しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「きけわだつみのこえ」日本戦没学生の手記  (鹿児島県鹿屋市)

2024年06月23日 | 旅と文学

戦没学生とは、学生身分の軍人で戦死した人。
大方が幹部候補生で、一般兵より身分が高かった。
高等教育を受ける人は限られた数のエリート層だっただけに、
戦没学生の手記は戦後社会へ反響も大きかった。

この手記の本は映画化され、管理人も学校の講堂で映画を観た。
「死んだ人々は還ってこない以上、生き残った人々は、何が判ればいい?」
二等兵役の信欣三の表情が印象的だった。

 

・・・

旅の場所・鹿児島県鹿屋市今坂町「特攻慰霊塔」 
旅の日・2013年8月10日
書名・「きけわだつみのこえ」日本戦没学生の手記  
発行・東京大学出版会 1952年

・・・

 

大塚晟夫
中央大學學生。昭和二十年四月二十八 日、沖縄嘉手納神で戦死。二十三歳。

昭和二十年四月二十一日
はつきり言ふが俺は好きで死ぬんぢやない。
何の心に残る所なく死ぬんぢやない。國の前途が心配でたまらない。
いやそれよりも父上、母上、そして君達の前途が心配だ。
心配で心配でたまらない。
皆が俺の死を知って心定まらず悲しんでお互ひにくだらない道を踏んで行つたならば俺は一體どうなるんだろう。
皆が俺の心を察して今迄通り明朗に仲好く生活して呉れたならば俺はどんなに嬉しいだらう。
君達は三人共女だ。
之から先の難行苦行が思ひやられる。
然し聰明な君達は必ずや各自の正しい人道を歩んでゆくだろう。
俺は君達の胸の中に生きてゐる。
會ひ度くば我が名を呼び給へ。

四月二十八日
今日やる事は何もかもやり納めである。
搭乗員整列は午後二時、出発は午後三時すぎである。
聞きたいことがあるやうで無いやうで変だ。
どうも死ぬ様な気がしない。
一寸旅行に行くやうな軽い氣だ。
鏡を見たって死相など何慮にも表れてるない。
泣きっぽい母上ですから一寸心配ですが泣かないで下さい。
私は笑って死にますよ。
私が笑ひますから母上も笑って下さい。
午前十一時
東京はもう櫻が散りかけてゐるでせう。
私が散るのに櫻が散らないなんて情けないですものね。
散れよ散れよ櫻の花よ、俺が散るのにお前だけ咲くとは一体どういふわけだ。
之から食をとつて飛行場へ行く。
飛行場の整備でもう書く暇ない。 
之でおさらばする。
大東亜戦争の必勝を信じ、
俺はニッコリ笑って出撃する。

林 市造
京大経済学部學生。昭和二十年四月十二日特別攻撃隊として沖縄にて職死。二十三歳。

元山より母堂へ最後の手紙
この手紙は出撃を明後日にひかへてかいてゐます。
お母さん、たうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。
親思ふ心にまさる親心今日のおとづれ何ときくらむ、この歌がしみじみと思はれます。
ほんとに私は幸福だつたです。我ままばかりとほしましたね。
けれどもあれば私の甘へ心だと思つて許して下さいね。
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思ふと泣けて来ます。
母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思ふと、何も喜ばせることが出来ずに、
安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。

 

上原夏司
慶大經濟學部學生。昭和十八年十二月入隊。二十年五月十一日 特攻隊員として沖縄にて戦死。二十二歳。

所感

栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、
身の光榮之に過ぐるものなしと痛感致して居ます。
思へば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考へた場合、
これは或は、自由主義者と謂はれるかも知れませんが自由の勝利は明白な事だと思ひます。
人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、例へそれが抑へられて居る如く見えても、
底に於ては常に闘ひつつ最後には必ず勝つと云ふ事は彼のイタリヤのクローチェも云つて居る如く眞理であると思ひます。

(慰霊塔横の記念碑)

今日もまた黒潮おどる海洋に 飛びたち行きし友はかえらず

 

 

・・・

昭和20年6月23日、沖縄戦が終わった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひめゆりの塔  (沖縄県糸満市)

2024年06月23日 | 旅と文学

昭和20年の日本の学生は、
男子は19才から兵役義務、
男女とも、大学・高校・中等学校は1年繰り上げ卒業、
大学・高校・中等・国民学校は一年間学業なし(休学)、
あるのは、
徴兵・志願兵・学徒動員・食糧増産・開墾。

