しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年6月23日沖縄戦争が終結

2024年06月23日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和20年6月23日、牛島司令官は、「最後まで戦え」という最後の命令を出し自決した。
軍は壊滅状態で命令は届かず、守られず、無力でほぼ終結した。

牛島司令官より10日程前に戦死した、
海軍側の司令官太田中将のよく知られた電文、
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

同じ軍人であり、将官であり、ともに沖縄で戦いながら
最期の言葉は、人間として、あまりに差がある。

 

・・・

 

「ライシャワーの日本史」  文芸春秋社 1986年発行


1945年の2月から3月にかけて、アメリカ軍は多大の犠牲を払ってサイパンの北にある硫黄島を占領した。
この小島は本土空襲で被弾した米軍爆撃機搭乗員の収容場所となった。

1944年10月フィリピンのレイテ島沖に達したアメリカ軍は、1945年2月マニラを陥落した。


二手に分かれていた米軍の攻勢が4月には沖縄に集中した。
日本軍は必死に抵抗、
わずかに残った軍用機が投入され特攻作戦が展開された。
しかし物量においてははるかにまさるアメリカ軍にかなうはずはなかった。
沖縄は6月までに完全に米上陸軍の制圧するところとなった。

多くの人命が失われた。
戦死した兵士11万人のほか、
犠牲になった沖縄県民が7万5千にのぼった。
これは沖縄県民の約1/8にあたる。

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防衛召集と第二国民兵

1942年(昭和17)年9月26日、陸軍省は陸軍防衛召集規則を発表した。
総力戦に即応して国土防衛にあたる召集をきめたものである。
内容は防空召集と警備召集の二種に分け、郷土防衛に緊急に対応するもの。
だが緊急の場合は口頭か電話でも召集出来るという規定があった。
そのため、現住地や勤務場所で応召するというシステムである。

防衛召集が唯一実戦につながったのが沖縄戦である。
その悲しい実験ともいえる沖縄戦は四段階にわたって防衛招集が発令され、
1945年には15歳以上の中学生にも適用されて過酷な戦場に投入されたのだった。
その事実は、日本の降伏がもう少し遅かったとすれば、
日本陸軍が目論んだ本土決戦の姿そのままになるはずだった。

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

 

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「昭和時代」  読売新聞社 中央公論 2015年発行

 

●本土決戦前の「捨て石」

県民四人に一人が犠牲
時間稼ぎの戦場


大本営は、米軍侵攻を想定して1945 (昭和20年1月、本土決戦に備えた「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定した。
作戦 目的は、「皇土特に帝国本土」の確保だった。
小笠原諸島や沖縄本島以南の南西諸島を、作戦を遂行するための「前縁」と位置づけ、
やむを得ず米軍の上陸を許した場合は、米軍に「出血」を強要し、戦争継続の意思をくじく狙いがあった。

戦後に作られた連合国軍総司令部(GHQ)の陳述録によると、沖縄は、
「米軍に出血を強要する一持久作戦で国軍総力の大決戦は本土で遂行するのが本旨か」
と問われた元大本営陸軍部作戦課長・服部卓四郎は、
「然り」と答え、「沖縄も局部出血を強要する一要域」と語った。
つまり、軍部にとって沖縄は、「本土」ではなく、本土防衛を図るために必要な時間を作り出す戦場と扱われていた。

 

米軍は無血上陸

1945(昭和20)年3月26日、米軍は沖縄本島上陸作戦に先立って、弾薬や食糧などの物資を備蓄するため、本島西方の慶良間諸島に侵攻した。
日米両軍による沖縄戦の事実上の始まりだった。
同諸島を占領した米軍は、4月1日早朝、 沖縄本島中部の上陸予定地点をめがけ、英軍を含めて219隻の戦艦と巡洋艦から艦砲射撃を開始。
太平洋戦線では最多となる18万人を超す部隊が一斉に上陸を始めた。 
米軍の圧倒的な火力攻撃は、「鉄の暴風」と表現された。


