イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

酔いがさめて、・・・泣けました

2017-06-28 01:10:09 | 日記
 イワン・アサノヴィッチは最近、町民ミュージカルの会員になりました。友人のフーさんが熱心に、それこそ三年越しで会員になるようにと勧誘してくれたからです。

イワン・アサノヴィッチは現役のころ自治労連の某県職労の役員を20年間していました。だから本部の大会や支部の集会などで大勢の組合員の前で演説することは慣れていましたが、大勢の前で歌ったり踊ったりすることはカラキシ駄目な性分でした。

今年も9月の町民ミュージカル本番発表会を前にして稽古が始まっております。
先日、稽古のご苦労さん会がフーさんのお宅で開催されました。
ビールやおつまみを持ち寄り、2000円会費ですが、野菜・肉をスーパーで買ってきて手料理で自前の飲み会なのです。

 飲み会の席でイワン・アサノヴィッチはAIさんの隣に座りました。
AIさんはイワン・アサノウィッチより少し年上の方で、いつもニコニコとして色んな活動をされている方です。
たぶん、嫌な事の多いこの世の中を生きていくのだったら、一層のこと笑って過ごした方が良いだろう・・・と割り切っているかの如く、いつでも何処でもニコニコとして目を細めているのです。

宴席ではフトしたことで、数十年前に事故で亡くなられたAIさんの一人息子のことに話が及びました。亡くなられた息子さんは21歳だったそうです。
まさにこれから!と言う時に亡くなられたのです。
AIさんはニコニコしながら話を続けます。
『息子はちょっとモテたので、女性との付き合いも多かったのヨ。・・・だからね、或る日とつぜんに付き合っていた女性が息子の子供を抱いて現れるのじゃないかと思ったりしてたのヨ。』 AIさんの顔はニコニコといつものように目を細めていました。

 そうなると少し厄介なことになるのではないか?とイワン・アサノヴィッチは思いましたが、当のAIさんは現れなかったことが残念だったと言わんばかりの口調でした。
翌朝、酔いの覚めた頭で昨夜のAIさんの話を思い出しました。
AIさんは、きっと抱っこして現れた子どもを息子さんの形見として引き取り育てようとしていたのです。 ・・・少し泣けました。

懐かしの野川和一さんに携帯電話をする

2017-06-21 00:57:01 | 日記
大阪に転居された野川和一さんに携帯電話を掛けた。
突然の電話の為だったのであろうか、野川和一さんは直ぐには状況が把握できず暫し驚いていた様子であった。 しかし直ぐに気を取り直し、二人はいつもの調子で喋り合う仲になった。
私は母の腰痛を引き合いに出して足腰を大切にするように喚起した。野川和一さんも、承知をしていてそれがために、今は住居から近くの服部 緑地公園の散策を毎日30分以上しているとのことであった。介護施設に入居した野川和一さんは要支援度1と言うことなので、施設長の名刺を携帯すれば外出も自由とのことだった。
入所者全体90名の中で、そんな扱いは自分一人だと言っていた。それは決して自慢げに話をするわけでもなく、自分自身が至って健康な状態であることをしみじみ感謝しているのだと言っている風に聞こえた。
イワン・アサノウィッチと野川和一さんとの付き合いは、顔と名前は9年前ぐらいから承知していたものの、二人だけの対談とか酒を酌み交わしながらの会話をするようになったのは、つい3~4年前くらいからだった。
イワン・アサノヴィッチが60歳を超し、野川和一さんが80歳代に入ってからのことである。だから千葉でのお付き合いは決して長いものではなかったが、人生の出会いの素晴らしさを感じさせてくれる方であった。しいての共通点を上げれば、彼が農水省・イワン・アサノウィッチが県庁で、二人とも労働組合の役員経験者であったと言うところだろう。二人とも共産系の労組役員であったために人事では不当な任用差別を受けていたことも似ていた。しかし、そんなことは二人の仲を見渡しても些末なことである。電話の終了間際に、野川和一さんから突拍子もない言葉を頂いた。
『・・・イワン・アサノヴィッチ!あんたは “大物”だね。うん・・私はそう思うよ。』望外な誉め言葉を頂いてしまった。
突然の事態だったので、野川和一さんにはまともに返す言葉もなく 『あ、いやあ~そんなに褒められちゃうと弱りますよ・・・。』と返すのがやっと。
(この一言は実に嬉しく、いま思い出しても嬉しく々々々思い起こされます。)
総じて野川和一さんが相変わらず元気であることが覗えた。
89歳という高齢であるだけに、つくづく安堵した。そして野川和一さんの少し嗄れたアノ声・早口な喋りを久しぶりに聞くことが出来たことが、懐かしく思えてしまった。一方でもう二度と四街道の居酒屋で、野川和一さんの声を聞くコトが叶わないという言いしれぬ寂しさが込み上げて来た。

痛まし過ぎる。火災で幼児死亡、2児重体

2017-04-21 00:11:57 | 日記
 東京新聞(2017年4月20日)報道によれば、埼玉でマンションの一階で火災が発生し、焼け跡から乳幼児三人(5歳・4歳・8か月)が死亡・重体で発見されたとのこと。
時間は夜の10時まじかのことだった。このマンションには母親が居るのだが仕事で不在だったそうである。
8か月の赤ちゃんが居て母親が仕事とはどういう事なのであろうか詳細は不明だが、同居していた兄弟と言っても4歳と5歳のまだまだ完全な幼児である。

 イワン・アサノウィッチは三人の子持ちである。
夫婦共働きで30年前は、ちょうど今回の火災事故の在った家庭と同じような年齢構成だった。
しかし、ゼロ歳児が居たころに両親が共に夜間不在という時間帯を作ったことは一度もなかった。

