倚りかからず
茨木のり子
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

『倚りかからず』(茨木のり子/筑摩書房/2007)
自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

「倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ」
「倚」と「椅」の対比と言葉が好きです。

「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
も好きな言葉です。

ちょっと疲れたときには、
野の花を愛で、
すきな詩を口ずさみます。
最後まで読んでくださってありがとう

「一期一会」に





送ることば(餞のことば)として、
この詩を宣ったかたがいました。
そのときそれを耳にして、
私はなぜか大笑い。
後日、とある機会に、
それへの返事をメールにしたためて送りました。
たしか、
「自分独りでまもりきれるほど自分の感受性は、
あまっちょろいものじゃないんだよバカタレが、
といいたい」
だったかと。
なぜ、「こそ」ではなくて「くらい」なのか、
どうして、「自分のせいにはするな」ではないのか、
なんてことを考えると、
「ここ」と「そこ」との距離感からか、
頭がクラクラしました。
>「自分独りでまもりきれるほど自分の感受性は、あまっちょろいものじゃないんだよバカタレが、といいたい」だったかと。
なぜ、「こそ」ではなくて「くらい」なのか、
>どうして、「自分のせいにはするな」ではないのか、なんてことを考えると、
「ここ」と「そこ」との距離感からか、
頭がクラクラしました。
あなたのコメントを目にして、私もなぜか大笑いしましたよ(大笑)。
自分に喝をいれなきゃと思います。
自分に甘くなりがちです、疲れてくると。
お二人のコメント、ふわっと読ませていただきました。
↑お蕎麦、おいしそう。
いつもざる蕎麦を頼むと、二三口で終わってしまって
物足りないのですが、これなら存分に食べたぁ~と
思えそうです。
>時々、わたしもこの詩を読み返して
自分に喝をいれなきゃと思います。
自分に甘くなりがちです、疲れてくると。
茨木のり子さんの詩を読むと、背筋がシャンと伸びるような気がします。
『わたしが一番きれいだった時』もいいです。
>いつもざる蕎麦を頼むと、二三口で終わってしまって物足りないのですが、これなら存分に食べたぁ~と
思えそうです。
老舗はおいしいのですが、高くて料が少ないのです。山形の板蕎麦はどでも量が多くて、「薄」がお勧めといわれます(笑)。
このお店も。ザルそばは「板そばの6割」と書いてあります。その4人分の大板蕎麦はひとり分600円程度ですから、めちゃお得で、食べたぁー、という感じがします。
「なぜか大笑い」していただけて幸いです。
ところで最近知人がこんな詩を。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/4511/ebattinonageki.htm
こちらの「いま・ここ」です。
当事者ならでは、の「詩」ですね。
ぎりぎりのところで生きている人の言葉は、心にどんと響きます。