しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ひめゆりの塔  (沖縄県糸満市)

2024年06月23日 | 旅と文学

昭和20年の日本の学生は、
男子は19才から兵役義務、
男女とも、大学・高校・中等学校は1年繰り上げ卒業、
大学・高校・中等・国民学校は一年間学業なし(休学)、
あるのは、
徴兵・志願兵・学徒動員・食糧増産・開墾。

そんな中、沖縄県は戦場となり、住民も戦闘事態になった。
全国の高等女学校では、全校生徒が学徒動員の報国団が結成されていたが、
沖縄県の女学校は前線に向き合う事態になった。
女学生たちは、戦場の中で兵とともに死んでいった。

 

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ひめゆり学徒隊

看護要員として軍に動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒による女子学徒隊。
南風原の沖縄陸軍病院に配備され、負傷兵の看護などにあたった。
だが、戦況悪化のため、1945年5月末には病院の移転とともに南部に移動。
6月18日、戦場の中に置き去りにされたために犠牲者は増え、最終的には教師を含めて動員された240人のうち136人が亡くなった。 
沖縄県における高等女学校生徒などによる学徒隊としては、このほか「白梅」「なごらん」「瑞泉」「積徳」「梯梧」などがあった。


「昭和時代」  読売新聞社 中央公論 2015年発行

 

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旅の場所・沖縄県糸満市「ひめゆりの塔」
旅の日・2012年12月18日
書名・「ひめゆりの塔ー学徒隊長の手記ー」
著者・西平英夫
発行・雄山閣 平成7年発行

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「ひめゆりの塔ー学徒隊長の手記ー」 西平英夫 雄山閣 平成7年発行


どの壕を訪れても重患でいっぱいであった。
時には通路にさえ担架のまま寝かされていた。
壕内は重患のうめき声と耐えがたい腐臭で満ちていた。
奥にはいればはいるほど薄暗い急造カンテラに照らされている光景は凄惨であり、すぐにも目まいが来そうであった。
その中にあって学生は寝もやらず立ち働いていた。

生徒たちから聞いたことなどもふくめてその時のようすを記しておこう。
慣れた患者は「看護婦」と呼ぶかわりに「学生さーん」と呼んでいた。
四、五十人を収容している壕では、この「学生さん」と呼ぶ声が随所にあった。
呼ばれるたびに生徒はバネ仕掛けのように立ちあがった。
小便をとってくれと言う者、
水が欲しいと言う者、
隣りの患者を訴える者、
上の患者を訴える者、
それはさまざまであった。 
身動きも出来ない重患には、すべての生命が学生に託されているようなものであった。
それを思うと 生徒たちはどれだけ疲れていても、じっとしてはいられなかった。


治療が始まると、
「アイタッタ.....」「ウ!!」とうなる声、「バカ! 軍人のくせに泣くやつがあるか!」と 威圧する声が次第に壕の奥に移動していって、
後は次第に不思議な安静の気が壕を満たしていく。
時には「この患者は少し切開する。 足をつかまえておけ」 
と、言うが早いかメスを取って傷口を十センチあまり「ぐさっ」と切ってしまう荒治療に急にふらふらとして、
「これくらいで貧血をおこして役に立つか。バカ野郎!」と、
どやされることも一再ではなかった。
しかしほどなく慣れた生徒は、手ぎわよく働くようになって、四、五十人の治療もわずか四、 五十分で済んでしまうようになっていった。

食事の面倒をみることも仕事の一つであった。
それは玄米飯のボールほどのにぎり飯であったが、
患者は一つずつ順々に配られていくのを咽喉を鳴らして待っていた。
子供におやつをやる時のように、食事の前には汚れた手を水できれいにふいてやらねばならなかった。
さし出された手の上に一つずつおにぎりを配るしぐさも、おやつを配る時によく似ていた。
母性本能が自然に働くのであろうか、どの生徒もよく面倒をみてやっていた。

重患には水を欲する者が多かった。 
「水をください」の声には生徒たちは思わず眉をひそめた。
「水は飲んではいけません。傷口が悪化します。すぐよくなりますから辛抱してください」と必死になってなだめる。
しかし死期の近づいている患者にはどうしても水を飲ませてやらなければならない。
生徒たちはよくそれを見わけて行動するようになっていた。
そのためには時には弾雨をおかして水を汲みに出ることもあった。
敵の攻撃の中断するのは決まって朝夕のほんの三、四分であったが、
その時にはどの壕からも水筒を五つも六つも肩にかけた生徒が水を汲みに井戸に集まっていた。

 


