福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

現代日本人の死生観(6) 延命治療(4) 尊厳死(1) 尊厳とは何か

2024年08月31日 06時25分27秒 | コラム、エッセイ
 患者本人が「自らの意思」で延命治療を受けずに、自然な最期を迎えることを一般的には「尊厳死」という。私自身は尊厳という言葉が嫌いなので「自然死」と称している。

 何で「尊厳」という言葉が嫌いか、というと意味することがあまりにも素晴らしく厳かであるから、私にとっては近寄り難い言葉である。
 尊厳とは国語辞典には「尊く厳かなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま」とある。よく分からないがなんか素晴らしいことのように思う。私は「尊厳」という言葉を聞くだけでも気恥ずかしさを感じる。「基本的な人権」で代用できる。
 尊厳については明快な定義はないようであるが、日本国憲法において「個人の尊厳」がうたわれている。また国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約にも記載されている。

 果たして、私にも尊厳があるのか??甚だ疑問である。
 私は自分自身に「尊厳」と言われるような「厳かさ」があるとは思っていない。「基本的な人権」はあると思うのだが・・・。

 医療の世界では「尊厳」という言葉はあまり使われることはないが、看護・介護の分野では「尊厳」という言葉が頻繁に出てくる。あまりにも軽い使われようだ、と思う。それだけ尊厳が失われやすい業務だから、と私は思う。

 介護関係の某教科書には、「介護において重要視されるべきは、利用者の人間としての尊厳です。人間の尊厳とは個人が生きている存在として生命・生活が尊重される価値のあるものです。すべての人が持つ人として生きる権利」ともいえます。
 日本憲法の第13条では「すべて国民は、個人として尊重される。」と、個人の尊厳に対する最大の尊重が必要であることが規定されています。日本の最高法規で権利が守られることからもわかるように、その人らしい生き方や生活をするための最も基本的で侵し難い権利なのです・・・・」、とある。実に立派だと思う。

 人間の尊厳は生涯において重要である。
 だが、国だって一人一人の国民に尊厳を意識した政策をしていない。政治の中では主権があるべき国民は「反尊厳的」扱いを受けている。

 また、尊厳を感させるような人は居ない・・・私はまだ会ったことはない・・・のに何で「患者の死に際にだけ突然尊厳が強調されなければならない」のか?私は疑問に思う。私は死を迎えようとしている患者に「尊厳」を感じることはない。

 最近、「尊厳死」がやたらに強調されてきている。ネコも杓子も「尊厳死」である。

 人の死に関わる微妙な問題なので簡単に結論は出ないと思う。死生観が変わりつつある日本でも、「尊厳死」を法的に認めるという国民的な合意は得られにくいと思う。


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現代日本人の死生観(5) 延命治療(3) 「人生会議」!!!変な会議?? 私は疑問

2024年08月30日 11時16分26秒 | コラム、エッセイ
 「人生会議」とは、厚労省が進めようとしている高齢者の終末期医療に関連する会議である。

 高齢者本人が望む医療やケアについて元気なうちに考えて、家族や医療ケアチームと話し合ったり、共有したりする取り組みを指すもので、「Advance Care Planning(ACP)、アドバンス・ケア・プランニング」の名称もある。

 延命治療の選択は本人の人生観、死生観に深く関わる問題である。
 本人が元気なうちに、その時が来たらどのような最期を、何処で迎えるか、予め話し合ってくことはとても大切なこと。本人の意思を尊重するうえではもちろん、家族が必要以上に迷ったり苦しんだりしないためにも必要な会議、とみなされている。

 延命治療をしない場合、最期を迎える場所ついても考える必要がある。自宅で過ごしたり、サポート体制の整った施設で最期を迎えたい・・・など、さまざまな考え方がある。

  それは分かるが、本人と家族の間ですら最期を迎える時の話し合いがほとんどされていない現在、本人、家族、医療ケアチームと合同で会議を開き高齢者の最期の姿を論じ合うことなど到底できるはずがない。「人生会議」などという、耳当たりのいい名称の会議で、多職種で高齢者の死に方を強要することになりかねない。

