しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

父と暮らせば  (広島県広島市)

2024年06月25日 | 旅と文学

初本は1994年に新潮社から発行されてる。
作者・井上ひさしさんは、この重いテーマを
数年以上かけて調査したり、被爆者の話を聞いたりしているだろう。
1994年といえば、身内に限っても
呉から原爆のキノコ雲をみた16歳の海軍志願兵(予科練)のおじも、
原爆投下二日目に広島に入った海軍兵の義父も、まだまだ元気だった。
義父が話す地獄絵のような風景を見た人は2024年の今、もう世から去ってしまった。

 

「日本は東アジアへの侵略国で加害者であったが、
広島・長崎では非人道的兵器の被害者であった」
という、この本の論評者がいたが、それでは一つ足りない。

広島・長崎の市民は、街から転居するのを禁じられていた。
あの日、
「おとったん」は40才過ぎくらい。
「美津江」は20才くらい。
軍都広島が昭和20年8月に空襲を受けないはずがなかった。

 

 

(広島陸軍被服支廠)

・・・

旅の場所・広島県広島市 
旅の日・2018年5月3日
書名・「戦争と文学13」父と暮らせば
著者・井上ひさし
発行・集英社 2011年発行 

・・・

 

現在は昭和23(1948)年7月の最終火曜日の午後五時半。
ここは広島市、比治山の東側、福吉美津江の家。 
間取りは、下手から順に、台所、折り畳み式の卓袱台その他をおいた六帖の茶の間、そして本箱や文机のある八帖が並んでいる。

 


美津江 
うちよりもっとえっとしあわせになってええ人たちがぎょうさんおってでした。
そいじゃけえ、その人たちを押しのけて、うちがしあわせになるいうわけには行かんのです。
うちがしあわせになっては、そがあな人たちに申し訳が立たんですけえ。

竹造
そがあな人たちいうんは、どがあな人たちのことじゃ。

美津江 
たとえば、福村昭子さんのよう鼎立一女から女専までずうっといっしょ。
昭子さんが福村、うちが福吉、名字のあたまがおんなじ福じゃけえ、八年間通して席もいっしょ、
じゃけえ、うちらのことを二人まとめて「二福」いう人もおったぐらいでした。
昭子さんが会長で、うちが副会長でした。

竹造
成績もしじゅう競っとったけえのう。

美津江
(首を横に振る)駆けっこならとにかく、勉強では一度も昭子さんを抜いたことがのうて、うちはいっつも二番。 
これはたぶん、おとったんのせいじゃ。

竹造
・・・いきなりいびっちゃいけない。

美津江 
なによりもきれいかったです、一女小町、 女専小町いうてされてね。
うちより美しゅうて、うちより勉強ができて、うちより人望があって、ほいでうちを、
ピカから救うてくれんさった。


竹造
······ピカから、おまいを?

美津江 
手紙でうちを救うてくれんさったんよ。

竹造
 手紙で......?

美津江 
あのころ昭子さんは県立二女の先生。三年、四年の生徒さんを連れて岡山水島の飛行機工場へ行っとられたんです。
前の日、その昭子さんから手紙をもろうたけえ、うれしゅうてな らん、徹夜で返事を書きました。


竹造
わしはたしか縁先におった。
石灯籠のそばを歩いとったおまいを見て、「気をつけて行きいよ」

美津江
(頷いて)その声に振り返って手をふった。そんときじゃ、うちの屋根の向こうにB29 と、そいからなんかキラキラ光るもんが見えよったんは。
「おとったん、ビーがなんか落としよったが」


竹造
「空襲警報が出とらんのに異な気(いなげ)なことじゃ」、
そがあいうてわしは庭へ下りた。

美津江
「なに落としよったんじゃろう、 また謀略ビラかいね」
見とるうちに手もとが留守になって石灯籠の下に手紙を落としてしもうた。
「いけん......」、拾おう思うてちょごんだ。 そのとき、いきなり世間全体が青白うなった。

竹造
わしは正面から見てしもうた、お日さん二つ分の火の玉をの。

美津江
(かわいそうな)おとったん。


竹造 
真ん中はまぶしいほどの白でのう、
周りが黄色と赤を混ぜたような気味の悪い(きびがわりー)色の大けな輪じゃった......。

(少しの間)

竹造(促して)ほいで。


美津江 
その火の玉の熱線からうちを、石灯籠が、庇うてくれとったんです。

竹造
(感動して)あの石灯籠がのう。ふーん、値の高いだけのことはあったわい。


美津江 
昭子さんから手紙をもろうとらんかったら、石灯籠の根方にちょごむこともなかった思います。
そいじゃけえ、昭子さんがうちを救うてくれたいうとったんです......。

(いきなり美津江が顔を覆う)


美津江 
昭子さんは、あの朝、下り一番列車で、水島から、ひょっこり帰ってきとってでした。 
西観音町のおかあさんとこで一休みして、八時ちょっきりに学校へ出かけた。
ピカを浴びたんは、千田町の赤十字社支部のあたりじゃったそうです。

竹造
(唸る)うーん。

美津江 
昭子さんをおかあさんが探し当てたのが丸一日あとでした。
けんど、そのときにはもう赤十字社の裏玄関の土間に並べられとった...。

竹造
なんちゅう、まあ、運のない娘じゃのう。

美津江 
(頷きながらしゃくり上げ)モンペのうしろがすっぽり焼け抜けとったそうじゃ、
お尻が丸う現れとったそうじゃ、少しの便が干からびてついとったそうじゃ......。


(少しの間)

竹造
もうええが。人なみにしあわせを求めちゃいけんいうおまいの気持が、
ちいとは分かったような気がするけえ。

美津江
・・・・。

竹造
じゃがのう、このよな考え方もあるで。
昭子さんの分までしあわせにならにゃいけんいう考え方が・・・。

 

 

・・・

 

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