フランス大嫌い!
マクシミリアン1世皇女 マルガレーテ・フォン・エスターライヒ
アラゴン王太子ファン妃/サヴォイア公フィリベルト2世妃
1480~1530
フリードリヒ3世がハプスブルク家の家運を賭けて結婚させたマクシミリアン(1世)と
ブルグント(ブルゴーニュ)公マリア(マリー)の長女がマルガレーテです。
兄は後にカスティーリャ女王ファナ・ラ・ローカと結婚するフィリップ(フェリペ)です。
マクシミリアン1世はマリア妃の死後ビアンカ・スフォルツァと再婚しましたが
子供はできませんでした。
マルガレーテの名は、母マリアの継母にあたるイングランドの
マーガレット・オブ・ヨークから名付けられたものです。
マリアとマーガレットはものすごく仲が良かったんですって。
1483年、マクシミリアンはフランス王ルイ11世とアラス条約を結びました。
2歳のマルガレーテは王太子シャルル(8世)と婚約してフランスに向かいました。
フランス宮廷で未来のフランス王妃として教育され、義理の姉になるアンヌと暮らし
シャルルにも恋心を抱いていたマルガレーテだったのに、突然の裏切りが
11年後、シャルル8世は条約の破棄と、父マクシミリアン1世の婚約者(妃説あり)
アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を宣言しました。
するとどうでしょう! 今まで王妃扱いしていたフランス宮廷は
手のひら返しでマルガレーテをお客様扱いにします。
しかも人質のつもりか、マルガレーテをブルゴーニュに帰したのはその2年後でした。
傷心のマルガレーテは「この恨み、一生忘れない!」とフランスを後にいたしました。
しかし、マクシミリアン1世はぼやぼやしていませんよ。
今度の狙いはカスティーリャ&アラゴン(スペイン)です。
マルガレーテと王太子ファン、兄フィリップとファナのダブル婚が決まります。
1496年、スペインに向けて出発したマルガレーテでしたが、なんと!
結婚から6ヶ月後に(たぶん結核で)ファンが亡くなりました。
マルガレーテは妊娠していたんですが流産してしまいました。
16歳で婚約破棄を経験し、未亡人になるとは…
20歳の時に同じ年のサヴォイ公フィリベルト2世と再婚しました。
ところが、なんと!フィリベルト2世も3年後に亡くなりました。
水にあたったらしいです。 23歳で再び未亡人になるとは…山あり谷ありすぎる
マルガレーテは「二度と結婚しない!」と宣言しました。
さすがにマクシミリアン1世も無理強いはしなかったみたいですね。
「じゃあ仕事に生きるかい?」ということでしょうか?
マルガレーテをネーデルラント総督に指名しました。
マルガレーテはどうやら政治向きな女性だったみたいです。
イングランドとはフランドルの羊毛をめぐって有利な通商条約を結び
カンブレ同盟形成でも一役かいました。
甥のカール(5世)は彼女の影響力を恐れて一度解任していますが
敵にするよりは味方に…と、すぐに総督の座に戻しています。
その後は亡くなるまでネーデルラント総督の座に留まりました。
北部では宗教改革がおこり、グエルダー公などやっかいな相手もいましたが
概ねネーデルラントに平和と繁栄をもたらした時代でした。
1529年には甥カール5世のために、抗争中のフランス王フランソワ1世の母后
ルイーズ・ド・サヴォワ(フィリベルト2世の姉)と “ 貴婦人の和 ” を締結して
争い激化を避けました。
1530年、居城にしていたメヘレンで亡くなり、彼女の希望どおり
フィリベルト2世が眠るブール=ガン=ブレスの霊廟に葬られました。
夫亡き後、何をやっていたかよくわからない王侯貴族の妃が多い中
活躍の場を得て立派に果たした女性がいると嬉しくなりますね!
