イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

放置ニンジン

2009-05-21 00:15:41 | 農業

  昨秋の11月にニンジンの播種をした。

時期としては明らかに遅すぎると思っていたのでトンネル栽培の作業計画を考えていた。

しかし、その間もなく12月に引っ越しという事態となりトンネルづくりが出来ず仕舞いとなってしまった。

冬季には4~5cmの霜柱が立つ我が大日農園では防寒用のトンネルなしでは、生育は不可能なことである。引っ越し荷物の整理もままならないうちに正月となり、結局はトンネル栽培を諦め、幼葉が出そろったニンジンを厳冬を前にして放置してしまった。

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 真冬の時期は露地栽培の畑では営農上の作業は殆どない。

しかし、収穫を終えた圃区には土壌の消毒を兼ねた石灰の鋤込みと酸素消毒を狙った耕耘が必要である。

”大日小力”(忠誠心の強いイワン・アサノヴィッチ愛用の3馬力にも満たない耕耘機のことである。)を駆使して耕耘作業をしなければならない。

鋤・鍬・万能で耕耘していた頃に比べれば随分と楽になったとは言うものの、なかなかの一仕事である。

真冬のさなか生育のスピードはぐんと落ちているが、あの放置してしまったニンジンが小さな葉を付けて頑張っている。

小力で耕耘しながらニンジンの畝を横目で眺め、少し申し訳ない気持ちになる。

3月になると春野菜の播種・定植が始まる。

ニンジンはと見ると、どうやら冬を乗り越えたようで小さな葉は寒さで冬枯れすることもなく並んでいて、少し大きくなっている。

ダイコン・小松菜・ほうれん草・シュンギクetcと圃区はどんどん埋まっていく。せっかく冬枯れすることなく越冬したニンジンではあるが抜き捨てざるを得ない。

と思って抜いてみたら結構と成長していたのである(写真)。

俄然、もったいないと思い持ち帰って食べることにした。

こんなことがあるから、カミサンはイワン・アサノヴィッチの畑作営農技術をいまだに認めていない。


「君子は器ならず」、わが町の市長

2009-05-13 02:22:44 | 日記・エッセイ・コラム

 孔子の論語である。

中谷巌(三菱UFJリサーチ&コンサルテイング株、理事長)の懺悔録である「資本主義はなぜ自壊したのか」の一節に引用されている。

この言葉の本来の意味は『支配者たる人間は一つのことだけに堪能であっては困る』ということであり、即ちエキスパートになる必要はないという意味である。当時の中国の階級社会におけるエリート論である。

ところが階級感覚の希薄な日本人は論語そのものを万人に共通する道徳、人生訓の書と誤解してしまった。と、中谷巌は解説している。

果たしてそうであろうか?君子という言葉を「支配者」とばかり限定せずに、「先頭に立つ賢い人」ぐらいに考えれば現代の世に十分に通用する言葉となる筈である。通用するどころか、イワン・アサノヴィッチは寧ろ重用されなければならない言葉に思えてならないのである。

わが町の市長・小池正孝氏は昨秋、無名且つ高齢且つ政治経験ならびに行政経験なしでありながら見事に”市民力”で二期現職を破り市長に当選した人物である。

『まさか受かるとは思っていなかった。』と小池さん自身が驚いていたぐらいであった。

各新聞社はそんな人物が当選した事実に驚きつつも、政治経験・行政経験の無さを暗に指摘していた。

直後の市議会でも野党は経験のない小池市長の言葉尻を突いたり、揚げ足を取らんと懸命だった。与党となった議員は連携しながらハラハラしながら(笑)、新市長を良くサポートした。

サポーター・後援会の中からも不安のあまり、経験のない新市長を憂う声が出てきた。

イワン・アサノヴィッチは『思っていたより上手く市長をやっています。政治経験や行政経験はいずれ付いて来ます、それよりもビジョンやスタンスを気丈に持ち続けて下さい。』と励ました。

