![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/26/f3c0dd1ac052780e0592e4f99d29c106.jpg)
たぶんギネス! 在位期間最短の王妃
ルイ19世妃 マリー・テレーズ・ド・フランス
1778~1851/在位 1830(20分間)
マリー・テレーズはルイ16世の長女で「え!生きてたの?」と
言われてしまいがちな人物ですが、どっこい生き延びていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/80/d6e2b985a02061c03a8c3cb6d6ad8ff3.jpg)
不能と言われたルイ16世の妃マリー・アントワネットが身ごもった時
フランスの人々は熱狂しましたが、王女が生まれたと聞いてがっかりします。
けれど母マリー・アントワネットは「貴方は人々が望んでいたものではないけれど
だからこそ、私たちは貴方を愛していくでしょう」と歓迎の言葉を贈りました。
フランス革命が起こった時、宮廷の中のマリー・テレーズは特に気に病むこともなく
むしろ弟ルイ・フィリップの死にショックを受けていました。
もともとフランス革命は、独立戦争でアメリカを支持して大金を投じたことから
おこった政治的な問題で、王制にまで手が及ぶとは考えられていなっかたのです。
けれど反政府の気運は高まる一方で、矛先は王家に向かいました。
バスティーユ陥落からマリー・テレーズの生活は一変します。
まずはテュイルリー宮殿に移り、国外への逃亡などが画策されたものの上手くいかず
一家はタンプル塔へ移されます。
両親と引き離され、弟のルイ・シャルルと叔母のエリザベスの3人で監禁されましたが
王と王妃の処刑に続いてエリザベスが処刑され、ルイ・シャルルも革命派に
連れ去られてしまいました。
タンプル塔に閉じ込められた王家の中で、革命後まで生き残ったのは彼女だけです。
父王ルイ16世が亡くなったこと以外何も聞かされていなかった彼女の元を
翌年ロベスピエールが訪れます。
会話の内容は記されていませんが、その後マリー・テレーズは
いとこのフランツ2世が治める神聖ローマ帝国のウィーンに送られました。
その後は叔父プロヴァンス伯ルイ(後の18世)がロシア皇帝パウル2世の客として
滞在していたイェルガヴァに移りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/f8/598fc692002ddc6073571276fd796d17.jpg)
フランスを出た時のマリー・テレーズ
ルイ17世の死が伝えられて即位したルイ18世には嫡子がいませんでした。
そこで今後のブルボン家の王位継承を危惧した亡命王は
甥のルイ・アントワーヌとマリー・テレーズの縁談を考えつきます。
アングレーム公ルイ・アントワーヌは人見知りで口べたで若々しさがない青年で
父親のアルトワ伯シャルル(後の10世)は、この縁談に反対します。
マリー・テレーズも革命後はめったに笑わない神経質な少女になったそうで
なんか・・・暗~い夫婦になりそうですよね。
ふたりは1799年にイェルガヴァで結婚しました。
王一家はその後イギリスに移り、1815年には亡命生活に終わりを告げました。
マリー・テレーズは義父に倣ってルイ18世の政治には無関心で
ファーストレディの変わりを務めることもありませんでした。
1924年には義父がシャルル10世に即位し、マリー・テレーズは王太子妃になります。
しかし強引な君主制への逆行政治を行ったシャルル10世への不満は高まり
1930年、7月革命を受けて王は退位を決意します。
本来であれば息子ルイ・アントワーヌに王位を譲るところですが
シャルルは息子のあまりの不人気ぶりに、孫のアルトワ伯アンリに
王位を継承することにしました。
(結局アンリは議会で認められず
王にはオルレアン家のルイ・フィリップがついたのですが…)
そこでルイ19世が即位し20分後に退位するという、まどろっこしい手続きがとられ
マリー・テレーズの王妃の座も20分のみという、驚きの短さで幕を閉じました。
彼女の胸中はいかに・・・いったいどれだけ不人気な夫だったのでしょうね?