そんな中、沖縄県は戦場となり、住民も戦闘事態になった。
全国の高等女学校では、全校生徒が学徒動員の報国団が結成されていたが、
沖縄県の女学校は前線に向き合う事態になった。
女学生たちは、戦場の中で兵とともに死んでいった。

 

・・・


ひめゆり学徒隊

看護要員として軍に動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒による女子学徒隊。
南風原の沖縄陸軍病院に配備され、負傷兵の看護などにあたった。
だが、戦況悪化のため、1945年5月末には病院の移転とともに南部に移動。
6月18日、戦場の中に置き去りにされたために犠牲者は増え、最終的には教師を含めて動員された240人のうち136人が亡くなった。 
沖縄県における高等女学校生徒などによる学徒隊としては、このほか「白梅」「なごらん」「瑞泉」「積徳」「梯梧」などがあった。


「昭和時代」  読売新聞社 中央公論 2015年発行

 

・・・

旅の場所・沖縄県糸満市「ひめゆりの塔」
旅の日・2012年12月18日
書名・「ひめゆりの塔ー学徒隊長の手記ー」
著者・西平英夫
発行・雄山閣 平成7年発行

・・・

 

「ひめゆりの塔ー学徒隊長の手記ー」 西平英夫 雄山閣 平成7年発行


どの壕を訪れても重患でいっぱいであった。
時には通路にさえ担架のまま寝かされていた。
壕内は重患のうめき声と耐えがたい腐臭で満ちていた。
奥にはいればはいるほど薄暗い急造カンテラに照らされている光景は凄惨であり、すぐにも目まいが来そうであった。
その中にあって学生は寝もやらず立ち働いていた。

生徒たちから聞いたことなどもふくめてその時のようすを記しておこう。
慣れた患者は「看護婦」と呼ぶかわりに「学生さーん」と呼んでいた。
四、五十人を収容している壕では、この「学生さん」と呼ぶ声が随所にあった。
呼ばれるたびに生徒はバネ仕掛けのように立ちあがった。
小便をとってくれと言う者、
水が欲しいと言う者、
隣りの患者を訴える者、
上の患者を訴える者、
それはさまざまであった。 
身動きも出来ない重患には、すべての生命が学生に託されているようなものであった。
それを思うと 生徒たちはどれだけ疲れていても、じっとしてはいられなかった。


治療が始まると、
「アイタッタ.....」「ウ!!」とうなる声、「バカ! 軍人のくせに泣くやつがあるか!」と 威圧する声が次第に壕の奥に移動していって、
後は次第に不思議な安静の気が壕を満たしていく。
時には「この患者は少し切開する。 足をつかまえておけ」 
と、言うが早いかメスを取って傷口を十センチあまり「ぐさっ」と切ってしまう荒治療に急にふらふらとして、
「これくらいで貧血をおこして役に立つか。バカ野郎!」と、
どやされることも一再ではなかった。
しかしほどなく慣れた生徒は、手ぎわよく働くようになって、四、五十人の治療もわずか四、 五十分で済んでしまうようになっていった。

食事の面倒をみることも仕事の一つであった。
それは玄米飯のボールほどのにぎり飯であったが、
患者は一つずつ順々に配られていくのを咽喉を鳴らして待っていた。
子供におやつをやる時のように、食事の前には汚れた手を水できれいにふいてやらねばならなかった。
さし出された手の上に一つずつおにぎりを配るしぐさも、おやつを配る時によく似ていた。
母性本能が自然に働くのであろうか、どの生徒もよく面倒をみてやっていた。

重患には水を欲する者が多かった。 
「水をください」の声には生徒たちは思わず眉をひそめた。
「水は飲んではいけません。傷口が悪化します。すぐよくなりますから辛抱してください」と必死になってなだめる。
しかし死期の近づいている患者にはどうしても水を飲ませてやらなければならない。
生徒たちはよくそれを見わけて行動するようになっていた。
そのためには時には弾雨をおかして水を汲みに出ることもあった。
敵の攻撃の中断するのは決まって朝夕のほんの三、四分であったが、
その時にはどの壕からも水筒を五つも六つも肩にかけた生徒が水を汲みに井戸に集まっていた。

 


