佐、
昭和7年上海事変の爆弾三勇士、
真珠湾攻撃の九軍人、など。
なかでも、国民的英雄として扱われたのが”大楠公”こと、楠木正成。


大楠公は”戦の神”であり、現人”神”の忠臣で、
神が重なり戦前では最高・最大の軍神だった。

庶民がつくり上げた神でなく、国家がつくり上げた神で、
学校教育で児童が学んだのが特色な神。
天皇(南朝)の為に一族は無私な心で、天皇を助け、命を投げ打つ。

戦前の笠岡男子小には「楠公父子」、笠岡女子小には「楠公母子」の銅像があった。
(今はない)
東京の皇居外苑には、戦前からの「大楠公」像が今も残る。
そこに銅像の説明はあるが、楠木正成の説明はない。
(楠公よりも住友が大切なのか?)
説明板がないと、現代人は楠木正成・正行を知らない。
唱歌で習わないし、国史はなし。
楠公父子を知る機会がない。

・・・

 

「大阪府の歴史」 藤本篤  山川出版社 昭和44年発行

―桜井の訣別―

父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん この正行は年こそは
未だ若けれ諸ともに 御供仕えん死出の旅

「自分は死ぬが、父に代わって天皇様を助け最後まで守りつくすように」と、
よくよく分かるように悟され・・・

南北朝の時代の争乱は、摂河泉の争奪戦ともいわれている。
九州で勢いを盛り返した尊氏、弟の義直は海陸呼応して東上してきた。
くいとめるため出陣した楠木正成は、途中、
桜井の駅(三島郡島本町)において、嫡子正行を河内におくりかえすとき、
最後の教訓をあたえた。

ときに正行は10歳であったという。
この話は「太平記」にのせられたもので、太平洋戦争の敗戦前までは、
小学校の教科書にもとりあげられ、歌にもうたわれて有名であった。

しかし、明治時代の学者から、つくりばなしではないかといわれていた。
その理由は、当時正行は左衛門少尉の官職をもち、成人に達していたはずであること、
このころ正行の書いたものをみると、とても10歳くらいの少年の文字とは思えないこと、等々である。

 

・・・

旅の場所・大阪府三島郡島本町桜井  桜井駅跡史跡公園
旅の日・2021年11月4日 
書名・太平記
作者・不詳
現代訳・「太平記」 森村誠一 角川書店 平成14年

・・・

 

 

桜井の訣別

この日五月二十一日、正成一行は摂津国島上郡桜井の宿において宿営した。
当時の都へ上る交通の要衝で、戦乱の都度兵火に見舞われている地域である。 
桜井のすぐ東で桂川、 宇治川、木津川の三川が合流し淀川となる。
対岸には石清水八幡宮がある。


まだ陽は高かったが、 正成は桜井の宿で兵馬を停め宿営を命じた。
馬上悠然と揺られて来た正成は、常とまったく変わらぬ表情であったが、深く心に期するものがあった。
生きてふたたび帰らぬ戦さという正成の決意は、彼に従う約一千の将兵に伝わっている。
このとき正成は四十三歳、楠木一族の命運を懸けて、後醍醐を支持して蜂起したが、
ついに決して勝てぬ戦いへ一族を導いてしまった。
その責任を正成はいまひしひしと感じている。

 

「今宵はこの地にてゆっくりと兵馬を休めよう。
お主たちも充分に休め」
正成は家臣に言った。
兵士専門の娼婦もいて明日なき兵士にこの世の名残りの歓を尽くさせる。 
正成が桜井の駅に兵馬を休めたのは、生きて帰る当てのない軍旅の将兵にせめてこの世の最後の名残りを惜しませたかったからである。
正成はここで気前よく兵士たちに軍費を分けてやった。
兵士は歓声を上げ酒や女に群がった。

 

宴が果てて家臣たちがそれぞれの寝所へ引き取った後、その場に正成と正行二人が残された。
「正行、これへまいれ」
正成の手がつと伸びて、正行の肩に置かれた。 
「そなた、何歳に相なる」
と正成が問うた。
「十二歳でございます」
「おお、そうじゃったのう。 顔をよく見せよ。」

常々威厳に充ちている父の面が、今夜は穏やかに優しい。
「そなた、明朝この地より河内へ帰れ」
正成が突然言った。
「なに故でございますか。私も父上のお供をいたします」
「それはならぬ。そなたにはわしの留守の間河内と母者や弟たちを守ってもらわなければならぬ」
「正行は楠木家の嫡男。 父上と共に死にとうございます」
「そなたはまだ十二歳じゃ。軽々に死を口にしてはならぬ。
楠木家の嫡男であればなおさら、父の代わりに河内と母者や弟たちを守らなければならぬ」

この度の出陣は万に一つの生還も期せぬ死刑場への道である。
正行には父の愛情がわかった。

「正成が討ち死にすれば、天下は足利のものとなろう。だが一時の命を助からんために多年の忠節を失い、節を屈して足利に降ってはならぬ。
金剛山に立て籠り、一族門葉ただ一人となっても戦え。 
それがそなたが父から引き継ぐべき楠木家の道じや。
決してあきらめてはならぬ。それこそそなたの第一の孝養と心得よ」

正行の頬がいつの間にか濡れている。
正行にとって正成は父としてよりは一族の長の象徴であった。
常に威厳に溢れ、厳然としていた。 
又は嫡男としての正行を特に厳しく薫陶した。
正行には常に一族の統領として振舞った。

「わかりました。正行は河内へ帰ります」
「おお、聞き分けてくれたか。それでこそ我が子じゃ」
「父上」
「はは、死ぬと決まったわけではない。また生きて河内で会おうぞ」
親子は手を取り合った。


桜井の宿に別れを告げた行く者と帰る者は、二度と会うことはなかった。

 

 

 

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