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まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王シャルル7世王女 マドレーヌ

2012-03-11 23:04:06 | フランス王妃・王女
政治と争いに明け暮れた一生
シャルル7世王女 マドレーヌ・ド・フランス
ガストン・ド・フォア夫人


1443~1495

シャルル7世とマリー・ダンジューには9人の王女がいましたが
五女マルグリートは1歳で、双子のマリーとジョアンヌはそれぞれ8歳と1歳、
八女マリーは生まれてすぐ亡くなりました。
マドレーヌは末娘です。
      
幼い頃にラースローと婚約しましたが、結婚前にラースローが亡くなりました。
毒殺だと言われていましたが、20世紀になってから白血病だったということがわかりました。

そんなわけで18歳の時にフォワ伯ガストン4世の息子ガストンと結婚しました。
しかし夫ガストンは結婚から9年後に26歳という若さで亡くなってしまいました。

その2年後にはお義父さまのガストン4世も亡くなり息子のフランソワが継承しました。

さらにその7年後にはガストンの母方の祖父ナヴァラ王ファン2世と
母レオノールが相次いで亡くなったため、フランソワは13歳で
ナヴァラ王フランシスコとして即位しました。

フランシスコが亡くなると娘のカトリーヌ(カタリナ)が女王になります。

この間マドレーヌはず~っと摂政を務めました。

しかし少女の君主に若い母親摂政というセットは政敵に狙われやすいもの…
ガストンの弟ジャンが自分の王位を主張して戦いを挑んできました。
この争いはおさまったものの、ジャンの娘ヘルマナと再婚したアラゴンのフェルナンド2世が
ナヴァラ王位を主張してきて争いが勃発しました。

マドレーヌは1494年にフェルナンド2世に人質として捕らえられ翌年亡くなりました。
フェルナンド2世ってイサベル1世とペアで賢王&賢女王カップルという印象ですけど
賢王ということは非情な部分もおおいにあるということなのかしらね?
領土拡大のためならなんでもするぜ!!って感じでしょうか?

確かに争いがおきやすい家系図ですよね…なんとなく

それにしてもシャルル7世の場合、王妃や王女たちより
愛妾のアニェス・ソレルが断然有名ってどうよ?

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (6)
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フランス王シャルル7世王女 ヨランダ

2012-03-09 22:41:33 | フランス王妃・王女
兄弟喧嘩も大がかり
シャルル7世王女 ヨランダ・ド・フランス
サヴォイア公アメデーオ9世妃


1434~1478

シャルル7世とマリー・ダンジューの三女ヨランダは
18歳の時にサヴォイ公子アメデーオと結婚しました。

兄のルイ11世がアメデーオの妹シャルロットと再婚していました。
         
結婚から13年目に夫のアメデーオがサヴォイ公になりますが
内気な性格と癲癇で、その座を投げ出しヨランダに丸投げしてしまいました。
アメデーオが亡くなった後も、息子フィリベルト1世の摂政を務め
死ぬまで領地を治めました。

ヨランダは末弟のベリー公シャルルとともにブルゴーニュ公シャルルと同盟を組み
兄のルイ11世に敵対していました。
けれどもブルゴーニュ公は1476年にグランソンで敗れると
ルイ11世と結託したに違いない! とヨランダを投獄してしまいました。
すぐに釈放されたみたいですけどね。

その後はルイ11世と仲直りをしたようですが2年後に亡くなりました。

お子様は10人おります。
三男フィリベルト1世は若くして亡くなったのですが、その妃だったのが
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世妃になるビアンカ・マリア・スフォルツァです。



              
家系図作ったのでね・・・
シャルル7世王女 ジャンヌ・ド・フランス
ブルボン公ジャン2世妃


1435~1482

四女です。
17歳で結婚した以外に、特にエピソードは無いんですよね…
9人の王女たちの中では比較的長生きした方だったのですがね。
           
とりあえず家系図は面白いので載せてみた…

そろそろガツンとくるエピソードをお持ちの王女に登場してほしいものです。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (4)
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フランス王シャルル6世王女 ミシェル

2012-03-08 21:34:04 | フランス王妃・王女
謎の死を迎えた人気者
シャルル6世王女 ミシェル・ド・フランス
ブルーゴーニュ公フィリプ3世妃


1395~1422

シャルル6世(かどうかはかなり怪しいけど…)とイザボー・ド・バヴィエール
五女ミシェルの名は、シャルル6世が参拝したモン=サン=ミシェルに感銘を受けて
名付けられました。
そういえばこれまでミシェルという名の王女はいなかった気がしますね。
            
イザボー・ド・バヴィエールといえば浮気と浪費と放蕩で有名ですね。
子供たちは放ったらかしにされ、食べ物にも困って修道院に逃げ込んだ、とまで
言われていますが、時には母親らしい顔も見せていたようです。
手紙は頻繁に送りましたし、ペストが流行れば田舎に避難させたり…とかね。
愛溢れる…という感じではありませんけど。

ブルゴーニュ公ジャン1世が、1407年にイザボーの愛人オルレアン公ルイを暗殺しました。

その2年後に、14歳のミシェルがジャン1世の公子フィリプと結婚しました。
ジャン1世は、母イザボーと関係を持っていました。

時は百年戦争まっただ中です。
修道院で教育されていた幼いミシェルは、ものすごく重要な政略結婚に
駆り出されてしまったわけですね。

結婚から10年後、義父ジャン1世が暗殺されました。
この暗殺に兄シャルル(7世)が関わっていたことで、ミシェルは鬱状態になり
その後しばらくして亡くなりました。

ミシェルの死は、親しかったドイツ人の女官ヴィエスヴィルによる毒殺と噂されました。
彼女はミシェルの死の直前に宮廷を退去させられてた、ってことなんですけどね…
直前というのが逆に怪しくないですか?