またこの時にはどの壕からも担架をかついで四報患者(死亡者)を運び出していた。
せっかくよくなりかけた傷も栄養不足のために衰弱して骨ばかりになって音もなく死んでいく患者もあれば、
昨日まで元気で第一線に早く出たいと言っていた患者がガスえそのため、 翌日は傷口が風船のようにふくれ上がって死にいたる。 
破傷風のためしきりに苦痛を訴えながら全身をけいかんさせながら死んでいく者など、多い時には一つの壕に五、六人も四報患者が出る。

しかし朝夕のわずかな空襲のあい間に埋葬するのだから、埋葬といっても穴を掘って埋めるのが精いっぱいで、
二、三間おきにある弾痕にくずれた坂道を運ぶことが、すでに大きな苦労であった。 
墓標などはいつの間にか立てられなくなり、
終りには昨日の塚が再び弾雨を受けて今日の墓穴になるようなありさまであった。

こうした活動のためにどの生徒も疲労でいっぱいだった。
生徒は一日に四、五時間、荷物箱の上や柱によりかかって休養するのみであった。
席はないのかと尋ねると、決まって「患者を寝かす所がないのですから仕方ありません」と答えた。
無理をするなと席をとってやってもまたすぐ患者に提供してしまうのである。

 

 


六 恨みの転進

いつのまにか戦線は首里・那覇をとりまく首陣地に移っていた。
敵は物量作戦の威力を発揮して日本軍陣地の徹底的破壊を試みた。
病院陣地からも前面の首里や識名が攻撃されるのが手にとるように見られるようになった。
そこは 昼夜の別なく主力艦の巨砲から撃ち込まれた。
三連発の主砲から撃ち出される砲弾は「ドドドッ」「ド ドドッ」と火花をあげて、山の一方から他方へと何回となく炸裂していった。
樹木が飛び、人が飛ぶ凄絶な光景はむしろ美しく冴えて見えた。
「○月○日赤い標燈をつけた飛行機から降下されるのは友軍であるから敵と間違えないように」。
こんな情報が伝えられたのもこのころであった。
「いよいよ友軍の空挺隊が来るぞ」 「敵ははさみ撃ちだ」などと、われわれはその戦果を期待した。

それにもかかわらず南風原(はえばる)には東からも西からも機関銃や小銃の音が聞こえるようになって来た。
与那原や安里のほうに敵が進出して来たものと思われた。
このような情勢の中で、首里に命令受領で出頭していた病院長が帰って来た。
命令は次のようなものであった。
「沖縄陸軍病院は五月二十八日までに山城地区に転進し二千名収容の陸軍病院を開設すべし」。
それは五月二十五日の明け方のことであった。
これを聞いた瞬間、私は頭の先までじーんとしびれていくのを感じた。
水をうったような沈黙がやがて一方から崩れていって院内には名状しがたいどよめきが広がっていった。
二千名を越える重患をどう処置するのか。
われわれ学徒は何をするのか。
傷ついている生徒をどうするのか。
こんなことが私の頭の中を駆け回った。

戦線は日一日と縮少され、危機は刻一刻われわれを取りかこんでいった。
敵機は一人でも人影を認めると機銃掃射を加えて来た。
一つの集落に一つの井戸、地下水のわくところを掘り広げて小池のようにした所に村中の人が水をくみに集まるのである。
これをどうして敵が見逃がそう、井戸は一変して血の池地獄と化してしまった。

 


九 終焉

大度(おど)の海岸は敗戦の悲哀をこめて明けていた。
戦いに敗れ指揮を失った兵隊がよれよれの軍服をまとって右往左往していた。
「敵はついそこまで来ているぞ」と後ろから駆けぬけて行く兵隊があるかと思えば、
前から来る兵隊は「お前ら、どこへ行くだ。摩文仁にはもう敵が来ているぞ。おれたちは今そこから引き揚げて来たんだ」
と尋ねもしないのに言い捨てて足早に去って行く。
大渡の松林まで行ったが、その中には幾人もの死骸がころがっているので危険だと思った。
小川の縁に待避しようすると、小川には、まりのようにふくれあがった死骸がいくつも浮いていた。
「阿檀〔熱帯性常緑低木〕の陰にはいろう」と岸本君が言ったが、私はその気にならなかった。 
「今日はもう最後の段階だ。日本軍のいそうな林やジャングルの中は必ず攻撃される」こんな気がしたのであった。
せっぱつまって畑の中にたこ壷を掘るよりほかないと考えた。
 比較的柔らかそうな所を見つけて、たこ壺を掘りにかかったが、 手掘りでは二十センチも掘るとそれ以上はどうにもならなかった。
その時すでに例の悪魔の使いトンボ(敵機)の爆音がきこえて来た。 
「早く掘れ」と言ったが「どうにもなりません」 と言う悲痛な叫びが返って来るばかりであった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和20年6月23日沖縄戦争が終結

