場所・山口県山口市
制作・作者不詳
設置・昭和55年
大内弘世
?~1380
南北朝時代の武将
周防の豪族出身、正平18年(1380)ごろ、幕府と和し、周防・長門両国守護となる。
私貿易で巨富を得たらしく、将軍近臣以下に銭貨や唐物を与えたという。
本拠を大内村から山口に移し、山口発展の基礎を築いた。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行
(ニコニコ大百科)
大内弘世(?~1380)とは、
南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。
1358年には隣国長門に侵攻し、北朝守護の厚東義武を九州に追い落として制圧したのである。
幕府は大内弘世に周防だけでなく長門守護職も認め、1363年に彼を恭順させることに成功したのである。
同年には山名時氏も幕府に帰順し、西国が幕府の勢力圏へと再び変じたのである。
こうして周防・長門をおさめた大内氏であった。が、幕府から距離を置くようになる。
息子である大内義弘とは、親子関係にしこりを残したまま大内弘世は亡くなった。
撮影日・2014.年7月12日
制作・作者不詳
設置・昭和55年
大内弘世
?~1380
南北朝時代の武将
周防の豪族出身、正平18年(1380)ごろ、幕府と和し、周防・長門両国守護となる。
私貿易で巨富を得たらしく、将軍近臣以下に銭貨や唐物を与えたという。
本拠を大内村から山口に移し、山口発展の基礎を築いた。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行
(ニコニコ大百科)
大内弘世(?~1380)とは、
南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。
1358年には隣国長門に侵攻し、北朝守護の厚東義武を九州に追い落として制圧したのである。
幕府は大内弘世に周防だけでなく長門守護職も認め、1363年に彼を恭順させることに成功したのである。
同年には山名時氏も幕府に帰順し、西国が幕府の勢力圏へと再び変じたのである。
こうして周防・長門をおさめた大内氏であった。が、幕府から距離を置くようになる。
息子である大内義弘とは、親子関係にしこりを残したまま大内弘世は亡くなった。
撮影日・2014.年7月12日
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