ミシェルはブルゴーニュ公領でとても人気があったそうで
人々は早すぎる死を嘆いたそうです。
自分の領主様の暗殺に関係した人の妹なのにね。
どうして愛されていたのか、その理由が知りたいものです。

シャルル6世の六女カトリーヌは、イングランド王ヘンリー5世妃になり
後にチューダー王家が生まれるきっかけとなる再婚をいたしました。



              
家系図は併用で・・・
シャルル7世王女 カトリーヌ・ド・フランス
ブルゴーニュ公シャルル1世妃


1428~1446

イザボー・ド・バヴィエールが、シャルル6世の子じゃないと暗に臭わせたため
王になるのに大変苦労したシャルル7世とマリー・ダンジューには
14人のお子様がおりまして、王女は9人です。

長女ラデゴンド(?)はオーストリア大公ジグムントと婚約していましたが
16歳で亡くなりました。

次女カトリーヌは12歳でブルゴーニュ公子シャルルと結婚しました。

シャルルはカトリーヌが18歳で亡くなるまでブルゴーニュ公にはならなかったので
カトリーヌはブルゴーニュ公妃ではなくシャロレー伯妃です。

この時期は百年戦争中で、女性といえばジャンヌ・ダルク!なものですから
結婚で重要な役割を果たしたであろう王女たちのエピソードが少ないですね。
きっと大変な人生だったと思うんだけど…

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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フランス王シャルル6世王女 ジャンヌ

2012-02-27 22:49:19 | フランス王妃・王女
知られざる女傑
シャルル6世王女 ジャンヌ・ド・フランス
ブルターニュ公ジャン6世妃


1391~1433

悲劇の狂王シャルル6世と、悪妻の代名詞みたいな王妃イザボー・ド・バヴィエール
12人のお子様を授かりました。
ま、後半はシャルル6世の子だかどうだか怪しいんだけどね…

王女は6人です。
長女ジャンヌは2歳で亡くなっています。
次女イザベルは7歳でイングランド王リチャード2世妃になりましたが
20年の薄幸な生涯を送りました。

ジャンヌは三女です。
         
お姉様同様早く結婚させられました。
5歳ですと!!

ジャンヌが嫁いだ当時、ブルターニュは継承戦争のまっただ中でした。
この戦争は延々と続くんですけど、一応は1365年にジャン6世の勝利で決着したのね。

しかし、敵方のパンティエーブル伯は、ブルターニュの継承権と領地を
放棄しようとはしませんでした。
1420年にジャン6世をシャントソーの式典に招くと、やって来た彼を捕らえて
「ジャン6世は死亡した」という噂を流しました。

なんでもジャン6世は平和主義者だったみたい… ホイホイ行っちゃうからこんなことに…

ジャンヌはブルターニュの全ての貴族に招集をかけると徹底抗戦にでます。
最後にはパンティエーブル伯の未亡人マルグリートを捕らえるとジャンを自由の身にし
争いにも勝利を収めました。

夫の(偽の)死を報せられても勇猛果敢に敵に立ち向かうとは…立派ですね。
ブルターニュ領ではパンティエーブル伯家を支持する声が多かったというのに。

これもひとえに愛する息子をブルターニュ公にするためだったといいます。
母親の愛をあまり知らずに育ったのではないかと思われるジャンヌですが
強い母性愛を持っていたようですね。



母親の罪を償った王女
シャルル6世王女 マリー・ド・フランス


1393~1438

シャルル6世の四女マリーは1393年生まれで、父王発狂後に誕生しています。
ちょいと誰の子か怪しい感じですが…

母のイザボー・ド・バヴィエールは、シャルル6世の狂気は神の罰だと考えて
マリーを神に捧げることにします。

マリーは4歳になるとすぐにポワシーの修道院に送られまして修道女になりました。
ポワシーの修道女長は父方の祖母ジャンヌ・ド・ブルボンの妹マリーでした。
親戚がいると心強いですね。
              
修道院にはクリスティーヌ・ド・ピザンの娘マリーが一緒に入りました。
クリスティーヌ・ド・ピザンという人は良く知らないんだけど
宮廷詩人で、フランス初の女流作家とも言われてるらしいです。
王妃の気まぐれで娘を修道院に入れられちまって… 宮仕えもつらいものね。

やはり、というか、マリーはその後修道院長になったわけですけども
一生をその修道院で過ごし45歳で亡くなりました。

可哀想ね… と思いきや、イングランドのエドワード1世王女メアリーみたいな
生活を送ってたりしてね…詳細はわかりません。

いったいイザボー・ド・バヴィエールの罪の意識って、何に対してでしょうね?
浮気? 浪費? わがまま?
マリーが修道院に入った後も、なにひとつ改まったようには見えないんですけどねぇ…

娘を僧職に就かせればすむって話しじゃないんじゃない? って思うわ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王シャルル5世王女 カトリーヌ

2012-02-17 01:41:46 | フランス王妃・王女
             肖像画が無いのでお母様のジャンヌ・ド・ブルボン

悲劇の誕生と生涯
シャルル5世王女 カトリーヌ・ド・フランス
モンパンシエ伯ジャン夫人


1378~1388

王妃ジャンヌ・ド・ブルボンが忌まわしい血筋を受け継いでいたせいか
はたまた、本人が子供の頃に患った病のせいか、シャルル5世のお子様たちは
シャルル6世とオルレアン公ルイ1世を除いて7人が幼年で亡くなっています。