南部撤退、惨劇招く

1945(昭和20)年5月16日、三二軍司令官の牛島満は、「まさに戦力持久は終隠せんとす」との電報を大本営に発した。
だが、持久作戦を主導してきた八原は、 
「沖縄戦の目的は本土決戦を準備するための時間稼ぎ持久することが最優先」と主張した。
結局、この意見が通り、牛島は22日、首里戦線を放棄して、南部の喜屋武半島への撤退を決定した。
撤退作戦は悲惨を極めた。
大本営は、将兵、県民を問わず、重傷者には自決用の手榴弾を配ることなどを指示した。
南部に退いた軍は約3万人で、10万を超す住民が軍と行動をともにする。
しかし一部の日本兵は、避難住民からガマと呼ばれる洞穴(壕)を取り上げた。

 


米軍はガマの頂上部に穴をあけ、石油を流し込んで残存兵を焼き殺した。
沖縄戦は6月23日、司令官の牛島ら自決し、日本軍の組織的な戦闘は終わった。
沖縄県によると、日本兵の戦死者は約94.000人に上った。
また、島内に残った約40万の県民の4人に1人が死亡した。
県民の死者のうち約6万人は南部撤退後の犠牲だった。


ただ、硫黄島に次ぐ沖縄での日本兵士たちの奮戦が、米軍の日本本土への侵攻をためらわせることになる。

大和の「一億総特攻」

沖縄戦は、空と海でも凄惨な戦いを強いられた。
米軍の沖縄侵攻に合わせ、大本営は、特攻攻撃を主体とする「天一号」作戦を発令した。 
鹿屋、知覧など九州各地の基地からは、陸海軍機が、沖縄周辺に群がる米英軍の艦船を目指して出撃した。
『特別攻撃隊』(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編)によると、終戦までに、沖縄方面の航空特攻による戦死者は3.002人 に達した。 
学徒動員された大学生も多かった。
航空特攻に合わせ、連合艦隊は4月5日、戦艦大和と軽巡洋艦矢矧など、海軍で残存する10隻の第二艦隊に対し、
海上特攻として沖縄に突入することを命じた。
当初、勝算のない無謀な作戦に、第二艦隊司令長官の伊藤整一は首を縦に振らなかった。
だが、「一億総特攻のさきがけになっていただきたい」という、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介の説得を受け入れた。
翌6日午後、瀬戸内海を出撃した第二艦隊は、7日午前、東シナ海に進出した途端、米軍機386機による魚雷攻撃にさらされ、
大和以下の6隻は、沖縄のはるか北方で海の藻くずとなった。
「大和が残れば、無用の長物だったと言われる」という海軍幹部の情緒的な判断が、3.700人を超す将兵の命を奪った。

 


●住民保護に手抜かり
集団自決の悲劇

ガマと呼ばれる洞穴に逃げ込んだ住民たちが、もはや助かるすべはない、と絶望し自決する。
それも肉親同士が互いを手にかけて――そんな悲劇が沖縄戦下で相次いだ。
1945(昭和20)年4月2日、米軍の上陸地点にほど近い読谷村のチビチリガマでは83人が死亡した。
うち51人までが20歳以下の子供たち。
『読谷村史』はこう記す。
<奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。
煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。
そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった〉
具志川市の具志川城跡壕、慶良間諸島、伊江島——地上戦闘下、同様な集団自決は、 決して例外的な出来事ではなかった。
むろん、米軍の火力による猛攻の中で死んだ人々もいる。
しかし、なぜ、多くの住民たちが戦場の中に取り残されてしまったのか。


●「防衛召集」で総動員
この間、沖縄県民は軍への直接的な奉仕を求められてもいた。
沖縄では再三の「防衛召集」で計2万数千人が召集され、最終的には召集対象になっていなかった16歳や、45歳以上の者までかき集められた。
1945 (昭和20年3月には、師範学校や中等学校の男子生徒たちを「志願」というかたちで集めて「鉄血勤皇隊」を組織した。
師範学校と高等女学校の女生徒たちも、女子学徒隊として「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などに編成されて看護などにあたった。
鉄血勤皇隊は約1800人のほぼ半数が亡くなったとされる。根こそぎ動員は十代の若者にさえ犠牲を強いるものだった。

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そんな中、住民に報いることのできなかった悔恨を胸に逝った軍人もいた。
海軍の沖縄方面根拠地隊司令官として1945年6月に戦死した大田實中将は、
最期の時を前に、悲痛な思いを込めた一通の電報を軍中央に送った。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
その言葉は、「なぜ日本人は沖縄を見捨ててしまったのか」という重い問いを今もなお突きつけている。

 

 

画像・2012.12.18

 

 

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