2024年06月23日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和20年6月23日、牛島司令官は、「最後まで戦え」という最後の命令を出し自決した。
軍は壊滅状態で命令は届かず、守られず、無力でほぼ終結した。

牛島司令官より10日程前に戦死した、
海軍側の司令官太田中将のよく知られた電文、
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

同じ軍人であり、将官であり、ともに沖縄で戦いながら
最期の言葉は、人間として、あまりに差がある。

 

・・・

 

「ライシャワーの日本史」  文芸春秋社 1986年発行


1945年の2月から3月にかけて、アメリカ軍は多大の犠牲を払ってサイパンの北にある硫黄島を占領した。
この小島は本土空襲で被弾した米軍爆撃機搭乗員の収容場所となった。

1944年10月フィリピンのレイテ島沖に達したアメリカ軍は、1945年2月マニラを陥落した。


二手に分かれていた米軍の攻勢が4月には沖縄に集中した。
日本軍は必死に抵抗、
わずかに残った軍用機が投入され特攻作戦が展開された。
しかし物量においてははるかにまさるアメリカ軍にかなうはずはなかった。
沖縄は6月までに完全に米上陸軍の制圧するところとなった。

多くの人命が失われた。
戦死した兵士11万人のほか、
犠牲になった沖縄県民が7万5千にのぼった。
これは沖縄県民の約1/8にあたる。

・・・

 

防衛召集と第二国民兵

1942年(昭和17)年9月26日、陸軍省は陸軍防衛召集規則を発表した。
総力戦に即応して国土防衛にあたる召集をきめたものである。
内容は防空召集と警備召集の二種に分け、郷土防衛に緊急に対応するもの。
だが緊急の場合は口頭か電話でも召集出来るという規定があった。
そのため、現住地や勤務場所で応召するというシステムである。

防衛召集が唯一実戦につながったのが沖縄戦である。
その悲しい実験ともいえる沖縄戦は四段階にわたって防衛招集が発令され、
1945年には15歳以上の中学生にも適用されて過酷な戦場に投入されたのだった。
その事実は、日本の降伏がもう少し遅かったとすれば、
日本陸軍が目論んだ本土決戦の姿そのままになるはずだった。

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

 

・・・

 

・・・・

 

「昭和時代」  読売新聞社 中央公論 2015年発行

 

●本土決戦前の「捨て石」

県民四人に一人が犠牲
時間稼ぎの戦場


大本営は、米軍侵攻を想定して1945 (昭和20年1月、本土決戦に備えた「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定した。
作戦 目的は、「皇土特に帝国本土」の確保だった。
小笠原諸島や沖縄本島以南の南西諸島を、作戦を遂行するための「前縁」と位置づけ、
やむを得ず米軍の上陸を許した場合は、米軍に「出血」を強要し、戦争継続の意思をくじく狙いがあった。

戦後に作られた連合国軍総司令部(GHQ)の陳述録によると、沖縄は、
「米軍に出血を強要する一持久作戦で国軍総力の大決戦は本土で遂行するのが本旨か」
と問われた元大本営陸軍部作戦課長・服部卓四郎は、
「然り」と答え、「沖縄も局部出血を強要する一要域」と語った。
つまり、軍部にとって沖縄は、「本土」ではなく、本土防衛を図るために必要な時間を作り出す戦場と扱われていた。

 

米軍は無血上陸

1945(昭和20)年3月26日、米軍は沖縄本島上陸作戦に先立って、弾薬や食糧などの物資を備蓄するため、本島西方の慶良間諸島に侵攻した。
日米両軍による沖縄戦の事実上の始まりだった。
同諸島を占領した米軍は、4月1日早朝、 沖縄本島中部の上陸予定地点をめがけ、英軍を含めて219隻の戦艦と巡洋艦から艦砲射撃を開始。
太平洋戦線では最多となる18万人を超す部隊が一斉に上陸を始めた。 
米軍の圧倒的な火力攻撃は、「鉄の暴風」と表現された。