王女は5人生まれましたが、長女ジャンヌは3歳、次女ボンヌは生後すぐ
三女マリーは7歳、四女イザベルは3歳で亡くなりました。

ジャンヌ・ド・ブルボンの精神はイザベルを生むあたりから悪化したと言われています。

五女カトリーヌの出産の時、ジャンヌ・ド・ブルボンは医師の指示に背いて入浴し
出産後に亡くなりました。

          

シャルル5世はかなりのショックを受け、再婚もしませんでしたし
亡くなるまでダメージから立ち直れなかったと言われています。

カトリーヌはわずか8歳で、15歳年上のモンパンシエ伯ジャンと結婚しました。
しかし、姉たちのように10歳で亡くなってしまいました。

カトリーヌが生まれた時には、すでに姉たちは亡くなっていました。
唯一の王女だし、8歳まで成長したのだから、手元においておきたいというのが
親心じゃないの? と思ったのですが、もしかして…

愛する王妃が命を落とす原因となった娘を見るのが嫌だったのかしら?
早く嫁にやって見ないようにしようなんて考えちゃったのかしら?
そういう物語ってよくありますよね?
小説の読み過ぎ? ドラマの見過ぎ?

でも実際はシャルル5世は亡くなっていましたんで
兄のシャルル6世、あるいは摂政あたりのお考えだと思います。

シャルル5世が生きていたら状況は違ったかもね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王ジャン2世王女 ジャンヌ

2012-02-14 22:06:19 | フランス王妃・王女
ジャン2世の王女たち、全員まとめていってみよー!
ジャン2世王女 ジャンヌ・ド・フランス
ナヴァラ王カルロス2世妃


1343~1373/在位 1352~1373

“ 善良王 ” ジャン2世は2回結婚しています。
最初の妃ボンヌ・ド・リュクサンブールにはシャルル5世を含む
4人の王子がたて続けに生まれました。
長年フランス王家を悩ませていた後継ぎ問題はほぼ解決かしら? 良かったね

5人目に生まれたのが長女ジャンヌで、その後は王女が4人続きました。
           
ジャンヌはブラバント公ジャンと婚約したのですが実現しませんでした。
9歳で11歳年上のカルロス2世と結婚しました。

子供は後のカルロス3世を含む7人が生まれました。
次女ファナはイングランド王ヘンリー4世妃になります。

ジャン2世の次女はマリー・ド・フランス(1344~1404)です。
バー伯ロベール1世と20歳の時に結婚しました。
こちらも11人と子だくさんです。
         
次女ヨランダが、フィリプ6世王女ジャンヌの婚約者だった
アラゴン王子ファン(1世)の妃になりました。

ジャン2世の三女アニェスと四女マルグリートはともに4歳で亡くなりました。

五女がイザベル・ド・フランス(1348~1372)です。
12歳の時、サヴォア伯アメデーオ6世の仕切りで
後に初代ミラノ公となるジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと結婚しました。
三女ヴァレンティナがオルレアン公ルイ1世妃になります。
6人目の子供に当たるガリオの出産で、24歳の時に亡くなりました。
         
ボンヌ・ド・リュクサンブールは1349年に亡くなり
ジャン2世は翌年ジャンヌ・ドーベルニュと再婚しまして、一男二女が生まれています。

六女ブランシュ、七女カトリーヌともに生まれてすぐ亡くなりました。

ジャン2世には1338年から1353年にわたって12人のお子様が生まれてるんですが
3人を除いて年子なのよ

育てるのは乳母とか養育係とか侍女、小間使いなどなどがいるからいいとしても
生む方の身になってほしい!! って気がしません?
て、私は生んだことがないんだけどね… そう思っちゃった。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王フィリプ5世王女 イザベル

2012-02-09 22:31:30 | フランス王妃・王女
             こちらはフィリプ6世王女ジャンヌ・ド・フランス

ここから3人の王女は、ほぼ家系図のみです…
フィリプ5世王女 イザベル・ド・フランス
アルボン伯ギーグ8世夫人/フォシニー領主ジャン3世夫人


1312~1348

イザベルはフィリプ5世とジャンヌ・ド・ブルゴーニュの三女です。
      
4歳の時に3歳年上のアルボン伯子ギーグと婚約し、11歳で結婚しました。
1333年、ギーグはペリエール城に籠城中殺害されてしまいました。

で、ギーグの家系では嫡子を “ ヴィエノワのドーファン ” と呼んでいたらしいのだが
領地をフィリプ6世に渡した際に、フランスの王太子の称号になったそうです。
ちなみにドーファンてイルカのことね …

経緯は違えど、イギリスの “ プリンス・オブ・ウェールズ ” みたいな感じですかね?