その後は義父や夫とともにエジンバラ、プラハ、ゴリツィアを転々とし
夫が1844年に亡くなるとウィーン郊外の城に落ち着きました。
議会で即位を承認されなかったシャンボール伯(旧アルトワ伯)アンリ兄妹も加わり
読書や縫い物、散策などをしながら静かに過ごしたようです。
きっと「なんでオルレアン家なわけ?」なんて愚痴っていたのでしょうね。
1851年に肺炎で亡くなり、義父と夫が眠るゴリツィアの修道院に葬られました。
最後にルイ16世をはじめとする王家を愛してくれた人々に感謝の意を遺しています。
王の娘として生まれ、本当なら他国の王妃か一流貴族の妃として宮廷で華やかな
一生を送るはずだった少女なのに、家族は皆悲惨な死を迎えて
人生の大半を(貧しくはなかったでしょうが)亡命者として過ごすとは・・・
不運だったとしか言えません。
(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版』)
ルイ19世妃 マリー・テレーズ・ド・フランス
1778~1851/在位 1830(20分間)
マリー・テレーズはルイ16世の長女で「え!生きてたの?」と
言われてしまいがちな人物ですが、どっこい生き延びていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/80/d6e2b985a02061c03a8c3cb6d6ad8ff3.jpg)
不能と言われたルイ16世の妃マリー・アントワネットが身ごもった時
フランスの人々は熱狂しましたが、王女が生まれたと聞いてがっかりします。
けれど母マリー・アントワネットは「貴方は人々が望んでいたものではないけれど
だからこそ、私たちは貴方を愛していくでしょう」と歓迎の言葉を贈りました。
フランス革命が起こった時、宮廷の中のマリー・テレーズは特に気に病むこともなく
むしろ弟ルイ・フィリップの死にショックを受けていました。
もともとフランス革命は、独立戦争でアメリカを支持して大金を投じたことから
おこった政治的な問題で、王制にまで手が及ぶとは考えられていなっかたのです。
けれど反政府の気運は高まる一方で、矛先は王家に向かいました。
バスティーユ陥落からマリー・テレーズの生活は一変します。
まずはテュイルリー宮殿に移り、国外への逃亡などが画策されたものの上手くいかず
一家はタンプル塔へ移されます。
両親と引き離され、弟のルイ・シャルルと叔母のエリザベスの3人で監禁されましたが
王と王妃の処刑に続いてエリザベスが処刑され、ルイ・シャルルも革命派に
連れ去られてしまいました。
タンプル塔に閉じ込められた王家の中で、革命後まで生き残ったのは彼女だけです。
父王ルイ16世が亡くなったこと以外何も聞かされていなかった彼女の元を
翌年ロベスピエールが訪れます。
会話の内容は記されていませんが、その後マリー・テレーズは
いとこのフランツ2世が治める神聖ローマ帝国のウィーンに送られました。
その後は叔父プロヴァンス伯ルイ(後の18世)がロシア皇帝パウル2世の客として
滞在していたイェルガヴァに移りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/f8/598fc692002ddc6073571276fd796d17.jpg)
フランスを出た時のマリー・テレーズ
ルイ17世の死が伝えられて即位したルイ18世には嫡子がいませんでした。
そこで今後のブルボン家の王位継承を危惧した亡命王は
甥のルイ・アントワーヌとマリー・テレーズの縁談を考えつきます。
アングレーム公ルイ・アントワーヌは人見知りで口べたで若々しさがない青年で
父親のアルトワ伯シャルル(後の10世)は、この縁談に反対します。
マリー・テレーズも革命後はめったに笑わない神経質な少女になったそうで
なんか・・・暗~い夫婦になりそうですよね。
ふたりは1799年にイェルガヴァで結婚しました。
王一家はその後イギリスに移り、1815年には亡命生活に終わりを告げました。
マリー・テレーズは義父に倣ってルイ18世の政治には無関心で
ファーストレディの変わりを務めることもありませんでした。
1924年には義父がシャルル10世に即位し、マリー・テレーズは王太子妃になります。
しかし強引な君主制への逆行政治を行ったシャルル10世への不満は高まり
1930年、7月革命を受けて王は退位を決意します。
本来であれば息子ルイ・アントワーヌに王位を譲るところですが
シャルルは息子のあまりの不人気ぶりに、孫のアルトワ伯アンリに
王位を継承することにしました。
(結局アンリは議会で認められず
王にはオルレアン家のルイ・フィリップがついたのですが…)
そこでルイ19世が即位し20分後に退位するという、まどろっこしい手続きがとられ
マリー・テレーズの王妃の座も20分のみという、驚きの短さで幕を閉じました。
彼女の胸中はいかに・・・いったいどれだけ不人気な夫だったのでしょうね?
その後は義父や夫とともにエジンバラ、プラハ、ゴリツィアを転々とし
夫が1844年に亡くなるとウィーン郊外の城に落ち着きました。
議会で即位を承認されなかったシャンボール伯(旧アルトワ伯)アンリ兄妹も加わり
読書や縫い物、散策などをしながら静かに過ごしたようです。
きっと「なんでオルレアン家なわけ?」なんて愚痴っていたのでしょうね。
1851年に肺炎で亡くなり、義父と夫が眠るゴリツィアの修道院に葬られました。
最後にルイ16世をはじめとする王家を愛してくれた人々に感謝の意を遺しています。
王の娘として生まれ、本当なら他国の王妃か一流貴族の妃として宮廷で華やかな
一生を送るはずだった少女なのに、家族は皆悲惨な死を迎えて
人生の大半を(貧しくはなかったでしょうが)亡命者として過ごすとは・・・
不運だったとしか言えません。
(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版』)
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