しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

陸奥爆沈  (山口県周防大島「陸奥記念館」)

2024年06月19日 | 旅と文学

昭和18年1月7日、戦艦陸奥が柱島沖で突然爆発して沈没した。

乗員1.474人、うち助かった人353人。
艦内にいた人は全員死亡、甲板にいた皿洗いなどの新兵が助かった。
助かった人は別れながらも、南洋の戦場へ飛ばされた。

事件は徹底的に隠されたので、
死んだ人にも、しばらく給金が送金された。
死んだ人は、その後に別の場所で死んだことになったのだろう。

陸奥爆沈の原因はわかっていない。
内部調査であり、調査書等はもとからないのだろう。
あったとしても、敗戦後、まっさきに焼却処分しているはず。
可能性が高いと言われるのが作者の言う人為爆発説。

 

吉村昭は、軍の密閉した体質をとことん・・・
それを、いつものようにたんたんと・・書いている。

・・・

旅の場所・山口県大島郡周防大島町東和・陸奥公園「陸奥記念館」 
旅の日・2013年4月25日 
書名・「陸奥爆沈」 
著者・吉村昭 新潮文庫 昭和54年発行

・・・

 

 

「陸奥爆沈」 吉村昭 

 

昭和四十四年四月三日早朝、私は、農業専門月刊誌の編集次長山泉進氏と防予汽船の小さな定期船で岩国港をはなれた。
私は、前々日の午後東京から全日空の中型旅客機で広島空港に降り、タクシーで岩国市に入った。
私の仕事は、岩国市の紹介紀行文を書くことで、山泉氏がカメラマンを兼ねて同行してきてくれたのである。


「桂島に行ってみませんか」
と、山泉氏に言われた時、私は当惑した。
桂島という地名は、私も熟知している。
その島の近くの海面は、戦時中内地での連合艦隊最大の根拠地で、柱島泊地と称され多くの艦艇が集結した。 
その広大な海面の周辺には、多くの島が点在していて艦艇の望見されることを防ぎ、海面もおだやかで投錨地としての条件をそなえていた。
艦の修理・改造・諸試験にすぐれた設備と能力をもつ呉海軍工廠や弾薬、糧食その他を補給する呉軍需部も近く、
その上大燃料庫ともいうべき徳山要港からの重油の供給を受けられるという利点にも恵まれていた。

 


昭和十八年六月八日正午頃、
柱島泊地の旗艦ブイに繋留中の戦艦「陸奥」(基準排水量三九、〇五○トン)は、大爆発を起して艦体を分断しまたたく間に沈没した。


夜になると、軍艦が爆発して沈没したらしいという噂が各戸につたわった。
そしてそれを裏づけるように、翌朝島の周囲の海面一緒におびただしい重油が流れてきて、海軍のハンモックや兵の衣類なども岸に漂着するようになった。
島は、騒然となった。


そのうちに、住民たちの間にさまざまな話がひそかに流れるようになった。 
柱島の近くの無人島に小舟で貝をとりにいった或る少年は、波打ちぎわに横たわった水兵の死体を見て恐しくなっ逃げ帰った。
また桂島の南端にある洲で、死体にガソリンをかけて焼いているのを遠くから目撃したという話も伝ってきた。

呉鎮守府から警備隊員が乗りこんできて、島の住民を厳重に監視するようになり、住民たちを 一種の恐慌状態におとし入れた。
島から岩国港まで通う定期船が桟橋につくと、張りこんでいた私服が乗ってきた住民に近づいてきて、
「大きな軍艦が沈んだそうだね」
と、なに気ない口調で声をかける。
「そうらしい」
と答えた者は、一人の例外もなくそのまま憲兵隊に連行された。
また爆沈海面に近い大島でも、
「軍艦が沈んだらしい」
と、口にした者多数が連行された。