21歳で未亡人になってしまったイザベルは2年後に再婚しました。
フォシニーの領主って、たいした相手じゃなかったんでしょうか?
記録がありませんで、亡くなった年も36歳か37歳と曖昧です。

フィリプ5世の四女ブランシユはロンシャンで修道女になりました。
六女は死産、あるいは誕生後すぐ亡くなっています。



カペー家、あがく
シャルル4世王女 ブランシュ・ド・フランス
オルレアン公フィリプ妃


1328~1382

シャルル4世は3回結婚しています。

最初の妃ブランシュ・ド・ブルゴーニュとの間には
長男フィリプと長女ジャンヌがおりましたが、二人とも幼年で亡くなりました。

二人目の妃マリー・ド・リュクサンブールは妊娠中に馬車に乗って揺られ
出産後に亡くなり、次女ルイーズも数日後に亡くなりました。

三人目の妃ジャンヌ・デヴルーが生んだ三女ジャンヌは1歳で夭逝。
シャルル4世のお子様たちの中で唯一成人に達したのが四女ブランシュです。
        
16歳か17歳でオルレアン公フィリプと結婚しました。

カペー家本流には嫡子が無く、王権はヴァロワ家に移っちゃう、ってわけで
娘を嫁がせてみたのでしょうか?

しかしお子様は生まれず… シャルル4世の血はここで終わっちゃいます。

1382年に亡くなって、両親も眠るサン=ドニ大聖堂に葬られました。



幸薄そうなイメージしかないんだけど…
フィリプ6世王女 ジャンヌ・ド・フランス


1351~1371

ヴァロワ家の初代王フィリプ6世は2回結婚しました。
最初の妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュには八男二女が生まれたものの
次男ジャン(後の2世)と七男(後のオルレアン公)フィリプ以外は
幼くして亡くなっています。
長女マリーは7歳でブラバント公ジャンと結婚しましたがすぐに亡くなりました。
次女ジャンヌは死産、あるいはすぐに亡くなっています。

三女ジャンヌ、は二人目の妃ジャンヌ・ド・ナヴァラが
フィリプ6世の死後生んだ王女でした。
        
19歳の時にアラゴン王子ファン(後の1世)と婚約してフランスを発ちましたが
アラゴンの地を見ることはできませんでした。
ファンとも会うことなく、ベジエで亡くなりサン=ドニ大聖堂に葬られました。

結婚するために旅立って到着前に亡くなる王女って多くない?
そんなにハードな行程だったのでしょうか?
もともと病弱? だったら長旅させちゃだめじゃないの !!
まだまだお母さんが恋しい年ごろで嫁に行くだけでも不安なんですから
万全を期してほしかったものですねっ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王フィリプ5世王女 マルグリート

2012-02-03 22:23:32 | フランス王妃・王女
たいしたタンカをきったもんだ
フィリプ5世王女 マルグリート1世・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ伯=フランドル伯ルイ1世妃


1310~1382

フィリプ5世とジャンヌ・ド・ブルゴーニュ次女マルグリートの
幼い頃のことはよくわかりませんが、10歳ぐらいで
6歳年上のルイ(ルートヴィヒ)と結婚しています。
この結婚のおかげで、マルグリートの叔父にあたるフィリプ6世の後押しを受け
ルイはフランドル伯になることができました。
          
当時フランドルは経済的にイングランドに依存していたのですが
ルイは一貫してフランス支持派でした。
フランスとイングランドは百年戦争の真っ最中、てなわけで
イングランドはフランドルとの羊毛貿易を取り止めました。

そんなこんなで、ルイは一時フランドルから追放されたりしてます。
フィリプ6世のおかげでまた戻れたんですけどね。

結婚から26年目にルイが有名なクレシーの戦いで戦死しました。

息子のルイ2世はフランドル伯になりましたが
15歳だったので、マルグリートはしばし摂政に就きました。

あのね…
マルグリートが持っているブルゴーニュ伯位、
ルイ2世の妻ジャンヌが持っているブラバント公位、
孫のマルグリート3世の夫が持っているブローニュとオーヴェルニュ伯位をめぐって
ゴタゴタがあるんだけど省いていいですかね… 中世にはありがちな継承争いってことで…
いろんな家系が複雑にからみあってるので大変よね
誰が把握してたんでしょう? 一家に一人、家系の専門家が雇われていたんでしょうか?

1361年、(孫の)マルグリートの夫ブルゴーニュ公フィリプ1世が亡くなります。
こちらのフィリプはカペー=ブルゴーニュ家ね。

1369年、マルグリートの後押しで(孫の)マルグリートは
ブルゴーニュ公フィリプ2世と再婚。
こちらはヴァロワ=ブルゴーニュ家です。

       

この時、息子のルイ2世は娘をイングランドに嫁がせるつもりでした。
マルグリートは息子の前でドレスを引き裂くと
「母の願いを果たさない息子なんて!
 お前に吸わせたこの胸を切り取って犬にでもくれてやりたい!!」と言ったそうな…

子供を人質にとった敵の前でドレスをまくり上げて
「子供なんかここからいくらでも産んでやらぁ!」とタンカをきった
カテリーナ・スフォルツァという女傑がおりますが、マルグリートも負けていませんね。
ルイはすごすごと引き下がったようです。

1382年にマルグリートは自分の領土で反乱にあいました。
こちらは息子ルイと孫の夫ブルゴーニュ公に鎮圧してもらったのですが
すぐにルイが追放されてしまいます。

親不孝ものよばわりしてしかりつけていても可愛い息子、
いくつになっても心配尽きない唯一の子、というわけで
心労のせいでしょうか、その年にマルグリートは亡くなりました。

派手なエピソードがありませんが、かなり政治的な人だったんじゃないでしょうか?
フランドル伯ルイ2世はその2年後に亡くなっています。
ずーっと厳しいお母様の監視下にあったんでしょうか?
けっこうキツい人生だったかもね…

(参考文献 永井路子氏『歴史をさわがせた女たち=外国篇=』 Wikipedia英語版)
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フランス王フィリプ5世王女 ジャンヌ

