そらみつ みそら file  ~To Provide You With Unity~

こころとからだについて、気がついたことを書いていきます。
『』の中の言葉は、見えない世界から伝わってきたものです。

断食を終えての変化 2

2024-07-05 17:09:26 | Weblog

断食明け2日目。

やはり朝は早い。

そして身体を動かしたい。

昨日と同じ欲求ながら、一つ大きく違ったことがある。

僕の身体は人工を求めず、どうしても自然の中を歩きたくなったのだ。

 

僕の自宅のある甲府盆地は、すぐ北側は標高400〜800メートルほどの山が続いている。

それらは深く入れば昇仙峡などを経て瑞牆山、金峰山などの名山につながり、東は秩父山系に連なる。

自宅から10分余り車を走らせればいくつかの低山の登山口に着く。

だが、それをわかっていながら調べるのが億劫で、山歩きには踏み込まずにいた。

 

その億劫さを吹き飛ばすほど、断食が僕を行動的にしたのだろう。

思いついてから30分後には家を出て山に向かった。

鹿が登山道を横切るのを見ながら40分ほど山を上がり、別ルートを使いながら帰ってきた。

驚いたのは、急坂を早足で上がっても息が上がらないことだった。

 

その翌日は所用で時間が取れなかったが、自然を求める気持ちは途絶えない。

次の日(断食明け4日目、普通食スタートの日)は違う登山口からさらに少し踏み込んだ山歩きを2時間程度。

富士山の眺望を恵みに気持ちはさらに上向く。

 

そして。

それから8日間、連続して早朝の山歩きを続けてしまったのである。

全て別ルートで、登山というほどのものではないが、11座の山頂を踏んだ。

身体が好調だったのももちろんだが、精神的に前向きになるからこそ毎日の行動も早くなったと自覚している。

 

8日も続ける間には外食もあり人との会食もあり、食事量も断食明け当初より増えていった。

そして、量が増えてきたなと意識された頃、急坂を上るのに息切れを覚えるようになってきた。

そのわずか数日前、身体のどこにも軋みや力みがなく軽く、思うままに動けた快適さを思うと、食事を減らした生活をどうやって維持できるかを工夫してみようという気にもなってくる。

 

 

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三日間の断食に入ったのは4月22日のこと。

そして25日から断食が明け、8日連続の朝の山歩きをしたのはゴールデンウィーク後半までの間である。

つまり、今はそれから2ヶ月が経ってしまっている。

記事をアップさせるのにこんなにも時間がかかってしまったことを大変申し訳なく思う。

 

さて、現在は今まで通りの一日二食の生活がほとんどだ。

だが、断食前と比べて食事の量は減っている。

「もうこの辺まででいいな」という気づきが浮き上がってきてストップをかけることが容易になった。

人との食事の時は、その声を無視してそれ以上食べてしまうこともなくはないが。

 

食事量が少なくなれば、当然元気を保ちやすくなる。

一方で、これから会う人の状況と「同期」してしまうせいで、いかに気をつけようと強引に波に飲み込まれることもある。

この場合、そうであることがなんとなくわかるので、期間限定の不自由と腹を括ってやり過ごし、気にはならない。

 

山歩きについては習慣になった。

出張中は身近に山がないので、気が向いたからとすぐに取り掛かることもできない。

だが、自宅滞在中は早朝にさっと支度をして思う場所に車を走らせ、景色の良いところまで歩いて登ったら、そこで1時間程度新聞を読んだり仕事の段取りを組んだりして、帰りは主に走り降りる。

自宅に帰り着くのは大体午前8時前だ。

新規の場所を求めるのは余裕のある時で、ルーティンとしては数ヶ所の中からその日の気分と時間の余裕の有無で選ぶ。

若い時より当然体力は落ちているはずなのだが、筋力などではない力が昔より充実し、山の中を走り回っても疲れない。

 

断食の効力は、注意すれば長く続かせることができる。

断食の時に得た気づきに従い、胃腸や内臓の感覚を信頼し、脳が作り出す声を抑える。

脳はすぐに欲望を生み出し、間違った選択に目を向けさせる。

断食は脳の主張を抑え、本来の身体重視に戻すはたらきがあるので、ちょこちょことうまく生活に組み入れると良いと思う。

コメント
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