”器”は市役所の中に一杯いる。君子は”器”にならなくても構わないのである。些末主義者は市長の経験不足を嘆くかわりに、市長の夢・ビジョン・愛を見落としている。


映画「グラントリノ」を観て 水天一碧

2009-05-11 15:11:39 | 映画

   新藤兼人(映画監督)・山田和夫(映画評論家)ら5人の評論を読んだ。

新藤兼人が、この映画のラストシーンは各人が各様に感じれば良いとしていた。山田和夫と鳥越俊太郎(ジャーナリスト)が主人公・ウオルト(C・イーストウッド)の朝鮮戦争時に少年兵を殺戮して勲章を貰ったことへの原罪意識とトラウマに触れていた。

     ウオルトは『米喰い虫のイエロー』などと燐家の東洋人を毛嫌いしたりする、一見は人種的偏見の持ち主である。のみならず、黒人・ヒスパニック系などに対する人種的偏見も同様であるが、卑怯な白人青年や祖先・先人を敬わない肉親も容赦なく軽蔑する。

頑固で単刀直入なものの言い方をする。しかし、真摯な他人の声に耳を傾ける度量とか公平感・正義感も併せ持っている男である。即ち肌の色如何に拘わらず、正義を踏みにじり弱者を苦しめる強者の卑怯や非道を許さないと言うことである。

鳥越俊太郎が『人種間の対立と交流の中、共に生活していくうちに根っこの部分が馴染んで行くこともあるというのが、この映画のメインテーマになっている。』と良いところを突いていた。

…ラストシーン、ウオルトは自分自身の人生の中でさんざん用いた銃やガンによる物事の解決方法を今度は執らない。

エンデイングのサウンドトラックが素晴らしい。

ピアノの静かな旋律でエンデイングテーマ曲が流れて、配役のテロップが映し出されてくる。

画面は都市近郊の海岸通りのハイウエー。

静かに車が流れて行く、大きな緑の並木と外洋から絶え間なく押し寄せる柔らかな波。

甘くかすれた若い男性の歌声。あのウオルトが愛したグラントリノも心地よいエンジン音と共に走り去る。

外洋ははるか遠くの水平線の彼方で青い空と一体化する。

その時イワン・アサノヴィッチは、友人であるわが町の市長・小池正孝氏が好んで使う言葉”水天一碧”という言葉を思いだした。

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出遅れ、ジャガイモ

2009-05-06 18:38:14 | 農業

 我が大日農園のジャガイモの芽が出そろった。3月中旬に植えたものである。

種イモ自身が土と陽光温度を察知して芽を出すのである。

なにごとも管理社会の中で規則だマニュアルだと小うるさい世界で育って来た身としては、種イモを始めとした野菜植物の”自然力”に、毎年ながらおどろかされ感動する。

今年は暖冬で推移したので、3月中旬の植え付けでは少し遅すぎたきらいが在る。しかし、梅雨が例年どおりのスタイルで推移してくれれば問題なく、梅雨明け間近に収穫となる。

この先は空梅雨ではなく平年並みの梅雨を期待するのみである。

”期待”以上のことを望んではいけないのである。それはイワン・アサノヴィッチが未だ兼々業農家でプロとしての裏技を修得していないからなどと言うことなどはなく、お天道様に逆らうという畏れ多い”所業”(笑)となるからである。                                                                                                

       024 (4月15日撮影)                                                                                                                

家庭菜園(イワン・アサノヴィッチはこのレベルを通過して,まさに兼々業農家の域に達していると自認している。それは誤認だ!という声が聞こえてきそうである。)を始めて19年が経過したが、学んだことの第1は「お天道様には逆らえない」ということだった。路地の畑作は取り分けのことである。

 人智・科学は大宇宙の摂理の前には無力であり、恰も釈迦の掌中の孫悟空みたいなものである。日々是好日と生かされている我が身を感謝するのみである。

ちっぽけな人智は農業を第1次産業などと分類して生産性の低い、即ち儲けの少ない産業と位置づけている。

翻って見るに、”高度”な筈の人智のもとで展開されている原子力は北朝鮮との軋轢をもたらし、近代経済学・金融学はヘッジ・ファウンドに依る経済恐慌を招来し世界中の多数の人々を不幸のどん底に落とし込んでいる。

説教くさい話しは止める。

いずれにせよ、梅雨明けの収穫を楽しみに待つしかない。その頃『イワン・アサノヴィッチ!いま畑では何を作っているのですか?』と、とぼけて訊いてくる人が現れそうである。(笑)