2012-01-25 22:45:15 | フランス王妃・王女
父親のライバルの味方に嫁いだ王女
フィリプ5世王女 ジャンヌ3世・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ伯=ブルゴーニュ公ウード4世妃


1308~1349

とはいえ、敵方に嫁いだ王女たちは少なくないんですけどね…

フィリプ5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュには7人のお子様が生まれましたが
成人まで成長したのは年長の3人の王女だけで、年少の4人は亡くなっています。
長男フィリプ、あるいは次男ルイが長生きしていたら
フランス王家の流れも変わっていたかもしれないですね。

ジャンヌは長女です。
10歳で23歳のブルゴーニュ公ウード4世に嫁ぎました。

        

当時ブルゴーニュ領は、フランスの王位継承を巡って二分されていました。
貴族の皆さん、それぞれにフランスの家々と姻戚を結んでいたから
有利な方に味方したでしょうね。
なんかすごく入り乱れてそう…

ウードは姪にあたるルイ10世王女ジャンヌを後押ししていました。
姉の娘ですからね… 摂政とか後見人とか、おいしい役どころがまわってきそうだもの。

ジャンヌはフィリプ5世の懐柔策で嫁がされちゃったのでしょうか?

ブルゴーニュ伯だった母ジャンヌ2世が1330年に亡くなったので
ジャンヌは3世として伯領を受け継ぎました。
ブルゴーニュ伯でブルゴーニュ公妃… ややこしいぞ…

ジャンヌは6人のお子さんを生んでいますが、5人は死産でした。
たったひとりの息子フィリプも両親に先立ち23歳で亡くなったので
ブルゴーニュ公領も伯領も孫のフィリプに渡りました。

息子のフィリプの未亡人ジャンヌ・ドーベルニュ
ヴァロワ家二代目のフランス王ジャン2世と再婚します。

孫のフィリプ1世も15歳で、嫡子無しで亡くなっちゃったもんで
ブルゴーニュ公の公領は、ジャン2世を経て王子フィリプに渡ります。
フィリプ2世ル・アルディ(豪胆公)として有名ですね。
これがヴァロワ=ブルゴーニュ家です。

ちなみにフィリプ2世のお母様はジャンヌ・ドーヴェルニュではなくて
先妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュです。

ジャンヌとフィリプがたくさんでてきてこんがらがりますね。
同じ名前が多すぎるよ~  解りづらかったらごめんなさい…

(参考文献 堀越孝一氏『ブルゴーニュ家』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ10世王女 ジャンヌ

2012-01-13 02:43:17 | フランス王妃・王女
サリカ法でフランス女王にはなれず
ルイ10世王女 ジャンヌ・ド・ナヴァラ
ナヴァラ女王ファナ2世=ナヴァラ王フェリペ3世妃


1312~1349/在位 1328~1349

フィリプ3世を継いだフィリプ4世とジャンヌ・ド・ナヴァラには
7人のお子様が生まれていまして、王子たちは4人中3人までが王に即位しています。
皆さん短い間でしたけど…
四男ロベールも10歳そこそこで亡くならなければ、たぶん王になってたんじゃないかしら?

王女は3人で、長女マルグリートと次女ブランシュは幼くして亡くなっています。
三女は“ フランスの女豹 ” と呼ばれたイングランド王エドワード2世妃イザベルです。

さて、フィリプ4世の長男のルイ10世は2回結婚して、一男一女がおりました。

ジャンヌのお母様は、ルイ10世の最初の妃で、悲劇の王妃として語り継がれる
マルグリート・ド・ブルゴーニュです。
0歳で王になってすぐに亡くなったジャン1世のお母様は
二人目の王妃クレマンス・ダンジューです。
          
ルイ10世も、その後を継いだ弟のジャン1世も亡くなってしまうと
フランス王位はルイ10世の弟フィリプ5世が継承することになりました。

当時フランスはナヴァール(スペインの一部)の国王も兼ねてましておりました。

フランスには “ サリカ法 ” というものがあって女性は国王になれなかったのね。
でもナヴァールは女王OK!というわけで、ジャンヌには立派に継承権がありました。
が、この王位をフィリプ5世は阻止してます。

まずは「ジャンヌは若すぎる!」と訴えてみました。
ジャンヌはこの時4歳、確かに若いっすね… でもその前の王は0歳で即位してるんだしね…

次にサリカ法を持ち出してみたものの、ジャンヌの祖母にあたるジャンヌ・ド・ナヴァラは
問題なく女王に即位できたのですから、説得力はないですね。

しかしフィリプ5世は、なぜか最大の武器とも言える
「ジャンヌはマルグリートと浮気相手の庶子だ!」という発言は控えています。
なぜかっていうと、ブルゴーニュ公家を敵にまわしたくなかったからです。

ブルゴーニュ公ウード4世はマルグリートの弟で
いつまでも姉のスキャンダルが囁かれることに不快感を示していました。

結局、フィリプ5世&シャルル4世が嫡子無しで亡くなり
ヴァロア家のフィリプ6世が即位すると
「ナヴァール王家と関係ないじゃんか」ということになり、同君連合はなくなりました。

ジャンヌは16歳の時に、夫のフィリップ(フェリペ3世)とともに即位しました。
          
フェリペは何にあたるの? 叔父さんかしら? いとこかしら?
とにかく親戚ですね 6歳ぐらいで結婚していたようです。

フェリペ3世が亡くなるまでは二人で統治し、その後も亡くなるまで君臨しました。
夫婦仲のエピソードとかはないんですけど、7人のお子さんが生まれています。

次女ブランカはヴァロア家初の王フィリプ6世の二人目の妃になっています。
フィリプ6世はすっごい年上なの…
なんたって、兄カルロス2世の妃ジャンヌはフィリプ6世の孫にあたるんですもの…
          