またこの時にはどの壕からも担架をかついで四報患者(死亡者)を運び出していた。
せっかくよくなりかけた傷も栄養不足のために衰弱して骨ばかりになって音もなく死んでいく患者もあれば、
昨日まで元気で第一線に早く出たいと言っていた患者がガスえそのため、 翌日は傷口が風船のようにふくれ上がって死にいたる。 
破傷風のためしきりに苦痛を訴えながら全身をけいかんさせながら死んでいく者など、多い時には一つの壕に五、六人も四報患者が出る。

しかし朝夕のわずかな空襲のあい間に埋葬するのだから、埋葬といっても穴を掘って埋めるのが精いっぱいで、
二、三間おきにある弾痕にくずれた坂道を運ぶことが、すでに大きな苦労であった。 
墓標などはいつの間にか立てられなくなり、
終りには昨日の塚が再び弾雨を受けて今日の墓穴になるようなありさまであった。

こうした活動のためにどの生徒も疲労でいっぱいだった。
生徒は一日に四、五時間、荷物箱の上や柱によりかかって休養するのみであった。
席はないのかと尋ねると、決まって「患者を寝かす所がないのですから仕方ありません」と答えた。
無理をするなと席をとってやってもまたすぐ患者に提供してしまうのである。

 

 


六 恨みの転進

いつのまにか戦線は首里・那覇をとりまく首陣地に移っていた。
敵は物量作戦の威力を発揮して日本軍陣地の徹底的破壊を試みた。
病院陣地からも前面の首里や識名が攻撃されるのが手にとるように見られるようになった。
そこは 昼夜の別なく主力艦の巨砲から撃ち込まれた。
三連発の主砲から撃ち出される砲弾は「ドドドッ」「ド ドドッ」と火花をあげて、山の一方から他方へと何回となく炸裂していった。
樹木が飛び、人が飛ぶ凄絶な光景はむしろ美しく冴えて見えた。
「○月○日赤い標燈をつけた飛行機から降下されるのは友軍であるから敵と間違えないように」。
こんな情報が伝えられたのもこのころであった。
「いよいよ友軍の空挺隊が来るぞ」 「敵ははさみ撃ちだ」などと、われわれはその戦果を期待した。

それにもかかわらず南風原(はえばる)には東からも西からも機関銃や小銃の音が聞こえるようになって来た。
与那原や安里のほうに敵が進出して来たものと思われた。
このような情勢の中で、首里に命令受領で出頭していた病院長が帰って来た。
命令は次のようなものであった。
「沖縄陸軍病院は五月二十八日までに山城地区に転進し二千名収容の陸軍病院を開設すべし」。
それは五月二十五日の明け方のことであった。
これを聞いた瞬間、私は頭の先までじーんとしびれていくのを感じた。
水をうったような沈黙がやがて一方から崩れていって院内には名状しがたいどよめきが広がっていった。
二千名を越える重患をどう処置するのか。
われわれ学徒は何をするのか。
傷ついている生徒をどうするのか。
こんなことが私の頭の中を駆け回った。

戦線は日一日と縮少され、危機は刻一刻われわれを取りかこんでいった。
敵機は一人でも人影を認めると機銃掃射を加えて来た。
一つの集落に一つの井戸、地下水のわくところを掘り広げて小池のようにした所に村中の人が水をくみに集まるのである。
これをどうして敵が見逃がそう、井戸は一変して血の池地獄と化してしまった。

 


九 終焉

大度(おど)の海岸は敗戦の悲哀をこめて明けていた。
戦いに敗れ指揮を失った兵隊がよれよれの軍服をまとって右往左往していた。
「敵はついそこまで来ているぞ」と後ろから駆けぬけて行く兵隊があるかと思えば、
前から来る兵隊は「お前ら、どこへ行くだ。摩文仁にはもう敵が来ているぞ。おれたちは今そこから引き揚げて来たんだ」
と尋ねもしないのに言い捨てて足早に去って行く。
大渡の松林まで行ったが、その中には幾人もの死骸がころがっているので危険だと思った。
小川の縁に待避しようすると、小川には、まりのようにふくれあがった死骸がいくつも浮いていた。
「阿檀〔熱帯性常緑低木〕の陰にはいろう」と岸本君が言ったが、私はその気にならなかった。 
「今日はもう最後の段階だ。日本軍のいそうな林やジャングルの中は必ず攻撃される」こんな気がしたのであった。
せっぱつまって畑の中にたこ壷を掘るよりほかないと考えた。
 比較的柔らかそうな所を見つけて、たこ壺を掘りにかかったが、 手掘りでは二十センチも掘るとそれ以上はどうにもならなかった。
その時すでに例の悪魔の使いトンボ(敵機)の爆音がきこえて来た。 
「早く掘れ」と言ったが「どうにもなりません」 と言う悲痛な叫びが返って来るばかりであった。

 

 

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