しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

真備町「岡田更生館事件」その2・・・「岡山県史」から

2020年09月13日 | 昭和21年~25年
岡山県史に「岡田更生館」の文字はある。
そこで何があった、なかった、とかいう記述はない。
同じ目的の施設である「少年の丘」の自慢話が載っているだけ。

なお、「真備町史」や「新修倉敷市史」に、岡田更生館の記述は一文字もない。

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「岡山県史 現代1」より転記


戦災孤児と浮浪者

戦災のため両親を失い、頼るべき親戚や知人のない子供たちや、中国東北部で敗戦を迎え、親を失った子供たちがそれである。
一時は浮浪児の数は約800人と推定された。
浮浪児は岡山市に集中し、殊に人の通行量の多い岡山駅周辺(ヤミ市含む)と残飯の入手が容易な津島の進駐軍兵舎の周囲に多かった。

1946年(昭和21)9月7日の合同新聞記事によれば、
浮浪児は乗客から弁当や残飯を貰ったり、自由市商人(ヤミ市の商人)の手先、売子となっているが、一般に労働を嫌い、
自由奔放な生活を送りつつその日その日の糧を求めている。
中には傷痍軍人が団長となり、孤児を手先に集団生活をしているもの、夜の女と一緒に生活している孤児、
妻が夜の女として働いて夫を養っている者等、生活は区々である。
と記している。

特に進駐軍兵舎付近に出没する者は、軍政部からも指示されて1946年9月15日から1948年12月までの間に43回にわたって一斉強制収容した。
収容された人員は延べ2672人、うち児童は1241人であった。
これについて合同新聞は、
県や市は年少者は各団体に引渡し、或いは本籍地へ送還する等の処置を講じてはいるが、逃走し再び流入し、
また彼らの巣窟も一定していないため、対策も意にまかせぬ実情にある。
と記している。

婦女子の多くは街娼をしており、重い性病をうつされている者もいた。
このような成年浮浪者との接触の中で、孤児たちの多くは堕落していった。

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この当時の、
戦災児・浮浪児・浮浪者収容施設

少年の丘 300 浮浪児
岡田更生館 300 浮浪者強制収容所
黒崎更生館 200 浮浪成年女子、引揚家族の一部
学童合宿所 100 戦災児
若松園 100 幼少児童
西川寮 100 浮浪者
その他 10~80人 9施設

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少年の丘




「少年の丘」と記載されているのは成徳学校の子供の家のこと。
その頃、この薄幸な子供たちに特別な関心を寄せ、良い環境を与えて、
健やかに育ててやろうと積極的に援助の手をさしのべた幾人かの人がいた。
当時の成徳学校校長の坂本先生もその一人でした。
巷にあふれる戦災孤児たちに”良い環境と教育の場を”との情熱を持って、
岡山県立成徳学校の一隅に、恩賜財団同胞援護会岡山県支部保護児童収容所「小年の丘」を併設されました。
時に昭和20年12月15日。

大人中心の施設「岡田更生館」に一時的に収容された子供たちに”子供には子供の環境を”との配慮から、
昭和22年4月64名の子どもたちが丘の保護児童収容所に移されてきました。
これが「第二子供の家」の発足でした。
9月になって、岡田更生館からさらに100名を超す子供たち移ってきて、第三、第四の子どもの家が生まれました。

これら四つの子どもの家で保護され、教育される子供たちは日に日に増えて、ついに200名を超す大所帯になりました。

「子どもの家」(保護児童収容所)は1948年4月に本校である成徳学校に合併吸収されたが、
県下各地から、この子たちと生きることに情熱を燃やした若者が次々と参加してきたこと、
後援会・母の会の結成されたことは長く記憶されるべきことである。




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