見習いたいものです。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
菊地良生史『歴史読本WORLD 世界の女性史(ハプスブルク家の女たち)』
Wikipedia英語版)
マクシミリアン1世皇女 マルガレーテ・フォン・エスターライヒ
アラゴン王太子ファン妃/サヴォイア公フィリベルト2世妃
1480~1530
フリードリヒ3世がハプスブルク家の家運を賭けて結婚させたマクシミリアン(1世)と
ブルグント(ブルゴーニュ)公マリア(マリー)の長女がマルガレーテです。
兄は後にカスティーリャ女王ファナ・ラ・ローカと結婚するフィリップ(フェリペ)です。
マクシミリアン1世はマリア妃の死後ビアンカ・スフォルツァと再婚しましたが
子供はできませんでした。
マルガレーテの名は、母マリアの継母にあたるイングランドの
マーガレット・オブ・ヨークから名付けられたものです。
マリアとマーガレットはものすごく仲が良かったんですって。
1483年、マクシミリアンはフランス王ルイ11世とアラス条約を結びました。
2歳のマルガレーテは王太子シャルル(8世)と婚約してフランスに向かいました。
フランス宮廷で未来のフランス王妃として教育され、義理の姉になるアンヌと暮らし
シャルルにも恋心を抱いていたマルガレーテだったのに、突然の裏切りが
11年後、シャルル8世は条約の破棄と、父マクシミリアン1世の婚約者(妃説あり)
アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を宣言しました。
するとどうでしょう! 今まで王妃扱いしていたフランス宮廷は
手のひら返しでマルガレーテをお客様扱いにします。
しかも人質のつもりか、マルガレーテをブルゴーニュに帰したのはその2年後でした。
傷心のマルガレーテは「この恨み、一生忘れない!」とフランスを後にいたしました。
しかし、マクシミリアン1世はぼやぼやしていませんよ。
今度の狙いはカスティーリャ&アラゴン(スペイン)です。
マルガレーテと王太子ファン、兄フィリップとファナのダブル婚が決まります。
1496年、スペインに向けて出発したマルガレーテでしたが、なんと!
結婚から6ヶ月後に(たぶん結核で)ファンが亡くなりました。
マルガレーテは妊娠していたんですが流産してしまいました。
16歳で婚約破棄を経験し、未亡人になるとは…
20歳の時に同じ年のサヴォイ公フィリベルト2世と再婚しました。
ところが、なんと!フィリベルト2世も3年後に亡くなりました。
水にあたったらしいです。 23歳で再び未亡人になるとは…山あり谷ありすぎる
マルガレーテは「二度と結婚しない!」と宣言しました。
さすがにマクシミリアン1世も無理強いはしなかったみたいですね。
「じゃあ仕事に生きるかい?」ということでしょうか?
マルガレーテをネーデルラント総督に指名しました。
マルガレーテはどうやら政治向きな女性だったみたいです。
イングランドとはフランドルの羊毛をめぐって有利な通商条約を結び
カンブレ同盟形成でも一役かいました。
甥のカール(5世)は彼女の影響力を恐れて一度解任していますが
敵にするよりは味方に…と、すぐに総督の座に戻しています。
その後は亡くなるまでネーデルラント総督の座に留まりました。
北部では宗教改革がおこり、グエルダー公などやっかいな相手もいましたが
概ねネーデルラントに平和と繁栄をもたらした時代でした。
1529年には甥カール5世のために、抗争中のフランス王フランソワ1世の母后
ルイーズ・ド・サヴォワ(フィリベルト2世の姉)と “ 貴婦人の和 ” を締結して
争い激化を避けました。
1530年、居城にしていたメヘレンで亡くなり、彼女の希望どおり
フィリベルト2世が眠るブール=ガン=ブレスの霊廟に葬られました。
夫亡き後、何をやっていたかよくわからない王侯貴族の妃が多い中
活躍の場を得て立派に果たした女性がいると嬉しくなりますね!
見習いたいものです。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
菊地良生史『歴史読本WORLD 世界の女性史(ハプスブルク家の女たち)』
Wikipedia英語版)
>>活躍の場を得て立派に果たした女性がいると嬉しくなりますね!
ホントに!!
ああ、そんな女性になりたかった・・・(過去形ですよ;;)
こんばんわ
私も「見習いたいです」とか書いてる場合じゃないんですが…
大きな声じゃ言えませんけど、旦那さんを亡くした奥さんの方が、奥さんを亡くした旦那さんより5倍ぐらい元気じゃないですか?
女性の染色体(XX)の方が男性の染色体(XY)より逆境に強いと言う説は本当なのですかね?