 自分の人生の終末は自分だけで決めるべきである。決して難しいことではない、何しろ時間はったっぷりあったのだから。

 その際に情報が乏しければ本人に十分与えればいい。最期を迎えようとしている本人はもとより高齢者をかかえる家族も、人生の終末をどのような場所で迎えるか、迎えさせたいか、予め準備しておくべきである。

 高齢者は、ある日突然高齢になるわけではない。浦島太郎伝説とは違うのだ。

 最期を迎えるであろう年齢に達するまで70年、80年も生きてきている。その間数多くの人生経験を重ね、「いのち」に関する経験も少なくないはず。戦争も経験しているし、日本が貧しくて十分な医療を受けられずに死んだ友人や親戚を数多く知っているはず。

 そのことが生きた教科書になっているはずと思う。なのに、現実がそうでないのは憂うべきことなのだ。


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現代日本人の死生観(4) 延命治療(2) 最終段階における医療・ケアのガイドライン 私の宣言

2024年08月29日 05時20分30秒 | コラム、エッセイ
 延命治療に関して判断に困る問題に対応するため、厚労省では治療指針を作っている(改訂版平成30年)。
 それには延命治療は「本人による意思決定が基本」としている。

 本人の意思確認ができない場合は、家族が判断することを許しているが、家族とてなかなか判断ができない。大抵は延命治療を望む。だから、望まない延命治療を避けるためには本人が元気なうちに予め家族や主治医に意思伝達をしておく必要がある。でなければ、生きながら地獄を味わうことになりかねない。言うは簡単だが実行は困難である。

 私の場合を例として提示する。

 私は2007年8月に膀胱頚部切開術+憩室切除術を受けた。あれから17年も経つが、50年近く悩んできた排尿困難は術後現在に至るまで問題がなくスムーズである。この手術で私の人生は一変した。

 当時、中通総合病院の院長であったが、手術の経過が十分予測できないために副院長に管理者の代行をお願いした。

 その際、私から代行に「お願い」を提出した。
 以下がその文書である。これは今日まで改定していないが今でも同じ考えである。

 その後も種々の疾患に罹患し入院治療を受けたが、その度ごとにこの内容について家族に再確認し、不測の事態に備えてきた。

■2012年10月腸閉塞 内ヘルニアで腹腔鏡手術  
■2012年11月心原性脳塞栓 後遺症なく改善 
■2017年9月右下腹部鼠径ヘルニア手術
■2022年10月大腸憩室から出血。内視鏡的止血術
■2023年4月急性鬱血性心不全
■2024年5月不明の食欲不振 十二指腸潰瘍

 幸い、今まで不測の事態は生じていないが、膀胱手術の際にちょっとしたトラブルがあった、という。鎮静剤を投与後手術室に運ばれたが、途中廊下で呼吸停止し、麻酔科医が呼ばれ気管内挿管を試みたがうまく入らず、呼吸器科医師が呼ばれ、気管支鏡を用いて気管内挿管が行われた、という。私は意識がなかったのでこの過程を全く知らないが、私の診断名に「気管内挿管困難症」と追記された。

 大事には至らなかったが、このようなアクシデントは医療上稀ながら生じうる。

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現代日本人の死生観(3) 延命治療(1) どこから延命治療??

2024年08月28日 04時29分37秒 | コラム、エッセイ
 自分の最期は自分で決めたいと考える動きも出てきたというが、現実にはまだまだ。ほぼ皆無である。

 助かる見込みのない患者の治療の選択については、私は患者と十分に対話を繰り返す中で「患者本人の想いを最大限尊重」したいと思っている。しかしながら、「延命でなく苦痛の除去を中心とした治療を受けたい」と明確に意思を示した患者は10人に満たない。その様な場合でも家族の意向と一致せずいつも間で悩んでいるというのが現実である。