ジャンヌはフランスの君主の座を逃しましたが
カペー家の血はフランス王家に連綿と続き、後のアンリ4世を誕生させています。

家系図を三つのせてみましたが、まさに政略結婚!! って感じですね!
スペースがないので割愛してますが、ブルゴーニュ公家をはじめとする
錚々たる家々が入り乱れてます。
歴史的には面倒くさいけど、家系図的には楽しい時代なんですよね~

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王フィリプ3世王女 ブランシュ

2012-01-06 21:43:14 | フランス王妃・王女
美しすぎて英仏が戦争になっちゃった
フィリプ3世王女 ブランシュ・ド・フランス
ボヘミア王ルドルフ1世妃


1278~1305/在位せず

去年の12月後半、パソコンの調子が悪くなったんですけど
バタバタしてて後回しにしてまして、やっと復活しました。

そんなわけで久々のアップです。
今年もよろしくお願いします。

今年が皆様にとりまして良い年となりますように。
遅ればせながら、新年のご挨拶とさせていただきます。

フィリプ3世と最初の妃イザベル・ダラゴンには王子ばかり4人が生まれました。
ブランシュと後のイングランド王妃マルグリート
二人目の妃マリー・ド・ブラバンの王女です。

     

ブランシュは4回婚約をしています。

まずは8歳の時に19歳のナミュール候子ジャン(1世)と婚約しました。
で、この婚約を破棄した気配は無いままに、翌年イングランド王太子エドワード(2世)と
婚約しました。

1287年に王妃エリナー・オブ・カステイルを亡くしたエドワード1世は
ブランシュの美しさを耳にすると「自分の奥さんにしちゃおうっと !」と考え
王子の婚約を取り消すと、ブランシュの義兄フィリプ4世に密使を送りました。

フィリプ4世もどうかと思うが… これを承諾。
もちろんイングランド VS フランスの停戦とガスコーニュの引き渡しという条件を
出してますけどね。

エドワード1世は喜び勇んで条件を受け入れると使者ランカスター伯をフランスに送ります。
これも婚約にカウントね。
ところが、ブランシュがすでにジャンと婚約していたことが発覚しました。
エドワード1世、怒るわね…
フィリプ4世はすぐに「妹のマルグリートはどうかしら?」と薦めてみましたが
エドワード1世は戦争を選びました。
結局5年後にマルグリートが嫁ぐことになりますが…

ブランシュとジャンの婚約も流れまして、14歳の時に4度目の婚約をすることになりました。
お相手はホラント伯子ヨハンでした。

で、最終的にハプスブルク家のルドルフと結婚しました。

27歳の時に男の子を死産して、その合併症で亡くなったと言われています。
ルドルフはその後ボヘミア王になりましたが、1年で亡くなっています。

その美しさが原因で戦いがおこるなんて、中世における “ トロイのヘレン ” みたい。
婚約以外にエピソードが無いのが寂しいですね。

それよりさぁ、エドワード1世…賢王のイメージ満載だったのに…
エリナー・オブ・カステイルの時は愛妻家としか思えなかったし
マルグリートの時には年の差婚を乗り越えた素敵な夫婦としてブログを書いたんですけど
こんな一面が隠されていたとは… ちょっとガッカリさ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ9世王女 マルグリート

2011-12-14 22:07:32 | フランス王妃・王女
                こちらは五女アニェスです

完璧な男性を手にした王女
ルイ9世王女 マルグリート・ド・フランス
ブラバント公ヨハン1世妃


1254~1271

ルイ9世とマルグリート・ド・プロヴァンスの四女マルグリートは
3歳の時にブラバント公ハインリヒ4世と婚約しました。

ところが、ハインリヒがあまりに低能だということで婚約が破棄されました。

中世って、けっこうおバカさんとか乱暴者とか狂気を孕んだ人なんかが
平気で即位して結婚もしてたもんだと思ってるんですが、こういうこともあるんですね。

ハインリヒは1267年に廃位されて弟のヨハン(ジャン)がブラバント公になり
兄の婚約者だったマルグリートと1270年に結婚しました。
            

ヨハンは当時の封建的社会において、完璧なプリンスの一人と言われていました。
どんな方だったかあげてみますと…
騎士道精神に富み、勇敢で、正義感溢れ、スポーツ万能。
おまけに人柄が良いってことで人気者。
当時の詩や物語にも数多く登場しています。

当然もてますな…
というわけで庶子もたくさんいました。
美しい貴婦人たちとの恋愛沙汰も、人気者の証しってことになるんでしょうね。

マルグリートは結婚後すぐに妊娠しましたが、出産の時に母子ともに亡くなりました。
一瞬でも “ 完璧な男性 ” の妻になれて幸せだったかしらね?
なかなかいるもんじゃないし…



隠れたやり手なのかしら?
ルイ9世王女 アニェス・ド・フランス
ブルゴーニュ公ロベール2世妃


1260~1327

ルイ9世とマルグリート・ド・プロヴァンスの五女アニェスは
本人にはこれといったエピソードがないんですけど、子供たちに注目!

11歳ぐらいでロベールと結婚しまして四男四女をもうけました。
          
その中で、次女マルグリートはフランス王ルイ10世に嫁ぎ
次女ジャンヌはフィリプ6世妃に。
次男ウードはフィリプ5世王女ジャンヌを妃に迎えています。
省いたけど長男ユーグは、フィリプ3世を祖父に持つ
カトリーヌ・ド・ヴァロワと結婚してます。

もう、フランス王位がどこに転んでも縁続き、という関係を築いてます。
フランス王家はブルゴーニュ公領をがっつり手中に収めたかったということもありますが
こんな豪華な顔ぶれ… 縁組み作戦成功だったと言えましょう。
ただ、結婚した本人たちがどうだったかは別ですけど…

中世の王侯家の縁談は、もちろん政策重視ですから
偉い人たちが「あーでもない、こーでもない」と話し合って決めることが多かったわけですが
けっこう母君たちも根回しなんかに暗躍してたのよね。

もしかしたらアニェスも、実家の効力を最大限に利用して縁談をまとめた
知られざるやり手ママかもしれませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ9世王女 イザベル

2011-12-12 23:29:26 | フランス王妃・王女
純情すぎた王女
ルイ9世王女 イザベル・ド・フランス
ナヴァール王テオバルド2世妃


1241~1271/在位 1258~1271

聖王とよばれたルイ9世とマルグリート・ド・プロヴァンスには
フィリプ3世を含む11人のお子さんが生まれまして、王女は5人です。
長女ブランシュは3歳で亡くなっています。

次女イザベルはナヴァールと和平を築きたかったルイ9世の意向で
テオバルドに嫁ぐことになりました。
            
テオバルドが18歳、イザベルが13歳の時に結婚しました。

花嫁が幼いので、新婚当時はもっともだと思われるんですが
この二人、極度に内気で恥ずかしがりやだったということで
一緒に眠る時も服を脱がなかったと言われています。

かなり前にNHKでやっていた(主にフランス)王家とカトリックの番組を思い出した!
まだ教皇の権限が絶大でカトリックが崇め奉られていた当時
快楽のみのセックスは罪とされていたんですって。
でも後継ぎは生まなけりゃいけない、ってわけで
胸のところと脚の付け根のところに穴が開いた、ゴワゴワの麻袋みたいな服を着て
痛みを伴いながら床入りをしていたっていう内容だったわけですが…
胸のところも穴が開いてるっていうのがさぁ… 逆にいやらしくないですか?

閑話休題

だからかどうか、テオバルドとイザベルには子供はいなかったといわれておりますが
近頃では16歳ぐらいで子供が生まれたという説もあるそうです。

敬虔なイザベルは、父王ルイ9世とテオバルド2世が参加した第8回十字軍に同行しました。
しかし、遠征中の1270年8月にまずルイ9世が、12月にテオバルド2世が亡くなりました。

イザベルは妊娠中だったと言われています。
フランスに戻りプロヴァンス(Provence)で過ごしましたが
2ヶ月後に出産で亡くなったとされています。
夫が眠るプロヴァン(Provins)に埋葬されました。

死に瀕したイザベルが何をしたかって言うと…
「死体をしっかりくるんで、骨になるまで一部分でも肌が見えないようにしなさい」と
侍女に言いつけたそうです。

さすが聖王の娘! って、他に言い残すことはなかったんでしょうか?



              
わざわざスペインに嫁いだのに…王妃にも王大后にもなれなかった
ルイ9世王女 ブランシュ・ド・フランス
カスティーリャ王子フェルディナンド妃


1253~1323

三女ブランシュは、ルイ9世が第7回十字軍に参加し、捕虜になっている間に生まれました。

1268年にカスティーリャ王アルフォンソ10世の王子フェルディナンドと結婚しました。
ルイ9世の長男ルイはフェルディナンドの姉ベレンガリアと婚約してますので
(長男)ルイが16歳で亡くならなければダブル婚となったんでようね。

結婚から7年後、フェルディナンドが父王に先立ち亡くなります。

ブランシュには二人の王子が遺されましたが、まだ王位継承権はありませんでした。
フェルディナンドの弟サンチョが「自分が王だ」と言い張りまして
兄のフィリプ3世はカスティーリャ侵攻まで考えたのですが
結局サンチョが父王アルフォンソ10世までも倒して即位します。
        
ブランシュはフランスに帰り、二度とカスティーリャには戻りませんでした。
二人の王子は祖母のヴィオランテ・ディ・アラゴンが必死でサンチョ4世から守り抜きました。

二人の王子アルフォンソとフェルナンドはカスティーリャ王位を奪い返そうと
アラゴンなんかの力を借りて戦ったようですが、王になることはかないませんでした。

ブランシュはパリで亡くなっています。

アルフォンソは後にシャルル9世から称号をもらってますんで
フランスに行ったんじゃないかしらね?
その時に母ブランシュと会えていたらいいんですけど…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ8世王女 聖イザベル

2011-11-30 23:04:46 | フランス王妃・王女
俗世の男性より神を選ぶ
ルイ8世王女 イザベル・ド・フランス


1225~1270

ルイ8世とブランシュ・ド・カスティーヨには13人のお子さんがいまして
そのうち王女は3人ですが、長女ブランシェと次女アニェスはすぐ亡くなってしまいました。
長女ブランシェの誕生から20年後、12番目の子として生まれたのがイザベルです。
            
父王ルイ8世はイザベルが1歳の時に亡くなると、母ブランシュがルイ9世の摂政に就き
幼い子供たちの教育を一手に引き受けることになりました。
どうやらブランシュの教育方針が敬虔だったみたいですね。
兄のルイ9世は聖王と呼ばれていますし、イザベルも幼い頃から信心深い子供でした。