南部撤退、惨劇招く

1945(昭和20)年5月16日、三二軍司令官の牛島満は、「まさに戦力持久は終隠せんとす」との電報を大本営に発した。
だが、持久作戦を主導してきた八原は、 
「沖縄戦の目的は本土決戦を準備するための時間稼ぎ持久することが最優先」と主張した。
結局、この意見が通り、牛島は22日、首里戦線を放棄して、南部の喜屋武半島への撤退を決定した。
撤退作戦は悲惨を極めた。
大本営は、将兵、県民を問わず、重傷者には自決用の手榴弾を配ることなどを指示した。
南部に退いた軍は約3万人で、10万を超す住民が軍と行動をともにする。
しかし一部の日本兵は、避難住民からガマと呼ばれる洞穴(壕)を取り上げた。

 


米軍はガマの頂上部に穴をあけ、石油を流し込んで残存兵を焼き殺した。
沖縄戦は6月23日、司令官の牛島ら自決し、日本軍の組織的な戦闘は終わった。
沖縄県によると、日本兵の戦死者は約94.000人に上った。
また、島内に残った約40万の県民の4人に1人が死亡した。
県民の死者のうち約6万人は南部撤退後の犠牲だった。


ただ、硫黄島に次ぐ沖縄での日本兵士たちの奮戦が、米軍の日本本土への侵攻をためらわせることになる。

大和の「一億総特攻」

沖縄戦は、空と海でも凄惨な戦いを強いられた。
米軍の沖縄侵攻に合わせ、大本営は、特攻攻撃を主体とする「天一号」作戦を発令した。 
鹿屋、知覧など九州各地の基地からは、陸海軍機が、沖縄周辺に群がる米英軍の艦船を目指して出撃した。
『特別攻撃隊』(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編)によると、終戦までに、沖縄方面の航空特攻による戦死者は3.002人 に達した。 
学徒動員された大学生も多かった。
航空特攻に合わせ、連合艦隊は4月5日、戦艦大和と軽巡洋艦矢矧など、海軍で残存する10隻の第二艦隊に対し、
海上特攻として沖縄に突入することを命じた。
当初、勝算のない無謀な作戦に、第二艦隊司令長官の伊藤整一は首を縦に振らなかった。
だが、「一億総特攻のさきがけになっていただきたい」という、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介の説得を受け入れた。
翌6日午後、瀬戸内海を出撃した第二艦隊は、7日午前、東シナ海に進出した途端、米軍機386機による魚雷攻撃にさらされ、
大和以下の6隻は、沖縄のはるか北方で海の藻くずとなった。
「大和が残れば、無用の長物だったと言われる」という海軍幹部の情緒的な判断が、3.700人を超す将兵の命を奪った。

 


●住民保護に手抜かり
集団自決の悲劇

ガマと呼ばれる洞穴に逃げ込んだ住民たちが、もはや助かるすべはない、と絶望し自決する。
それも肉親同士が互いを手にかけて――そんな悲劇が沖縄戦下で相次いだ。
1945(昭和20)年4月2日、米軍の上陸地点にほど近い読谷村のチビチリガマでは83人が死亡した。
うち51人までが20歳以下の子供たち。
『読谷村史』はこう記す。
<奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。
煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。
そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった〉
具志川市の具志川城跡壕、慶良間諸島、伊江島——地上戦闘下、同様な集団自決は、 決して例外的な出来事ではなかった。
むろん、米軍の火力による猛攻の中で死んだ人々もいる。
しかし、なぜ、多くの住民たちが戦場の中に取り残されてしまったのか。


●「防衛召集」で総動員
この間、沖縄県民は軍への直接的な奉仕を求められてもいた。
沖縄では再三の「防衛召集」で計2万数千人が召集され、最終的には召集対象になっていなかった16歳や、45歳以上の者までかき集められた。
1945 (昭和20年3月には、師範学校や中等学校の男子生徒たちを「志願」というかたちで集めて「鉄血勤皇隊」を組織した。
師範学校と高等女学校の女生徒たちも、女子学徒隊として「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などに編成されて看護などにあたった。
鉄血勤皇隊は約1800人のほぼ半数が亡くなったとされる。根こそぎ動員は十代の若者にさえ犠牲を強いるものだった。

・・

そんな中、住民に報いることのできなかった悔恨を胸に逝った軍人もいた。
海軍の沖縄方面根拠地隊司令官として1945年6月に戦死した大田實中将は、
最期の時を前に、悲痛な思いを込めた一通の電報を軍中央に送った。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
その言葉は、「なぜ日本人は沖縄を見捨ててしまったのか」という重い問いを今もなお突きつけている。

 

 

画像・2012.12.18

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする