しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「太平記」船上山行宮  (鳥取県琴浦町)   

2024年06月21日 | 旅と文学

1332年。
天皇は二人。
元弘2年で、正慶(しょうきょう)2年。
後醍醐天皇は討幕失敗で隠岐の島に流罪となった。
島から脱出し船上山に立てこもった。

 

船上山は絶壁が城塞のように続く山。
ここで後醍醐天皇は名和長年と、幕府軍と対峙した。
後醍醐天皇は約80日間ほど、船上山に滞在していた。

 

・・・

旅の場所・鳥取県東伯郡琴浦町山川・船上山
旅の日・2010年11月5日 
書名・太平記
作者・不詳
現代訳・「太平記」 森村誠一 角川書店 平成14年

・・・

 

 


人の梯子

隠岐の島前島後には、蒙古来襲以来夷狄の侵入に備えて、各島の見晴らしのよい場所に番所が設けられている。 
後醍醐配流前はもっぱら外敵の侵入に備える監視所であったのが、その後は後醍醐奪還に備えるための侍の詰め所になっている。


「其方、これより長年と名乗れ」
そのとき後醍醐は又太郎に長年という名前をたえた。

「当面の敵は隠岐の守護である。帝に島より逃げられ奉りて、 立場上黙視できまい。
必ずや兵を催し、帝を奪い取りるために押し寄せて来るであろう。
まず船上山に急げ」

一族を督励して武装をも慌しく、後醍醐を船上山に奉戴することにした。
この有事に際して、名和一族が多年蓄えた富力がものを言った。
長年は近郊の住民に、
「名和一党船上山に立て籠り、帝ご親征の旗揚げを仕る。 
我が領倉にある兵糧を一荷運ぶ者には銭五百文をあたるべし」
と触れをまわし、領内から五千の人夫を動員して、一日のうちに兵糧五千石、白布五百反を山上に運び上げた。

 

 

船上山は長年が見立てた場所だけあって、大山の主稜からら東北に矢筈山、甲ヶ山、 勝田ヶ山、船上山とつづき、
北方には豪円山、鍔抜山、東南には鳥ヶ山、擬宝珠山などの火山群を連ねている。
標高六百十六メートル。東西を勝田川と国府川の峡谷にはさまれ、
山勢険しく、守るに 易く攻めるに難い天然の要害である。

この船上山大山寺に行在宮を設け、名和の手勢百五十名が護った。 
後醍醐は大山寺に着御すると同時に、綸旨を近国武将に発して、親征軍の錦旗の下に速やかに馳せ参ずるように求めた。
「尊皇有志が駆けつけるのが早いか。隠岐の追手が攻め寄せるのが早いか」
後醍醐や長年の懸念はその一点にあった。


「よいか。これは帝のご親征の第一歩を進める戦 いである。この戦いを勝ち抜くことが、帝の都還幸の第一歩となるのだ。石にかじりついても支えよ。
最後の一兵となるまで帝を守護し奉れ」
長年は部下に悲壮な命令を下した。


二十九日、案じられたとおり隠岐の判官の追手約三千余騎が攻め寄せて来た。
名和一族だけで約二十倍の大軍を支えなければならない。


「正成殿も五百の寡勢をもって十万の大軍を支えておる。 
我らが三千の寄せ手を支えられぬはずあるべきや」
長年は部下を督励した。
ここで敗れたら、せっかくの後醍醐の脱島が水泡に帰する。

 

 

このとき勝利の女神が名和勢に微笑んだ。
寄せ手の一将、伯耆の守護代佐々木弾正左衛門が麓の本陣で采配を振っていたが、
流れ矢に右目を射抜かれ討ち死にした。
佐々木の手勢五百は主将を失って戦意が萎えた。


隠岐の判官佐々木清高はわずかな手勢を引き連れて命からがら隠岐へ逃げ帰ったが、
島民から愛想づかしをされて、追放され、風と潮流に任せて敦賀へ漂着した。
その後間もなく六波羅滅亡とほぼ時を同じくして、近江国番場の辻堂において自ら腹を切って死んだ。

この合戦の勝敗は、朝幕の潮流を分ける重要な分水嶺となった。
幕府は後醍醐脱走の報告を受けても、
その主力精鋭軍を千早城に釘づけにされているために、船上山に援軍を送る余力がなかった。

幕府軍が船上山において一敗地にまみれると知るや、後醍醐脱走後の成り行きを凝っと見守っていた各地の日和見勢力が、草木も吹き靡くように後醍醐へ靡いた。


本来北条の勢力であった出雲の守護塩冶高貞が後醍醐の膝下に馳せ参ずると、
出雲、伯耆、因幡三か国のおよそ弓矢に携わる武士という武士はこぞって駆けつけて来た。


さらには石見、安芸、備後、備中、備前、また 遠くは四国、九州の有志が我先にと船上山に参陣して、
その勢力はたちまち張れ上がった。
名和長年は一党の命運を懸けた賭けに勝ったのである。 
後醍醐隠岐より船上山へ還幸の報知は全国へ飛んだ。 
後醍醐は船上山大山寺に第一橋頭堡を築くと、西国、九州の有志に討幕の詔勅を発した。
後醍醐の隠岐よりの還幸は各地の反幕勢力に火をつけ、たちまちその火勢を強めながら燃え拡がっていった。

