しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「太閤記」高松城水攻め  (岡山県岡山市)

2024年06月21日 | 旅と文学

高松城水攻め⇒本能寺の変⇒城主・清水宗治湖上で切腹⇒中国大返し⇒山崎の戦い
戦国時代最大の連続した出来事であり、歴史上も重大な事件。

史書に、小説に、映画に、テレビに、ゲームに、漫画に、絵本に、・・・頻繁に
登場するが、歌はない。


高松城主・清水宗治は為政についての資料は何も残ってないが
辞世の句、一句で今も名を高松の苔に残している。


~浮き世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して~

 

・・・
旅の場所・岡山県岡山市高松・高松城跡
旅の日・2023年7月16日
書名・「太閤記」
原作者・小瀬甫庵
現代訳・「古典文学全集・13太閤記」 ポプラ社 昭和40年発行  

・・・

 

高松城水攻め

 

年があけると信長は、甲州へ兵を進め、家康と力を合わせて、武田をほろぼしました。
武田勝頼は、三月十一日に天目山で家族の者と自殺してしまいました。

いっぽう、秀吉も今年こそ毛利を降参させてしまおうと、中国攻撃にとりかかり、三月十五日に姫路を
出発して岡山へ寄り、宇喜多の兵力と合わせて三万八千の軍兵をひきいて、備中へ攻めこみました。


城将 清水宗治がてごわい敵であることを知っていましたので、秀吉は、蜂須賀彦右衛門と黒田官兵
御を使者にして、降参するようにすすめたのですが、なんとしても承知しません。
力攻めにすればもちろん味方にもたくさん死傷者がでます。
竜王山の本陣から高松城をながめていた秀吉は、黒田官兵衛を呼びました。
「官兵衛。この城をひぼしにするにはどうしたらいいだろう。」
「城のうしろは立田山・つつみ山 竜王山にかこまれ、前は泥田ですから、こっちから攻めていっては
けが人がたくさんでます。
兵力をすこしも傷つけずに城を落とすのは水でしょう。」


「わしもそう思っていたのだ。城兵は五千人ほどいる。あれがひと足も外へ出られぬようにしておけば、
城内の食糧はたちまち食いつくしてしまうにちがいない。
いまは梅雨どきで川の水はぐんぐんふえている。あれをしめきろう。」
秀吉は、七八人の供をつれただけで、門前村から蛙が鼻まで四キロほどを、ゆっくりと馬を進めました。
そのうしろにところどころ目じるしの旗をたてました。
「いまのところへ今夜じゅうに塀をつくれ。
 一町(約一〇九メートル)ごとにやぐらをつくれ。」

 
蜂須賀彦右衛門は、すぐに人夫を狩り集めて工事にかかり、ひと晩のうちに塀とやぐらをたてました。 
やぐらには鉄砲組と槍組をのぼらせ、やすみなく城にむかって矢を射こみ鉄砲をうちかけましたので、
城兵もしきりにやぐらめがけてうってきました。
そのあいだに塀の外では人夫たちが、土や石をはこんで土手をつくりました。
土手づくりには兵士たちも総動員されましたから、わずか三日で四キロの土手ができあがりました。

いよいよ川をしめきるときがきました。
ちょうど運よく雨が降りだして、川の水がどんどんふえてきました。
黒田官兵衛は、二千人の兵士を川岸へ集めました。
土をつめた俵を何千俵もつくり、千人ばかりの人夫を待機させました。
「さあ、軍勢はみんないちどに川へはいって、川上へむかって押していけ。」
とともに二千人の武者が、どっと川へ飛びこみ、えいっえいっと武者声をあげては手を組み合い、
びったりとかたまりあって川をのぼりはじめたので、川の流れは人の群れにせかれてとまってしまいました。
「それぇ、土のうをぶちこめ。」
声の下から川の中へ土のうがいちどに投げこまれましたので、たちまち川の水はせきとめられ、
みるみるうちに城下の町や村や田畑を水の底へしずめていきました。

高松城をすくうために、毛利輝元も腕を組んでいたわけではありません。
小早川隆影・吉川元春が三万の軍勢をひきいてかけつけました。
高松から二十四キロほどはなれたところに陣取ったのです。
秀吉は、一万の兵を川の岸に集めて敵の進撃をくいとめました。
川の水がふえていて、毛利勢も渡ることはできません。
日差山・岩崎山には吉川勢・小早川勢の旗のぼりが林のように立っていましたが、さっぱり動かない
水はどんどんとふえてきて、城はとうとう水の中につかってしまいました。


五千人からの人ですから小舟ではこびだすことはたいへんですし、そんなことは実行不可能でした。 
そのままにしておけば、鳥取城の二の難です。
小早川隆景は、便を城将清水完治におくり、
『助けたいのだが、どうにもならないから降参して城内の兵士を助けろ。』
との手紙をわたしました。 
官兵衛は、すぐに、安国寺恵と会って講和をすすめました。
四日の朝、宗治が切腹するというので、小舟に酒やさかなを乗せて贈りました。
宗治は、小舟に乗って蛙が鼻へこぎよせ、秀吉の陣屋の下で見事に腹を切って死にました。
宗治のりっぱな最期をみとどけて、秀吉は、講和の約束の書類に署名をしました。

 

 

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