イザベルは王家の言いつけよりもフランシスコ派の聖職者たちの教えを尊重していました。

唯一のフランス王女ってわけで、イザベルにも各国からの縁談が舞い込みます。
けれどもイザベルはいくつかの婚約を破棄しました。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と皇后イザベラの皇子コンラートとの縁談は
ローマ教皇インノケンティウス4世も承認していたものでしたが、これも固辞しました。

インノケンティウス4世は神聖ローマ側に圧されてしぶしぶ結婚を承認してたのかしら?
すぐに「神に身を捧げ処女として生きることを決心するとは!」と賞讃を与えました。
だって、ものすごい広告塔になるものねぇ…

しかし一人しかいない王女を政治に利用しないとは…当時では考えられないことですね。
母ブランシュが敬虔な娘を後押ししたんでしょうかね?
だとしたら、母親の言いなりだったルイ9世も黙認するしかありませんな。

教皇のお言葉に気をよくしたのか、イザベルはクレア派の修道院を建てたいと考えます。
優しい兄ちゃんルイ9世は妹のために、ルブレの土地を手に入れてあげました。

イザベルは修道院長になることは拒み修道院で暮らすこともありませんでしたが
聖職者は自ら厳選し、わざわざ修道院の近所に移ってます。
なんかさぁ、オーナーとして、近くで雇われ社長(修道院長)に睨みを効かす感じですか?
だったらいっそのこと社長(修道院長)になってくれた方がまわりも気が楽なんじゃない?
オーナーの “ 鶴の一声 ” で騒動になる会社(球団か…)もあるんだからさぁ…

そんなことを一介の信者がやっていいのかね? と甚だ疑問なんですけど
イザベルは教義の改訂なんかもやっちゃってます。
そんなこと勝手にしたら教皇が怒り心頭で破門するんじゃないの? と思いきや
フランスやイタリアの修道院で取り入れられたそうですよ。
カトリックの教義に則った改訂だったんでしょうね。

影のオーナーなんて言っちゃったけど、イザベルはその後も信仰篤く
病人や貧しい人々に手を差しのべ続けて人生を送りました。

1270年にロンシャンで亡くなりました。
で、ここからが聖人伝説なんですけど、教会の墓地に埋葬されたイザベラを
9日後に掘り出してみると(なぜに掘り出す?)まったくもって腐食がなかったらしい…
そして墓石にはたくさんの奇跡の跡が残っていたらしい…

イザベルは列聖されてはいないようなんですけれども
1521年にローマ教皇10世がロンシャン修道院でイザベルを讃えることを許可しました。

そんなエピソードが残るロンシャン修道院ですが、フランス革命の際に閉ざされ
売りに出されましたが購入者が見つからず取り壊されたそうです。
もったいないですね フランス革命軍は見境なしだからさぁ…
由緒あるものは遺しとけばいいじゃない?
修道院があった場所は1857年以降、ブローニュの森になっております。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王フィリプ2世王女 マリー

2011-11-21 23:32:26 | フランス王妃・王女
                肖像画が無いので母アニェス像

父王の横暴で身分が定まらず
フィリプ2世王女 マリー・ド・フランス
ナミュール公フィリプ1世妃/ブラバント公ハインリヒ1世妃


1198~1238

以前わたくしがさんざんぱら悪口を書いたフィリプ2世は3度結婚しています。
王女はマリーだけで、三人目の妃アニェス・ド・メラニーの子です。

フィリプ2世は二人目の妃インゲボルグと強制的に離婚しアニェスと結婚しましたが
この結婚をローマ教皇インノケンティウス3世は認めませんでした。
フィリプの要請でなんとかマリーと弟のフィリプは嫡子となることができました。

しかし、1213年、幽閉されていたインゲボルグの復帰で
マリーとフィリプは庶子になりました。

         

マリーは2歳の時にスコットランド王子アレグザンダー(2世)と婚約していました。
この婚約は4歳の時に破棄されます。
なんでしょね? インゲボルグの実家デンマークからのクレームでしょうか?

すぐにイングランド王ジョンと敵対していたブルターニュ公アルチュールとの
婚約が決まりましたが、翌年アルチュールが行方知れずになったため消滅しました。

ちなみに、スコットランド王アレグザンダー2世は後に
ジョン王の王女ジョアンと結婚しました。

        

結局マリーはナミュール公フィリプ1世と結婚しました。
フィリプの姉イザベルはフィリプ2世の最初の妃です。

フランドル家は当時フランスと戦争中で、フィリプは投獄されていました。
許されぬ恋かしら? だとしたらロマンティックですね。
実際はたぶんフランドル家を懐柔する狙いがあったと思われますが
ともあれ、フィリプはマリーとの結婚で自由を得ることができました。
でもフランドルとエノーの貴族は大激怒!そりゃそうだわね。

子供ができないまま、フィリプは1212年に亡くなりました。

マリーは翌年、ブラバント公ハインリヒ1世と再婚しました。
ハインリヒの前妃はイングランド王スティーヴン王女マリーの娘マチルダです。
女の子が二人生まれていますが、妹の方は若くして亡くなっています。
ハインリヒ1世と最初の妃マチルダの長女マリーは神聖ローマ皇后になったりしてるんですけど
マリーの娘はそんなにいい縁談がこなかったみたいです。

40歳で亡くなりアーフリゲム(ベルギー)の修道院に葬られました。

フィリプ2世とマリーの母アニェスの結婚が認められていたらどうだったでしょう?
なんたって唯一のフランス王女ですから、人生が違っていたかもしれませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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