 多くの患者の場合、本人の意向が分からないまま延命治療が始められ、長期間維持されることが多い。

 「どこからが延命治療なのか」、私は自力で生きられない状態に至った患者に対する全ての医療行為が延命治療に相当する、と考えている。

 医療の中で救命措置とされるものがある。これは迫り来る患者の死を回避するために緊急的に行われる医療のことでこれも延命治療の一つである。これらは慢性的な病気の進行による衰弱などでは適応されない。
 具体的には以下を含む。
●心肺蘇生
●気道確保と人工呼吸器装着
● 点滴    人口透析療法、輸血 など
 
  一般的に延命治療は衰弱や病気などで生命の維持が難しくなった患者に対して、回復ではなく「延命」を目的に治療することを指す。
 具体的には以下を含む。
●栄養や薬品などの投与。
●酸素療法など含む呼吸のサポート、
●リハビリテーションや清潔保持など。訓練士や看護や介護で褥瘡予防や感染症予防、身体拘縮等を防ぐ。

 患者本人が明確な意思表示をしていることはむしろ稀で、その場合には家族が延命治療の選択を問われることになる。

 患者が元気なときに「延命治療を受けたくない」等と意思を示していても、いざその状況になると家族がためらい、延命治療が開始されることも少なくない
 多くは延命治療と延命措置とを混同している場合が多い。
 
 患者家族が自分や家族の死について予め考えていることは稀である。

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現代日本人の死生観(2) 家族が決める高齢者の人生の締めかた

2024年08月27日 10時21分47秒 | コラム、エッセイ
 長い闘病の果てに、あるいは突然の事故で、家族が生死の淵をさまよう。医師から「助かる見込みはありませんが、この先の治療をどうしますか?」と言われたとき、親として、子として、配偶者として、どんな判断ができるのだろう。
 平穏な日々には想像もつかなかった過酷な選択が求められる。 

 結論を出すために与えられた時間はそう長くはない。

 家族が延命治療をどう考えるか。自分自身の問題として最期を迎えたらどう生きるか。遠い先の話と思っていても、現実の問題として何時やってくるかは分からない。今日かもしれない。

 普段からこの問題を考えてこなかった本人、家族の反応はほぼ決まっている。「できるだけ長く生きたい、生きててほしい」に帰着する。多くの患者・家族たちはよくわからないまま延命治療を求めてくる。

 延命治療といっても色々なレベルの方法がある。それについては後述する。
 どれを選ぼうと延命治療の行末は一般的に悲惨である。

 延命治療がもたらす患者の変化(改訂版)

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  1. 延命治療開始とともに急性期病院の治療対象者から外れ、療養型病院、高齢者施設に転入院、転入所を勧められる
  2. 対象者の多くは生活機能が低下し、ベット上のほぼ寝たきり、全介助状態となる
  3. 栄養を注入するチューブ等を不用意に抜かれないためにベットに手足を縛られる
  4. その結果、全身の関節が拘縮し身体が縮む
  5. 体位返還もままならず、褥瘡ができやすくなり痛みが出る
  6. 自力で喀痰喀出ができなくなるために慢性の気管支炎が生じる
  7. 喀痰の吸引が頻回になり、時には気管切開を要する
  8. 誤嚥のために肺炎、気道感染症が生じやすい
  9. 呼吸機能が低下し酸素吸入が必要になる
  10. 気道感染、尿路感染、胆道感染で高熱を発し抗生剤療法が必要となる
  11. 各種抗生剤に耐性を示す耐性菌感染症で治療効果が乏しくなる
  12. 精神活動の一層の低下が生じる
  13. 認知症は一層悪化する
  14. 不適切抗利尿ホルモン分泌が生じ低Na症になり意識障害が進む
  15. 栄養状態が悪化し、免疫能低下状態となる
  16. 全身に浮腫が生じる
  17. などなど
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 延命治療を受けてよかった・・・・という患者もいるかもしれないが、多くは徐々にコミュニケーション能力低下するため、私はそのように述べた患者にあったことはない。
 延命治療を受けさせて良かった、という家族もいるが医師としては複雑な気持ちとなる。 
 
 延命治療の行く末はこの世の地獄(?)と思う。
 患者の側の気持ちは推定するしかないが、医師の立場から見れば多くの事例について必ずしもそう思えない。

 延命治療の行く末はこの世の地獄(?)と思う。



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