 

 

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「太閤記」高松城水攻め  (岡山県岡山市)

2024年06月21日 | 旅と文学

高松城水攻め⇒本能寺の変⇒城主・清水宗治湖上で切腹⇒中国大返し⇒山崎の戦い
戦国時代最大の連続した出来事であり、歴史上も重大な事件。

史書に、小説に、映画に、テレビに、ゲームに、漫画に、絵本に、・・・頻繁に
登場するが、歌はない。


高松城主・清水宗治は為政についての資料は何も残ってないが
辞世の句、一句で今も名を高松の苔に残している。


~浮き世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して~

 

・・・
旅の場所・岡山県岡山市高松・高松城跡
旅の日・2023年7月16日
書名・「太閤記」
原作者・小瀬甫庵
現代訳・「古典文学全集・13太閤記」 ポプラ社 昭和40年発行  

・・・

 

高松城水攻め

 

年があけると信長は、甲州へ兵を進め、家康と力を合わせて、武田をほろぼしました。
武田勝頼は、三月十一日に天目山で家族の者と自殺してしまいました。

いっぽう、秀吉も今年こそ毛利を降参させてしまおうと、中国攻撃にとりかかり、三月十五日に姫路を
出発して岡山へ寄り、宇喜多の兵力と合わせて三万八千の軍兵をひきいて、備中へ攻めこみました。


城将 清水宗治がてごわい敵であることを知っていましたので、秀吉は、蜂須賀彦右衛門と黒田官兵
御を使者にして、降参するようにすすめたのですが、なんとしても承知しません。
力攻めにすればもちろん味方にもたくさん死傷者がでます。
竜王山の本陣から高松城をながめていた秀吉は、黒田官兵衛を呼びました。
「官兵衛。この城をひぼしにするにはどうしたらいいだろう。」
「城のうしろは立田山・つつみ山 竜王山にかこまれ、前は泥田ですから、こっちから攻めていっては
けが人がたくさんでます。
兵力をすこしも傷つけずに城を落とすのは水でしょう。」


「わしもそう思っていたのだ。城兵は五千人ほどいる。あれがひと足も外へ出られぬようにしておけば、
城内の食糧はたちまち食いつくしてしまうにちがいない。
いまは梅雨どきで川の水はぐんぐんふえている。あれをしめきろう。」
秀吉は、七八人の供をつれただけで、門前村から蛙が鼻まで四キロほどを、ゆっくりと馬を進めました。
そのうしろにところどころ目じるしの旗をたてました。
「いまのところへ今夜じゅうに塀をつくれ。
 一町(約一〇九メートル)ごとにやぐらをつくれ。」

 
蜂須賀彦右衛門は、すぐに人夫を狩り集めて工事にかかり、ひと晩のうちに塀とやぐらをたてました。 
やぐらには鉄砲組と槍組をのぼらせ、やすみなく城にむかって矢を射こみ鉄砲をうちかけましたので、
城兵もしきりにやぐらめがけてうってきました。
そのあいだに塀の外では人夫たちが、土や石をはこんで土手をつくりました。
土手づくりには兵士たちも総動員されましたから、わずか三日で四キロの土手ができあがりました。

いよいよ川をしめきるときがきました。
ちょうど運よく雨が降りだして、川の水がどんどんふえてきました。
黒田官兵衛は、二千人の兵士を川岸へ集めました。
土をつめた俵を何千俵もつくり、千人ばかりの人夫を待機させました。
「さあ、軍勢はみんないちどに川へはいって、川上へむかって押していけ。」
とともに二千人の武者が、どっと川へ飛びこみ、えいっえいっと武者声をあげては手を組み合い、
びったりとかたまりあって川をのぼりはじめたので、川の流れは人の群れにせかれてとまってしまいました。
「それぇ、土のうをぶちこめ。」
声の下から川の中へ土のうがいちどに投げこまれましたので、たちまち川の水はせきとめられ、
みるみるうちに城下の町や村や田畑を水の底へしずめていきました。

高松城をすくうために、毛利輝元も腕を組んでいたわけではありません。
小早川隆影・吉川元春が三万の軍勢をひきいてかけつけました。
高松から二十四キロほどはなれたところに陣取ったのです。
秀吉は、一万の兵を川の岸に集めて敵の進撃をくいとめました。
川の水がふえていて、毛利勢も渡ることはできません。
日差山・岩崎山には吉川勢・小早川勢の旗のぼりが林のように立っていましたが、さっぱり動かない
水はどんどんとふえてきて、城はとうとう水の中につかってしまいました。


五千人からの人ですから小舟ではこびだすことはたいへんですし、そんなことは実行不可能でした。 
そのままにしておけば、鳥取城の二の難です。
小早川隆景は、便を城将清水完治におくり、
『助けたいのだが、どうにもならないから降参して城内の兵士を助けろ。』
との手紙をわたしました。 
官兵衛は、すぐに、安国寺恵と会って講和をすすめました。
四日の朝、宗治が切腹するというので、小舟に酒やさかなを乗せて贈りました。
宗治は、小舟に乗って蛙が鼻へこぎよせ、秀吉の陣屋の下で見事に腹を切って死にました。
宗治のりっぱな最期をみとどけて、秀吉は、講和の約束の書類に署名をしました。

 

 

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