福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

自分のことを知らない自分(2)

2018年03月05日 15時14分54秒 | コラム、エッセイ
 誰もが教育や文化に感化されるとステレオタイプ的に日常の感覚を受け流すようになる。感覚を純粋に受け入れる代わりに約束事のベールをかぶせてしまう。

 この過程で大きな何物かが失われる。
 この約束事には、言葉が大きな役割を果たす。感覚が言葉で代用されて表現された瞬間、感覚の新鮮さは失われる。「言葉は感覚を一撃で痲痺させる」と言われる所以である。

 私は美術館で絵を見たあとに、あるいは音楽会等が終った際に、その作品や演奏について語ること、聞くのも大嫌いである。感動を、あるいは抱いた感じを言葉で表すとその途端に白けてしまう。

 太陽は本当に赤いのか?
 ひばりが歌った「真赤な太陽」は欧米人には理解されないだろう。欧米の子供たちは太陽を描くときに赤くは塗らない。彼等には太陽は黄色いのである。「上を向いて・・」が「すきやきソング」として流行するのも文化や教育がつくりあげた感覚痲痺の結果である。
 私は太陽を眺めることが好きだが、太陽が赤いと感じたことはほとんどない。でも、自分では「太陽は赤くない・・」と主張はしない。

 真の感覚に近いのを教えてくれるのは芸術家である。芸術家は固有の感覚を持っているがために存在し得る人達である。純粋に感じ取ることが出来、かつ、それを表現する技能をもつ芸術家、彼らに頭を下げるしかない。感覚器そのものは天才芸術家も凡人も大差ないにもかかわらず、である。彼らとは感受性が違う。
 だから、私は絵画とか音楽とかを好む。私が文化とか教育の中で失ってしまった感覚を、ゆるぎなく持ち続けている芸術家の作品を通じて、ことの本質の一態を知る歓びがある。

 色の種類はどれだけあるのか?人が見える色は見える条件が整っていれば750万色、通常の状態では187万5000色とも言われるが、私は区別出来ないし表現出来ない。ドイツのファーバーカステル社に120色セットの色鉛筆セットがあるが、私の色感覚はこの程度がせいぜいである。 

 われわれは知らず知らずに情報を圧縮してはいまいか? 
 私は自分の独自の感覚を尊重する自由を謳歌しているか??
 情報の圧縮は、ある面では「現実」を「まともに」生きてゆくための悲しい宿命的英知であるが、それにしても、人生全部その宿命に捧げてはならない、と思う。

 自分の声、毎日毎日聞いている。これならよく知っていると思うが、他人に聴かれる声と自分に聴こえる声は同一ではない。自分で聴く声は空気振動だけではなく、顔面の骨を通して達すた振動が重なったたものである。一方で、他人が聴く声は空気振動だけである。したがって、自分の声と思っているものは他人が聴く自分の声と大分違う。

 自分のことを知らない自分が情けない。
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