呉警備隊は、まず陸奥爆沈の事実を一般にさとられぬ方法として、漂着死体やそれに準ずる浮物の収容につとめることになった。
ただちに警備隊二ヶ中隊が編成され、漂着物の流れる可能性のある島々や諸島水道等に急派した。
「ところが、ニヶ中隊を編成したものの、なんの目的で任務につかせるのか説明するわけにはゆきません。
しかし、それでは趣旨が徹底しないし、全くあの時は困りました。
小隊長以上には 『陸奥』のことを話す必要があるだろうという意見を述べる者もいて、その是非で大激論を交しました。
結局、小隊長以上を呼んで、決して他言はするなと厳しく念を押して『陸奥』のことを話し、出発させたのです」
山岡氏は、苦笑した。
しかし、警備隊二ヶ中隊といえば四五〇名にも達するので、行動の目的をさとらせぬための配慮もはらった。
ニヶ中隊は細かく分けられ、小グループずつ出発させた。しかも、陸上での移動は目立つので、呉から舟にのせて任地に赴かせた。


焼骨には、石油、重油、木材が使用されたが、殊に木材は多くを必要とし、柱島や他の島々で 買い求めると爆沈の事実をかきつけられるおそれもあるので、
呉軍需部からひそかに団平船で運ばせた。

「陸奥」乗組の生存者は、「扶桑」「長門」の艦内で監禁同様の処置を受け、「長門」「扶桑」乗員 との私語も禁じられた。
かれらの所属は失われていた。
集合時には、「『陸奥』乗員、集れ」と命じられていたが、「扶桑」では「第二十四分隊」 と呼称されるようになった。
かれらは、死体収容と焼骨作業に従事するだけで、その作業中も絶えずきびしい監視を受けていた。

負傷者は呉海軍病院の隔離病棟に収容され、外部との接触を遮断された。
また負傷者に接する看護兵、看護婦もごく少数の者にかぎられ、かれらも病棟外に出ることを禁止された。
さらに機密保持の完全を期して、負傷者たちはひそかに内火艇に乗せられ呉港外の海軍のみで使用している三ツ子島の隔離病棟に移され、そこで約二ヶ月間軟禁状態におかれた。
むろんかれらには、「陸奥」に関することを口外せぬよう厳しい命令があたえられていた。

一般人に対する処置としては、「陸奥」 爆沈時に、近くで漁をしていた一隻の漁船がいたことが確認された。 
哨戒艇はその漁師をとらえ連行した。
漁師は、濃霧の中で大爆発音をきき黒煙を眼にしただけだと述べたが、大事をとって付近の島に軟禁した。
海軍では、その漁師に酒食を提供し金銭まで支給した。

 


陸奥爆沈の報を受けた日本海軍中枢部は、初め敵潜水艦による雷撃の公算大という柱島泊地かのに緊張したが、
やがてその疑いも薄らぐと新たな不安におそわれた。


海軍省は、海軍艦政本部に対し至急に事故原因を調査するよう命じた。 
爆沈原因は三式弾の自然発火だという専門家たちのほとんど断定的とも思える判定が下された。
日本海軍を一種の恐慌状態におとし入れた。
日本の主力艦にはすべて三式弾が搭載されていて、専門家たちの判定が正しければ、それらの艦も「陸奥」と同じような爆沈事故をおこす危険にさらされていることになる。
それは、日本海軍にとって一刻の猶予も許されぬ憂慮すべき事態であった。


死体となって発見された野〇三等水兵が、なんらかの目的でドアをこじあけ火薬を持ち出し、火を点じた。
火薬は爆発し野〇三等水兵は窒息死した。
野〇三等水兵の身辺が徹底的に洗われた
日常生活に於てもその日の行動からみても火薬庫放火の疑いは深まるばかりだった。
その目的は、火薬庫爆発による自殺と判断されざるを得なかった。

 

・・・

昭和46年頃、戦艦陸奥が引き上げ揚げられることがニュースになった。
深田サルベージが大型海上クレーンで船体を何カ所・部分を引き上げた。
陸奥引上は、あれは何が目的だったのだろう?
その頃、つづいて戦艦大和も引き上げる、ことも話題になっていたような気がする。

 

身内の話だが、当時義兄が中国財務局に勤務していて、
「本省の偉い人が読む」陸奥引上儀式のあいさつ文の原稿をつくった。
テレビを見ながら「あれはワシが書いた」と満足そうに義兄は言っていた。

・・・

 

コメント
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