 記事によれば、父親は居ないとのこと、即ちシングルマザーで三人の乳幼児を育てていたことになる。
経済的な理由であろうか、夜間に母親が三人の乳幼児だけをおいて仕事に出ていたと言う驚異的な生活だったのである。いずれにせよ詳細な事情は不明である。

 この記事を読んで、多くの読者は私と同様に痛ましすぎる火災事故に心が曇り、何とかならなかったのかと地団駄を踏んだに違いないでしょう。
現代は深刻な少子化だと言われている。結婚しない若者が増えていると言う。働いている20代の若者の50%がワーキングプアーだともいわれている。
そんな中で、三人の乳幼児を抱えながら夜間に仕事に出ていた若きマザーに過酷すぎる火災事故が降りかかり、ここまで育てて来た我が子を失おうとしている。

 経済大国だ、これからは福祉に政策重点化していく、とか耳障りの良い話が政府からは尤もらしく流されてくる昨今。
痛ましすぎる一国民の実態を前にして「自己責任だ」と言い切れるのだろうか?

初孫のミユウは、心の永遠

2016-08-07 19:00:27 | 日記
 イワン・アサノヴィッチの初孫・ミユウは、早いもので小三になりました。
自身では事実上の年子、三人の父親としての育児を経験しています。
しかし、“初孫“と言うものは祖父・イワン・アサノヴィッチにとって、独特の存在であり今もそのとおりなのです。
「育児の責任が無いから孫ってカワイイのだ。」と人はいいます。
もひとつ付けくわえるならば、孫の代ともなれば祖父母の側にも心身ともに育児に対する余裕が生まれているからなのでしょう。
イワン・アサノヴィッチ自身が三人の乳幼児を育児したときは30代前半でした。
勤め人としては、駆け出しのころで、やたらと仕事が忙しい時期でした。
核家族共働きだったのでイワン・アサノヴィッチは家事も手伝い、三人の布オシメを洗ってベランダに干し終わるころは、いつも夜中の12時近くになっていました。
三人の年子を飲ませ食わせ寝かせするだけで精一杯だったのです。
だから乳幼児の可愛いらしさを味わう、余裕が余りなかった、と言うのが実情でしょう。
今ではお陰様で孫も四人となりました。
初孫のミユウは小三になったにも関わらず、相変わらずカワイイのです。
実弟は結婚が早かったせいもあり、初孫はもう高校生になっています。
しかし、初孫は幾つになってもカワイイものだと漏らしていました。
やはりそうか・・・とイワン・アサノヴィッチは変に納得しているのです。
学校も夏休みとなり、ミユウが一人で我が家に泊まり込みでやって来ますが、幼児の頃の面影は当然ですがもうありません。
ただ・・そこに今も存在するのは“無償の愛”とでも言うものなのでしょうか。
名前の呼び方は「ちゃん」付けから、敢えて呼び捨てに変えました。
しかし、ミユウは相変わらずイワン・アサノヴィッチを「ジイジ」と呼びます。
無償の愛なんて、中々この世の中にはあるものではない。とミユウも成長して行く過程で程なく気づかされるでしょう。
そうなって行くのが当然と思いつつ、そうなっては欲しくないと言う矛盾した考えがイワン・アサノヴィッチの心の中で葛藤・混在しています。
ミユウは身長のある子でクラスの中では、時にお姉さん的な役割をしなくてはなりません。・・・たぶん教師の目から見て、その点が不十分なのでしょう。
通信簿には、少し幼稚なところが在ります。と記載されていたそうです。
ジイジ的には、支障のない範囲で、少々幼稚でも構わないから、無償の愛は存在するのだといつまでも思っていて欲しいと心のどこかで願っているのです。

元同僚の逝去に、感謝と寂寞の念

2016-07-23 23:37:13 | 日記
  現役時代から続いている演劇鑑賞サークルがあり、久しぶりにメンバー五人全員が揃って集まった。そのうち二人は現役なのでイワン・アサノヴィッチは元職の近況などを聞いたりすることがある。

今日はこの間に物故となった元同僚の方々の名前があがった。
『それほど高齢でもないのに、Aさんも亡くなったのか・・』
Aさんに纏わる公私に亘る思い出話がサークルのメンバーから出された。
少し驚いた事は今回は退職後、歳を経ずして亡くなっているOBが少なからずいることだった。

そしてイワン・アサノヴィッチはM氏も亡くなったと聞いて暫し茫然となってしまった。
このM氏はK事務所時代の上司(所長)だったのである。
M氏とは本庁・出先の担当者同士としての業務上の付き合いは数十年前から在ったのだが、或るほんの一つ二つの切っ掛けが元で、双方が言葉には出さない信頼関係が出来ていたのである。
イワン・アサノヴィッチの某県庁時代の晩年は年下の所長の下で働くことになった。
続けて四人ほど年下の所長の下で働いたが、四人ともじつに善き管理職者だった。

そして最初の年下の所長がM氏だったのである。
M氏とは具体的に業務遂行上のことで、会議や協議・打ち合わせをしたり現場監督の同行などアレコレとやり合ったものだが、心のベースに在ったものは双方の信頼と敬意だった。
普通であれば所長とヒラの担当者が直に業務上の事で頻繁に話し合うという事は皆無に近いのである。
或る日、工事の設計・積算の細かな事でムキになってM氏が言ってくるもので、当方もムキになって返したりすることも在った。(笑い)
反対にズバリとイワン・アサノヴィッチからM氏の非を指摘した時などは、一瞬まっ青になりながらも彼は素直に改めたこともあったりした。

K事務所時代の付き合いは一年という短い期間ではあったが、M氏とは濃い付き合いだったと述懐の心境だ。
感謝と寂寞の念を添えて、ご冥福を祈りたい。