福田の雑記帖

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人間はおしなべて共同幻想依存症?? 吉本隆明氏の著作を読んで

2018年03月07日 17時25分00秒 | コラム、エッセイ
 共同幻想論とは、思想家吉本隆明(1924年-2012年)氏が説いた国家論である。
 当時の国家論は、集団生活を成立させるために国家を作ったという社会契約説や、国家とはブルジョワジーが自分の既得権益を守るために作った圧力機構であるという国家論が一般的であった。

 しかし、吉本氏は、国家とは共同幻想であると説いた。人間は、国家と言うフィクションを空想し、作り上げたという考え方で、国家、法、宗教、風俗・・も共同幻想であるとの考え方である。

 最近、氏の著書「共同幻想論」を読む機会があったが、論旨展開が難解でなかなか理解できない。共同幻想論も賛否両論がある。
 しかし、人間の心理的な動きを重視している考え方のように見える。その点では私は若干ながら共感できる。
 
 人間は自分の創り出した共同幻想に対して、時に敬意を、時に親和を、そして時に恐怖を覚える。原始的な宗教国家ではこれはより顕著だ、と言う。

 個人主義の発達した現代でも、集団的にも個人的にも共同幻想に侵食されていて、愛国心やナショナリズム、愛社精神などと言う形で、共同幻想にとらわれており、一旦はまり込むと、そこからの自立は一般に困難である。

 要するに、哲学的な考え方として、私達の世界は個々の思い込みと共同幻想から成り立っている、という考え方である。
 学校、職場、家庭でも複数の人が集まっているとすると、大抵、何か大なり小なりの共同幻想が生じ得る。これがネガティブの方向で働らくといじめ問題などに繋がっていく。

 私は、特定の宗教を信じている人はキリスト教でも仏教でもイスラム教でも、「神」を中心とした共同幻想を抱いている集団だと思っている。
 私達の日常生活自体が、常にいつも、この共同幻想によって支えられている、のではないか、と思う。

 人は、いろいろな共同体に属していて、それぞれの共同体の中で生まれた共同幻想に依存しながら生活している特殊な生物である。

 人間が起こす紛争のほとんどは、それぞれの脳内に強固に保持されている共同幻想の食い違いに由来するものであり、それが幻想であるからには、何れが正しく、何れが正しくないというものではない。それをさばく法すらも、もちろん幻想である。

 卑近な例をとれぱ、熱狂的なスボーツファンも共同幻想であり、恋愛も二人と言う最小単位のなかで形成される共同幻想である。私は熱狂的なスボーツファンではないからほぼ連日行われるプロ野球の試合などに2万人もの観客が集まるか、理解出来ない。共同幻想の考え方を持ち込めばこれに一歩近づくことができるような気がする。

 この共同幻想がどの様にして脳内に取り込まれ、確固たる形に形成されるかは、脳科学、心理学の新しい、魅力的なテーマである。例として、動物達に見られるインプリントと言う現象で説明できるかも知れない。動物の一部は生まれて最初に見た個体を母親と見なすとされている。

 一般に、われわれは行動の前に必ずしも意思決定しているわけではない。共同幻想が確立した状態では、行動が意思決定にはるかに先行したり、意思決定する事なく行動を起こりたりする。

 私は宗教は強力にインプリントされた集団的催眠状態では無いのか??と考えている。
 いま、企業の不正が数多く報じられているが、企業体に属する人間が企業という共同幻想の中に埋没すると最早自由な発想は不可能という事になる。

 この共同幻想と言う心理状況は、社会的存在である人間が必ず陥る宿命かもしれない。

 共同幻想形成のメカニズムか明らかになり、これをコントロールすることができれば、いろいろな社会的現象をもっともっと醒めた目でみられるかもしれない。

 吉本隆明氏の著作を読んでつらつら考えた。


コメント
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